物語は続くよ、世界の果てまでも⑦
今日はアナタの夢
遠くない昔、アナタは、とある囲いの中にいました
そこにアナタのものはなく、アナタ自身がものでした
だけどやっと、アナタがアナタになれる方法を見つけました
白くて柔らかい毛に包まれて、その美しい声を響かせて、
大切なお友達と一緒に、大好きな人の匂いがする、
囲いの中に隠れました
外からはアナタを呼ぶ声が聞こえます
でも、もう痛いのは嫌でした
これはヒツジの夢
──夢の中で目が覚める。
眠る前まで近くのテーブルに置いてあった『世界に恋したオトメ達』以外の本は消えていた。僕の記憶力の問題なのだろうか。
頭を再び疑似枕に預けて天井の木目模様を視線でなぞって心を落ち着ける。起きていても眠っていても、考えることは今日の磐井さんのことばかり。
付き合いは短いが、彼女のあんな姿は初めて見た。体調不良だったならそう言えばいいのに。具体的な症状まで尋ねるほど僕だってノンデリカシーではない。
それとも、また別の理由があるのだろうか。ああも拒まれると不安になって、知りたくなってしまうのもまた事実。あれ? やっぱり僕ってデリカシーがない?
「あー、面倒くさいし落ち着かない。外の空気でも吸おうかな」
立ち上がり、その場で伸びをする。鼻から思いっきり息を噴出したのと同時に、紙がパラパラ捲れる音がし、開かれた本の頁の隙間から赤い蝶が飛び出した。
「蝶?」
ついこの前見かけた、僕をあの不思議な夢に、おかしな恰好をした磐井さんを追いかける夢に誘った、赤い蝶だった。捕まえようとするがまた逃げられ、蝶は扉の隙間を器用に抜けて外に出ていった。ちなみに桜月夜に入ると、現実の記憶をそのまま引き継いでいるから、前回の夢の内容もそのままついてくる。つまり、夢の中で別の夢のことも覚えているという状態だ。ジュディ・オングの歌みたいな感じ?
「ちょ、待てよ」
扉を開けて外に飛び出す。蝶は腹ペコ達の間を縫うようにしてどこかへ向かっていく。
今ならまだ追いつける。けど、そうするべきなのか正直迷う。
ただの勘だけど、赤い蝶は僕を磐井さんの夢に連れていきたいんだと思う。意図や目的はわからない。もしかしたらタワレコのあれと関係があるのかもしれない。
だけど、あの訳の分からない世界で僕にどうしろと? 前回なんてアホ毛ポニテ毛玉を追っかけたぐらいで誰かにとってプラスになるようなことはしていない。僕にとってプラスなことはいくらかあったけど。
それに、事情は知らないけどあんな強めに拒否られるとこっちもあまり良い気分はしない。勝手に苦しんでいなさい、なんて突き放したくもなるのもまた事実。人間って複雑。
うーん……。これ以上考えんの面倒だし、追っかけてみっかな。どうせ夢なんだし。
ジグザグにジャンプしながら腹ペコ達の間を抜け、蝶の後を追う。着地した時の風圧で腹ペコ達の髪が乱れる度に、あの芳しい香りが漂った。
飛び越えるのもできなくはないけど、着地の時に足の骨が砕けてしまうからやらない。
一軒の邸宅に辿り着く。Gu中の時と比べたらだいぶ近かった。図書館の目と鼻の先。
ブロック塀と芝生の庭を挟んだ先の窓にはカーテンが引かれ、白い光が漏れている。
蝶は数奇屋門の間をすり抜け、玄関の扉の投函口に入ってしまう。僕は門を潜り、飛び石の上を歩き、引き戸に手をかける。
「開いてる……」
誰かに見られていたら泥棒と勘違いされるな、なんて考えながら、僕は扉を開けた。
強烈な光に思わず目を瞑ってしまう。
おずおずと目を開くと、光は止んでいたが、その代わりに世界が一変していた。
空はGu中の時と同じく薄ピンク色に白の筋が複雑に絡み合っていて、吸う空気が熱気と湿り気を帯びている。遠くから聞こえる蝉の大合唱と、その中に混じるピアノの音とクリアで柔らかい歌声。
「こっちから聞こえる? 勝手に行っても……夢だしいいか」
左へ曲がると、案の定そこには毛玉状態の磐井さ……じゃなくてタマがいて、庭の芝生に置かれた電子ピアノで演奏していた。
歌っている曲は聞いたことないけど、ゆったりとしたメロディーが聞いて心地良い。
タマは演奏に夢中僕に気づいていないようだ……って、あれは何だ?
