物語は続くよ、世界の果てまでも③
四限の中盤から雲行きが怪しくなり、昼食を買いに廊下に出た時には、雨粒が社畜SEのタイピングよろしく絶えず窓を叩いていた。
放課後。机に詰め込まれた『学校来るな!』という新手のラブレター(ノートの切れ端製)を丁寧にセルフシュレッドして教室を出る。僕がチクるっていう考えはないんかね。
一向に止む気配のない雨の中目指すのは、下校途中にある、M市最大規模の図書館。偶然廊下で会ったウメタカを誘ってみたが、水曜日である今日はバイトとのこと。
「あー、ファミレスだっけ? 美味しい賄いとかありそうでいいな」
「だったら一緒に働くか。一緒のシフトだったらコンビニみたいなことは──」
「いやー、もう暫く直帰宅部ライフを謳歌したいから遠慮するよ」
「……そうか」
「うん。気をつけて行ってきてね、あなた♡」
勤労少年を甲斐甲斐しく見送った後、霏々と雨が降る中、自転車を飛ばす。
かつて通っていた中学校を横目に、図書館近くの駐輪場にマイチャリを停める。
小五の時に読んだ『氷菓』にハマって以来、僕はかなりの多読家だ。先月新聞部から発表された、高校の図書室の利用回数は当時の三年生に混じって十位に入り、司書の先生に「一年生でこんなに借りた生徒は久しぶりよ」とお褒めの言葉を頂く程度には嗜む。
摘まみ食い癖があるのが玉に瑕だけど。酷い時なんかはその日に借りて次の日に返すこともある。そもそも、幾つかあった暇つぶしの候補を潰していき、残ったのが偶々読書だっただけのことで、これじゃなきゃ嫌なんてことはない。雨の日に湧く性質の悪い陽キャ程ではないにしろ、図書館にとってはあまり来てほしい存在ではないだろう。ちゃんと読む気が無いなら端から借りるな、と今まで説教されなかったのは奇跡だ。
まぁ、入るけどね。
建物の五階と六階が目的地だ。えっちらおっちらエッチだパンチラ階段を上る。六階の返却カウンターに到着。
「返却で」
顔なじみの館員に借りていた本を渡す。
「……? あの、栞が」
「え?」
見たこともないが、その鮮やかさに惹かれて手に取った。朝の赤いアレだったりして。
「面白いな。滅茶苦茶濃い色なのに和紙みたいに光に透けるんだ」
栞を眺めながら五階の、魔導書みたいなゴッツいハードカバーから同人誌みたいな雑誌まで、種々雑多な本が手に取られるのを待つ本棚へ歩みを進める。
さて、次は何を読もうか。正直、何でもいいんだけど。
「ギブ……ベスタ が」「最近の動 九十……」「新曲……あし 」
遠くから、深々とした教養の聖地の空気を乱す雑音が聞こえる。
けれど、僕はそれよりも目の前の佳人の横顔に意識を、下手したら心も奪われていた。
濡れ羽色……いや呂色? あぁ、自分の語彙力の低さが恨めしい。
艶やかな黒髪を肩甲骨あたりまで垂らし、時折耳にかかる横髪を指で払い、伏し目がちの端麗な姿勢で手元の一点だけを見つめるその姿は、まるで図書館という空間そのものにはめ込まれた美人画のようだ。
瞳が彼女の引力に逆らえない。彼女の周りだけ急にクリアになって、睫毛が重なる瞬間や彼女が来ているセーラー服の皺まで脳裏に焼き付く。てか、うちの高校の制服だ!
