物語は続くよ、世界の果てまでも②
二階の玄関に続く階段を上る最中に、ちんけなプライドを捨てて必死に頼み込んだ結果、一限までに返すことを条件にノートを借りることができた。ウメタカと別れ、我が愛しの二―四の教室目指して廊下を進む。
目的地である教室の前で、見知った人物を見かける。
「じゃあ、よろしくね」
「うん、わかった……」
去っていくセーラー服に愛想よく片手を振った後、もう片方の手に握った数枚の紙には目もくれず、呆けた顔をして明後日の方向を見る彼女に僕は声をかけた。
「おはよ、磐井さん」
「あ、メーメー。おはよー!」
雲間から差し込む光のような笑みを浮かべて挨拶を返してくれた彼女、磐井珠さんは紙を二つに折り畳んでロッカーの上に乗せ、手を振ってくれる。磐井さんとは去年の十月の音楽の授業でひょんなことから話すようになり、四月からはクラスメイトとして顔を合わせれば挨拶を交わす仲になった。もっと言えば喫茶店跡で寝起きしている理由を話すくらい僕は心を開いている。だって超良い人なんだもん。けど、そのメーメーって呼び名は止めーてほしい。こっちもタマタマって呼んじゃうぞ。
「ちょーっと待って」
教室に入ろうとすると、磐井さんが僕の学ランの袖を掴む。
「ななな、なんですかー⁉」
あ、あの……そういうことされると意識しちゃうし舞い上がっちゃうし顔から火が出て焼け野原になっちゃうから要件はお早めにぃ。
「せっかくだし、一緒に日向ぼっこしようよ。話相手がいなくて暇だったの」
「えっ、いや、僕これから古典の予習しなきゃなんだけど」
「大丈夫だよ、どうせシキブンが一人で喋ってるだけだし」
「でも指名される可能性も無きにしも非ずって感じだから」
「じゃあ、ここでやりなよ」
「えぇ……よくわかんないけどわかったよ」
「ちょっと、どこ行くの?」
「教室にノートあるから取りに行こうかと」
「ねぇ、話聞いてた? 一人だと寂しいから一緒にいてって言ったでしょ?」
小さく頬を膨らませる磐井さんのポニーテールが高い位置で左右に揺れる。
「そんな庇護欲そそられるフレーズ、聞いた覚えがないね。ああ、もう面倒くさい。どうしてもその手を離さないんだったら、無理やりにでも一緒に来てもらおうか!」
磐井さんの腕を掴み、引きずってでも教室を目指す。彼女の方が僕より十㎝ぐらい大きいから、傍から見たら駄々をこねる弟とその姉のように映っているのかもしれない。
「は、放してください……。私、こういうお店で働く気なんてありません……」
「人を悪質なスカウトマンみたいに……。早く入ろうよ。何があなたをそうさせるの?」
「だって、直射日光が眩しいんだもん」
「日向ぼっことは……じゃあカーテン閉めれば?」
「皆が皆眩しいと思ってるとは限らないし」
「磐井さんは優しいね。僕は日光とか気にしないから教室に入るね」
「ねぇ、話聞いてた? 一人だと寂しいんだってさっき言ったばっかでしょ?」
ケタケタ楽しそうに笑う磐井さん。この人、こんなウザ絡みする人だったっけ?
そうこうしている内に、朝のHRを告げるチャイムが鳴り響いてしまう。
あぁ……終わった……。女子との楽しい会話が? なわけ。
「ほら、おかしなこと言ってないで入るよ」
「……」
磐井さんに声をかけて、引き戸をスライドする。
開くまではそれなりに騒がしかった教室も僕が顔を出した瞬間ピリついたのが肌でわかった。これでもマシにはなったんだけど。
「相変わらずだね……。別にメーメー悪くなかったのに」
後ろの磐井さんが呟く。こういうことを言ってくれるのはありがたくもあり、自業自得という自覚があるだけに申し訳ない気持ちにもなる。
「もう慣れたから大丈夫。それより、早く席に着かないと怒られちゃうよ?」
「うん……」
磐井さんは心配そうにチラッと僕の方を見て、自分の席に向かった。僕も急がないと。
ちょっと、僕が通りがかる時に恨めしそうな顔しないで。臭いのかもって不安になる。こういう、身動き一つとる度に纏わりついてくる、プールの水をかき分ける時のような抵抗感を孕んだ空気、いい加減しんどくなってこない?