彼女の首には、前の夢には無かった首輪があった。あれのせいで少し歌い辛そうだ。
「タマちゃん、そろそろお友達が……あら?」
右手側の縁側からクリーム色の長袖ブラウスを着た年配の女性が現れる。どっかで見かけた気がするけどよく思い出せない……。とりあえず会釈しておく。
「タマの知り合い?」
「えーっと、同じ高校に通ってます、継橋 明正といいます。お宅のお孫さんとは──」
「高校? あの子、まだ中学生よ?」
「えっ、中学生?」
「ちなみに、どこの高校?」
「M北高校です」
「タマがM北? うふふ、嘘が下手ね。大の勉強嫌いのあの子が行けるわけないわ」
「じゃあ僕が知ってる磐井さんはどこの誰なんだ……?」
「アナタ面白いわね。継橋君ね、覚えたわ。……ところで」
「はい?」
「さっき、迷わず『お孫さん』って言ってたわよね? それって私が孫がいるような年齢に見えたってことかしら?」
「しししし失礼しました!」
嘘、この人ってタマのお母さん⁉ しくじった……でもそうだよなぁ、フネとワカメみたいな親子だっているよなぁ。
「いいのよ別に。私、タマの祖母ですもの」
投げたフリスビーを犬が取りに行っている隙に隠れ、戻ってきた犬の慌てふためく様を陰から見てる時のような笑みを浮かべながら、女性は正座する。
その笑い方、高校で何度か見かけたなぁ。
この人ゆずりだったのか。
「ところで、アナタもタマの演奏仲間?」
「演奏? いえ、僕は……」
僕の言葉を、ブロック塀が砕ける音が邪魔する。
土煙が舞い上がり、そこから何者かがこちらに近づいてくる。
「タマ! 和室の押し入れに逃げなさい!」
「……!」おばあさんの叫びと同時に跳躍するタマ。
それを阻止するかのように黒い物体が真っすぐ飛んできてタマの足に直撃。彼女はバランスを崩して地面へ落下する。
土煙から現れたのは、狼か犬のようなマスクを被った黒のパンツスーツ。シルエット的に女性だと思われる。
「やっぱりここにいたのね。ここしかアナタが行ける場所はないから当然だけど」
起伏を感じない声。子供の呼びかけやじゃれつきをあしらう母親のそれに似ていた。
近くのピアノを蹴り壊し、一歩一歩タマに近づく黒スーツ。
「帰るわよ。いい加減、自分が何なのか自覚しなさい」
「……⁉」顔を毛玉の中に引っ込めて震えるタマ。
「ちょっと、この子にまだそんな態度で──」
「お義母さん(アナタ)は黙っててくださる?」
黒スーツは、自分とタマの間に割り込んだおばあさんの脇腹を右足で蹴り飛ばす。
「うっ……」物置に激突し、苦悶の声を漏らす。
それを意に介することなく、黒スーツはタマに投げつけた、黒いビジネスバッグを回収する。
タマへ近づき、左手で毛玉の中の彼女のポニテを掴んで無理やり引っ張り出す。首を激しく振って逃れようと抵抗するが黒スーツは力を緩めようとしない。
ポニテを持ったまま壊れたブロック塀の方へ踵を返し、庭を出ようと歩を進めるが、突然立ち止まる。そして、心底呆れて処置なしと言わんばかりに溜め息をつき、
「親に逆らうことがだれだけ愚かなことなのか、まだわからないみたいね」
そう呟くと、バッグから手を放し、加減も容赦もせずに娘の頬をひっ叩いた。
パチンッ! パチンッ! パチンッ! パチンッ!