「LAK……マジ神き !」「……来しゅ ライブ」「てか 駅近くのスタジ……」
僕がたいそう間抜けな顔をして彼女に見惚れているうちに雑音のボリュームが大きくなる。読書を妨げられた利用者達が顔をしかめる。
読書室でM高校の学ランを着た男子三人が、携帯を弄りながら何やら盛り上がっている。勉強目的なら六階の学習室に行けばいいのに。いや、そういう問題じゃないか。
県内有数の進学校の生徒がこの体たらく。教養はあっても修養は積んでいないみたい。
僕はこの空気がとてつもなく苦手だ。誰かが注意しに行くのを待つ人、苛立ちで顔を歪める人、我関せずと決めこんで無視する人達によって生み出させる息苦しい空気。
例の佳人も流石に気づいたのか、彼らの方へ眼差しを向ける。
この人はどんな反応をするのか、その汚れなき頬に紅涙が伝いでもしたら僕が騎士でも従僕でもペットでもなってあの不届き者共を懲らしめてやろう、と僕が息巻いていると、
「落丁人間……」
そう呟き、彼女は手に持った本をテーブルに丁寧に置いて勢いよく立ち上がり、強く拳を握った両腕を震わせ、男子三人の方に顔を向けた。
まさか……。
そのまさかだった。佳人はずんずんと騒音ボーイズ目指して進撃していく。
僕は彼女を追い越して、
「ちょっと静かにしてもらえませんかね?」
無謀にも男子三人を注意する。さっきまであった押しつけがましい妄想は霧散し、ここで動かないとお前は後悔するけどいいのか、と叱咤する激情に背中を蹴飛ばされた。
「他の人の迷惑になっているので……」
こんな月並みな注意で反省するだけの良識があったら、そもそも高校生にもなって図書館で騒がないってことぐらいわかっている。けど、これが僕にできる限界だ。
男子三人は、自分達よりちっちゃい僕に視線を向け、互いに顔を見合わせて、
「それはそれは申し訳ない‼」
「ご迷惑をおかけしました‼」
「今度からは気をつけます‼」
小学校の卒業式を想起させる大声をあげる。勉強し過ぎると一周回ってアホになるらしい。迷惑そうな視線が僕にも刺さり、まるで僕もこいつらの仲間のように見られる。
うへー、面倒くせー。やっぱ、ウメタカみたいにはいかないか。
「どうされましたか?」
年配の男性館員が心底ダルそうな顔して近づいてくる。
途端に、昔流行ったペンギンのコラ画像のように騒ぎ立てていた三人が大人しくなる。
「別に……」「どうもしないっすけど」「もう帰るんで……」
ブツクサ言って、そのままこの場を去ってしまった。
あまりの変貌ぶりに呆気にとられた僕に館員は、今後こういうことがありましたら云々、と本来彼らに言うべき注意を僕にしだした。納得いかん。アンタ、ずっと騒音ボーイズの近くで知らぬ存ぜぬって顔して作業してたじゃないか。
周りを見渡すと、さっきまでこちらを見ていたのであろう人達が気まずそうに、あるいは迷惑そうに顔を背ける。アンタら、何もしてないくせにその態度は如何なものか。
はいはい、帰りますよ。はぁ……どこでも僕は爪弾きか。
とことん報われない虚しさに肩を落としつつ、僕は出口へ足を運ぶ。
本は……もうここには来ないし、借りなくてもいいや。
すると、
「うわっ!」「うをっ⁉」「うんっ⁉」
突然、前を歩いていた男子三人が盛大にズッコケた。しかも、どういう原理でなのかわからないけど、ズボンとパンツがずり落ちて、見事な半ケツ状態になっている。
気まずい静寂。誰もが石像のように硬直している中、
「不潔」
例の佳人がポツリと、しかし明澄な声色で呟いた。
誰かが吹き出し、館内の空気は一気に華やいだ。
唯一その雰囲気に馴染めない彼らは惨めに舌打ちをして、そそくさとその場を去った。
胸がすくような快感で内心ニンマリ笑顔な僕のもとへ、嬉しいことに彼女が近づいてきてくれた。あ、ぱっつん前髪だったんだ。清楚な感じがとても可愛い。
「ありがとう。もし私がいっていたら、どうなっていたか……」
「いや、そんな、感謝されるようなことじゃ」
「何かお礼がしたいのだけれど、今はサイン本くらいしか用意できなくて」
「いいですよ礼なんか……サイン本?」
読み聞かせしているような、静かで優しい彼女の声で緊張が解れていく。
世界一、痛気持ちいい怪我の功名ではなかろうか。
「あ、だったら、借りる本を選んでもらえませんか?」
「!」
彼女は「待ってました!」と言わんばかりに頬を上気させ、どこかへ早足で向かう。
待つこと暫し。インクと紙の香りに愛おしさを覚え始めた頃、
「こ、これ、とてもおすすめだから……」
乱れた呼吸のまま僕に進めてきたのは、始廻原巻という作家の『世界に恋したオトメたち』というハードカバーの小説。一ページ一ページ噛み締めて読もっと。
「あ。ありがとうござ……?」
受け取る時、彼女の左腕に白のウサギの縫いぐるみがひっついていることに気づいた。