どうしてこんなことになったのか。それは、僕が面倒くさがったからだ。
全ての原因は去年九月の文化祭に通じる。
僕の先輩四人が、祭を盛大に荒らしてしまったからだ。
そして、先輩達がやらかしたことと僕は無関係であることを、周りが納得するまで釈明しなかったからだ。
学生にとって、特に、それなりの進学校であるM北高校に入学しておきながら勉強を嫌がるようなチグハグ学生にとって、文化祭というのは体育以外の授業でとる睡眠によって温存・貯蔵してきた無軌道な壮気をぶつけられる恰好の……最高の行事だ。
生来の面倒くさがりの僕も、それなりに楽しみにしていた。三年しかない高校生活の、ほんの数日しかないイベントなんだから、くだらないって鼻で笑うよりはワクワクしてる方が可愛げもあるだろう。
クラスの出し物である『縁日』の準備には真剣に取り組んだし、この見た目を活かすチャンスだと女装コンテストに申し込んだくらい乗り気だった。
だけど当日。
「あっれー? 継橋じゃん!」「M北だったんか! 相変わらずちっちぇー!」「気ぃつけろよ。コイツら、教師をリンチして退学になってっから」「オメーだって、彼氏持ちに手ぇ出してケッコーヤバいだろ! 女の親が家に──」「バッカ! それは言うなって!」
教室の前でプラカードを持って宣伝していると、もう二度と関わり合いたくないと心密かに希っていた人達と最悪の再会を果たした。この時ほど神を恨んだことはない。
周りの目を憚らずに下品な笑い声を上げる四人組は、僕の小学校と中学校の一個上の先輩だった。僕と同じ学校だった人のみならず、市内中に知れ渡る程、問題児が多かった学年で、小学校では一人一枚以上は割ってるんじゃないかってぐらい窓が割れ、年に二桁は学校近くの田んぼを荒らし、救急車は常連客で、教室は常に児童の世紀末的雄叫びと教師の怒号が飛び交う無法地帯。
中学校に上がっても変わらず、創立七十年以上の学校史上初めて林間学校、職業体験、修学旅行が潰れた学年として悪名を残し、昼休みはどっかしらで喧嘩が勃発し、警官は顔馴染み、理科の実験も調理実習も行われず、すれ違うと酒か煙草の臭いがするし、身籠った身籠らせたって噂が年中聞こえる等々、枚挙に暇がない。
「先輩達も全然変わんないですね」
「あ? そりゃどーゆー意味だ?」「せいちょーしてねぇってことだろ、俺以外」「はぁー? チューボー相手にマジギレしてたガキのどこがせいちょーしてるっつぅんだよ!」
クラスの人達の視線が後ろから突き刺さる。先輩達と一緒に紊乱している気分になる。
「えっとー、ウチのクラスでは縁日を模した出し物をしてるんですけど」
「エンニチねー。……エンニチって何だ?」「屋台だろ? どこも似たようなちゃっちぃことやってんのな」「こんなんが楽しいとか発想が幼稚園児過ぎだろ! なぁ、継橋⁉」
「ははっ、そうですね。もっと楽しいことやりたかったです……」
早くどっか行ってくれないかなと念じながらテキトーに相槌を打ったり、(そうだと悟られない様に)愛想笑いしたり、おべっかでヨイショして、何とかクラスの出し物では問題を起こさせることなくやり過ごすことができた。
「継橋君」
先輩達の背中を見ながらホッと息をついていると、クラス委員長の女子がおずおずと声をかけてきた。普段は二個上の陸上部彼氏ののろけ話を楽しそうに話している彼女の顔に怯えの色が差す。
「あの人達って、継橋君の知り合い?」
「小中学校が一緒だっただけだよ」
「もしかしてTa中出身?」
「うん」
「そうなんだ……」
委員長は逃げるように女子の塊の方へ小走りする。労ってほしかったなんて我儘は言わないけど、そんな風にされると流石に傷つく。
先輩と同じ学年の、マトモな人達もこんな想いを何度も、僕の何十倍もしてきたんだと考えると不憫で堪らなかった。あの人達と同類だと括られ、周りからは避けられ、連帯責任でペナルティを課せられて本来は経験できるはずだった行事は消えて、危害を加えられないように調子を合わせる。想像するだけで気鬱だ。