タマの頬が音を立てて、赤い痕がそこに重なっていく。
その度に彼女の瞳から涙が飛び散った。それは、残酷なくらい綺麗な血しぶきだった。
「イタッ……イタイ! ヤメテ、ママ、ママ!」
「当然でしょ? 痛くしてるんだから。こうでもしないとわからないアナタが悪いのよ」
唖然として呼吸すら忘れかけた。一方的な暴力をこんな間近で見たことがなくてどうしたらいいのかわからず、感情が怯懦に支配される。
あまりにも唐突で、あまりにもスムーズだった。
これまでにも何度も行われてきたかのように。
タマのくぐもった呻き声が聞こえなくなった。それを確認した黒スーツは軽く頷いて、
「これで懲りたでしょ? わかったらもうおかしなことは考えないことね」
ポニテを放してバッグを拾い、彼女の頬を傷つけた右手を労うように見つめる。
「直子さん。アナタ、それでも母親なの……?」ふらつきながらおばあさんは立ち上がり、言った。「タマのことを、愛しているって胸を張って言える?」
「あら、愛なんてなくても親にはなれるんですよ? 現にこの子は私のことを──」
「ふざけないで!」脇腹を抑えて一喝する。「親にとって、自分の子供が傷つけられることがどんなに辛くて、苦しくて、歯痒いのかわからないの?」
すると黒スーツは、母親は侮蔑するように鼻を鳴らし、
「家事と愛想笑いさえしていればよかったお義母さん(アナタ)は知らないでしょうけど、社会に出れば身動きをとるだけで悪意や理不尽という刃に切りつけられるんですよ。一々痛がって立ち止まったり逃げ出しても誰も助けてはくれない。受けた傷の痛みに耐えて、そこから身の処し方を学べる者でなければ生きていくことはできないんです」
バッグの持ち手を強く握りしめて、
「この子もあと数年で社会に出て、悪意や理不尽に晒されるでしょう。そうなった時に今まで育ててもらった恩を忘れて親に甘えようとする惰弱な人間になられては困ります。だから、間違ったことをする度に痛めつける(こうする)ことで、嫌でも学ぶ力がつくでしょ? つまり、これはこの子のためにもなるんです。愛などなくても子供は育てられます。むしろ、お義母さん(アナタ)の言う『傷つけられることが辛い』なんて甘い考えこそが子供をダメにするのではなくて? ……無駄な時間です。もうお黙りになってください」
ブロック塀の一部を物置へ蹴りつけるが、狙いがズレたのか扉に当たって砕けた。
その音を聞いて、僕はすっかり立ち竦んでしまい、一歩も動くことができない。
夢なのに、夢だからこそ、声高々に「もう止めろ!」と叫べるはずなのに。
だけど、この人は違った。
「ええ、そうね」タマのおばあさんはゆっくり歩み始める。目線は母親の方を向いているのに何故か僕まで見据えられている気がした。「家の面子のために数十年淑やかな妻を演じていただけの私には、アナタの言う痛みなんてわからないわ。もしかしたら私がいることで、タマは今よりもっと人に甘えるようになるかもしれない」
頬と口角の下に伝った痕がついた、息も絶え絶えになったタマを目指して、
「でもね」
バランスが取れなくて躓いても、呼吸をする度に顔を顰めても、決して足は止めず、
「一ヶ所くらい、恩やお金なんて気にせずに休める場所があったっていいじゃない。
そういう場所になるのが本当は、親の役目なの。
傷だらけになって帰ってきた我が子をいつでも抱きしめてあげる。
寂しがっていたら、しつこいくらい声をかけてあげる。
迷っていたら、背中を押してあげる。
自分自身を傷つけていたら、その手にお箸とお茶碗を持たせてあげる
まだ頑張れるって言ったら、優しく送り出してあげる。
それが親の、アナタの役目なの。決して──」
遂に、母親と対峙して、
「決して、自分の手で傷つけたりしないのよ!」
高らかに断言する。
それは、聞く人の心を揺さぶり、揺らぐことのない真っすぐな言葉だった。
だけど。
「……邪魔です」
母親は、今度は左足でタマのおばあさんを縁側の方へ蹴り飛ばす。
「お小言はたくさんです。ましてや、もう家族でも何でもないアナタの言葉なんて誰が聞く耳持つものですか」
だが、それは決して無駄ではなかった。
現に、その言葉のお陰で僕の心に絡みついていた怯懦の蔓は軋み、一歩踏み出すだけで簡単に解放されたからだ。迷いは、今消えた。
僕は地面を軽く払い、両足に思いっきり力を込め、身を屈める。
「ん?」地面を擦る音に気付いた母親が体ごと振り返る。「あら、アナタは──」
足を縮めて、縮めて、縮めて縮めて、縮めて縮めて縮めて……。
放った。
「がっ……は」母親の呻き声が頭上から聞こえる。
ついでに一瞬だけ顔が柔らかい感触に包まれる。あ、やっぱり女だったんだ。
黒スーツは物置の方へ吹っ飛んでいった。
「だ……大丈夫、タマ?」鼻を擦りながら尋ねる。
「コクコク! コクコク!」タマは力強く頷く。
タマに手を借りて立ち上がり、彼女にキラキラ光る瞳で見つめられ、気恥ずかしさのあまり目を逸らす。拳や蹴りなんてカッコいいことできなくても、この身一つさえあれば誰かを守れるもんだね。
タマと笑い合う。すると、ガラガラという音を立てて、おばあさんが縁側の残骸を払いのけながら立ち上がるのが見えた。タマとそっちへ向かおうとすると、
「いったいわね。何も考えないで突っ走る男って……バカだから嫌いなのよ」
「え……?」
僕の達成感など露知らず、平然と母親が立ち上がる。
首を何度か回し、明らかな敵意を放ちながらこっちに近づく。茶色の瞳が初めて僕を邪魔する存在として見定めたように思えた。
気がついたら、目と鼻の先の距離まで肉薄していた。
母親がフィギュアスケート選手みたいに回転しながら跳ぶ。
刹那。僕の胸を衝撃が突き抜けた。
吹き飛ばされ、ブロック塀の瓦礫に突っ込む。空気を求めて胸が激しく上下するが、一定のところまで上がると逃げ返るように引っ込んでしまう。
起き上がり、蹴られたところを手で触れる。
怖気が走った。頬に触れているのかと一瞬疑った。胸骨が粉々に砕けている。
痛みは全くない。意識が朦朧としている感じもない。だから、まだやれる。瓦礫を掻き分けて体勢を整え、母親に立ち向かうだけの体力は十分にあるはずなのに。桜月夜では何十回も体を喰い千切られてきたはずなのに。
体が、全く動かない。
動けない。
指一本上げるだけで自殺行為に思えた。恐怖で押し潰されて、身動きが取れない。
「他所の家のことに首を、この場合は体ごとかしら、突っ込んでくるなんて相当育ちが悪いみたいね。親御さんはさぞや嘆いているでしょうね」僕を見下ろす母親。そのつま先が僕の頭頂部に触れる。「どうでもいいことだけど。ほら、早く来なさい」
足元の方から、タマが歩いてこっちに近づいてくる音が聞こえる。
このまま寝そべっていると、タマを守ろうとして二度も蹴り飛ばされたおばあさんの勇気を無駄にし、あの冷酷無比な化け物に連れていかれてしまう。
なのに、動けない。瓦礫のヒンヤリした冷気が体の熱を冷まし、脳がクールダウンする。
……あー、ダメだ。僕の悪い癖が、面倒だからどうでもいいやって投げ出そうとする思考が識閾の水面からゆっくり顔を覗かせる。
どーせ夢なのに、風が吹いたら現実に戻れるのに、何を熱くなっているんだ。
第一、ブロック塀を壊したり、人を何mも蹴り飛ばすような人外を相手に僕が勝てるはずもない。さっきのロケット頭突きは、その、アレだ。不良漫画読んで喧嘩したくなったり、恋愛漫画読んで恋したくなっちゃう一過性の感情爆発だ。気まぐれ気まぐれ。
本当は、こういうイザコザなんて関わりたくないんだ。人一倍面倒ごとが嫌いな僕がわざわざ首を、この場合は体ごと、突っ込まなきゃならない義理も責任もないんだから。
そうさ。このまま寝そべっていればいいんだ。そしたら風が──。
「? 鼻の奥が痛い……あれ? 視界が霞んでる」
耳に冷たい何かが触れる。もしかしてこれって……。
あー、もっと面倒なことになったー。
もう、どうでもいいからさっさと覚めてくれよ。
そう願って、僕は目をきつく瞑った。
「他人ん家で随分好き勝手に暴れたみたいだな。直子」
頭上から初めて聞く、なのに聞き覚えがある男性の声がした。
頭を僅かにもたげて視線をそっちに向ける。
「しかも、知らないガキをぶちのめすとか、育ちが悪いのはお互い様じゃないのか?」
「……ふん」
そこにいたのは、アコースティックギターを肩に担いだ男性。細い体躯とボサボサ髪、鼻の下と顎に生えた髭、ヨレヨレの白ワイシャツとボロボロのジーパン。とても頼りにはならなさそうだが、その表情は自信に満ち溢れていた。
「アナタが来た以上、私はいられないわね」黒スーツが負け惜しみのように呟く。「いつまでこの子と一緒にいられるかしら」
驚くくらいあっさり、母親は去った。
呆気に取られていると、
「ほれ、もう大丈夫だ。一人で立てるか?」
「……はい」僕はジャージの袖で涙を拭い、瓦礫が掌に食い込むのを我慢しながら立ち上がる。すると、白のタオルを投げ渡される。
「それで顔拭け。せっかくの可愛い顔が台無しだぜぃ」
これが、スマートな大人の男性というやつだろうか。ちょっとカッコいい。
「タマー!」
いつからいたのか、男性の後ろから僕より小さな人影が飛び出す。
白のワンピースを纏った彼女は……。
「あれ、あの人って」
「ああ、俺が連れてきた」
男性はニカッと笑って答えた。子供みたいな無邪気な笑顔だった。