だけど、その場は何とかやり過ごせた。あの人達も飽きてすぐに出ていくだろう、と高を括っていた。
それは見事に外れた。
僕のクラスから離れてすぐ、校舎一階の『帚木スペース』と呼ばれるコモンスペースで行われていた、JRC部によるハンドベル演奏に先輩達が乱入。その場にいたわけじゃないから詳細は知らないけど、活動を発表している時に下品な野次は飛ばすわ、演奏が始まっても騒ぐのを止めないわでその場を大いに荒らし、遂には部員達が号泣してしまった。
それを見かねた一般の来場者が先輩達を注意し、それに腹を立てた彼らはその人をリンチ。教師が数人がかりでその場を収めたが、止めに入るまでずっと殴られ続けた来場者は全治一ヶ月の大怪我を負い、救急車とパトカーがやって来る始末。結果、文化祭は午前中で強制終了するという胸糞悪い幕引きを迎えた。
──後日談。僕にとっては本編。
警察に連行される先輩達を群衆の中で眺めていたら、先輩の一人と目が合って、
「どーだ、継橋! 楽しかったろ? オメーのためにやってやったんだぜ! イェア!」
鼬の最後っ屁なんて可愛く思える置き土産を残していった。
後片付けには参加せず、担任、学年主任、体育教師による取り調べを受けた。
確かに面識はあるし、事件の前に会話もしたけど、騒ぎを起こしてほしいなんて頼んだ覚えはない、と事実をそのまま言ったが中々信じてもらえず、アリバイがあったから実行犯の嫌疑は晴れたものの、無関係であることはあやふやなまま放免された。
青春の不完全燃焼のガスが揺曳する廊下を進み、三階の教室を目指して埃が隅に溜まった階段を上る。片づけをする生徒達の背中や沈痛な面持ちから漂う無念な感情で息が詰まりそうだった。
教室の扉を開ける。この瞬間から、抵抗感の水が僕の周りで波立ち始めた。
着席すると、僕より先に教室に戻っていた担任が、
「こんなことになったのは先生も初めてで正直困惑──」
と話し始めるけど、その言葉は誰の耳にも入らずに埃と一緒に舞うだけだった。
以来、僕は学校内でほぼ孤立した。ウメタカや十月の音楽の授業で仲良くなった磐井さん以外の人間は僕を目の敵にするようになった。暴力を振るわれない分、なかなか悪質な嫌がらせを受けている。あからさまな無視は当たり前で、廊下を歩く度に『青春を邪魔された』という悲劇性を利用した遠回しの詰りや陰口で精神を削ってきたりもした。
僕が先輩達の期限を損ねないようにこびへつらいながら接待していたお陰で彼らがクラスの出し物で暴れなかった、ということに気づいて担任にその旨を訴えた人がいたらしいけど『継橋は彼らに同調することを言っていた』という多数の生徒の証言に掻き消され、僕が彼らと共犯なのは周知の事実となった。本心ではないとはいえ実際に言ってしまったから、モヤモヤするけど否定はできない。
ここまで来たら、僕が無実だと学校中に納得させるのは不可能に近い。それでもしつこく否定していけば、全員は無理でも信じてくれる人が出てくるかもしれない。実際、ウメタカや磐井さんは信じてくれたし。二人共、『継橋と関わるのは文化祭を潰された私達生徒全員を裏切る行為だ』という暗黙の了解が猖獗しているのにも関わらず仲良くしてくれる上に、僕に関する噂を払拭するために働きかけることを提案してくれたりと、善人にも程がある。だけど、それは遠慮した。『僕は気にしないから』と表向きはそう言ったけど、本当はそんなことして二人の顔にいらない泥が飛び散るのを避けるためだ。
それに、もう既に理解者はいるのにわざわざそういう無駄骨を折るのは面倒だ。
だから僕は、特にアクションも起こさず、その日その日を漫然と過ごしている。引き篭るのも手だけど、うるさい親を一々いなすのも面倒くさいし、ウメタカや磐井さんに対して不義理な気がするから涼しい顔で登校している。
だからこの状況は僕の自業自得だ。
それでいい。
もう『じゃあどうすれば良かったんだ』と悩んで、夜中の妙に頭が冴える時間に意味もなく頭をもたげたり徘徊するのは懲り懲りだ。