物語は続くよ、世界の果てまでも⑰
家に帰り、コンビニ弁当を胃にぶち込んで、スツールに座って意味もなくクルクル回る。三半規管は強い方だからモドしたりはしない。
現実の多武さんの話を聞いて、今まで見てきた夢は全くの出鱈目ではないと確信した。
ただ、それがわかったところで現実は何も変わらない。むしろ、腹の虫は不機嫌になる。
「説明しろー。目的を言えー。勝手に押しつけるなー。どっかで見てんのかー?」
どこの誰ともわからない人物に文句を言う。
もしかしてこの世界はシミュレーション仮説とやらで、僕は『身近の人物の夢を見るようになった人間は当該人物に対してどのようなコンタクトを試みるのか』という実験のサンプルなのだろうか。それを確かめる方法がないのが実に業腹だ。
夢に入ることに何の意味があるのか? どうして僕は入れるのか? 他にも入れる人はいるのか? 尽きない疑問が神経を逆撫でる。
「こういうの本当に嫌。明確な答えが欲しいー」
スツールから降りると、まるでタイミングを見計らっていたかのようにもう一つの扉が開く。母の顔が暖色の照明の光に照らされて不機嫌そうな表情に皺が加わる。
「おぉ……久々に見た」
「様子を見に来ただけよ。……相変わらず暇そうね。同じ育て方だったのにどうしてアンタはそんな怠惰な人間になったのかしら」
「育ち方は人それぞれでしょ。白真はああなって、僕はこうなった。それだけのこと」
「中学一年までは、アンタも白真同様、真剣に勉強してたじゃない」
「気が変わることぐらい誰にだってあるよ」
「意味が分かんない……。勉強していれば偏差値の高い大学への入学も、待遇と世間体の良い職場への就職も、良家からの知遇も得られて、周りから羨望を向けられる幸福な生涯を送れるというのに。そのチャンスをドブに捨てるなんて愚行だわ」
「学歴を過信し過ぎじゃない……? それに、どこの大学を卒業しようが裕福でなかろうが、幸せな生活は送れると思うけど」
「それは高みを知らない凡人の言い訳よ。誇れる肩書きを持ち、見合った仕事に就いて他者を統べることで多額の報酬を得ること以上の幸福なんてないわ」
顔を合わせればいつもこれだ。素でこれだ。
自分達が歩んできた道を子供にも歩かせることが愛情だと思っている。
その道の外側にいる人間を愚かだと本気で思っている。
「今はいらなくても、いつかは学歴が必要になるかもしれないじゃない。そういう時のために勉強しておくことは決して無駄ではないわ」
偶にはマトモなことも言うじゃないか。ないよりはあった方が良いとは僕も思っている。
だけど、
「『いつか』なんて不確かなもののために頑張るモチベーションなんか湧かないし。そもそも成績悪くないし。前の模試の結果、二階のテーブルに置いといたのに見てないの?」
「五教科総合の偏差値が六十ちょっとだったってだけでしょ」
「だけって……」
「白真はあの模試で八十を超えてたわ。アナタも本気出せばそのくらいいけるってことよ」
「白真は他人を見下すために勉強してたんだもん。あんなんと一緒になりたくはないよ」
「優秀な人間が自分より劣っているものを見下すことの何がいけないの? 学校の勉強も頑張れない人間なんて社会に出ても何の役にも立たない路傍の雑草以下じゃない」
「えぇ……」
身内に偏頗な学歴至上主義者がいると本当に面倒だ。特に母は、それなりの過去があっただけにそれが顕著だ。『見下されたから見下し返す』。そんな生き方でここまで来た人だ。
図書館で騒いでいたM高の生徒のような、教養だけ積んで修養はからっきしの人間なんて世の中には五万といるぐらいは社会経験の少ない僕だってニュースとかSNSとか見ていれば嫌でも知れるというのに、僕の一族の殆どは自分がそういう人種であることに誇りを持っている。俗に言うエリート様だ。
高学歴の人の中には僕の家族とは違って修養を積んだ人も沢山いると思う。だけどそれは玉石混交というか、皆が皆そうではない。加えて、高学歴じゃない層にだって性格の悪い人間は沢山いる。なんなら、前者より数は多いかもしれない。とはいえ、優秀なのに性根の腐った人間ほど性質の悪いものはない。僕も性格が良いとは言えないけど、学校のお勉強が出来たってだけで他人を見下して悦に入るような驕気は持ち合わせていない。朱に交わって赤くなりたくないし、僕までもがそういう風に見られるのは嫌だ。
「損な人生ね。折角、質の高い人間とのコネを築けるチャンスをふいにするなんて」
「質の高い人間とやらのコネクションを築いたって、それを利用する気がないんだから宝の持ち腐れ。まぁ、そもそも宝自体が腐っていているかもだけど」
「洗練された選ばれし宝は絶えず己を高めているから腐りはしないのよ」
四十七歳の割に若々しい外見を誇るように、そう言い切る。
僕が言っていたのは中身のことなんだけど。
「そんなイタい台詞を堂々と言えるのは一種の才能だね」
「口ばっかり達者になって。そんな人間に育てるためにお金かけて習い事をさせてたんじゃないんだけど」
「色んなとこ通わせてもらってあれだけど、誰もピアノ弾きたいとか、泳ぎ速くなりたいとか、塾行きたいとか頼んでないんだよね。辞めたいって言っても聞いてくれなかったし」
「何て恩知らずな……はぁ、もういいわ。前も言ったけど、旧帝大か一橋か早慶上智同志社を目指すっていうのなら高校卒業以後のお金は出してあげる。これでもだいぶ譲歩してあげているんだから。でも、その気がないなら知らないわ。勝手にのうのうと生きなさい」
「え、それって法的にアウトなのでは……?」
僕の呟きには耳を貸さず、母はカウンターに手切れ金を渡すように五千円札を投げやりに置いた。少し遅めのお小遣いだ。これで一ヶ月やっていくしかない。
渡す時の態度が少し癇に障ったから、小刀程度の皮肉を投げつけた。
「喫茶店とか開いてみよっかなー。あーでも、優秀な人間とやらが二人いても経営に失敗するんだから、相当大変な仕事なんだろうな」
「……は?」
「そうだ! M経済大学で経営学を勉強してみよっかな。確かあそこってM市内に住んでると学費が安くなるらしいし──」
遮るように扉が乱暴に閉められる。再び開くことは暫くないだろう。
再びスツールに腰掛けて、額をカウンターにくっつける。左手で一葉ちゃんの肩を抱き寄せてテキトーに弄ぶ。大人のビデオで覚えたテクで昇天させてやるぜ!
「……バカらし」
佳人の白ウサギには絶対見せたくないな。返した時に僕が淫乱だとかもしれない。あ、もう手遅れか。この一葉ちゃんを口止め料にしよう。
ベッド代わりのソファに寝そべる。面倒ごとが一時的に去った後に訪れる不快な虚脱感が汗のように流れ落ちて蝋のように固まって動けなくなる。
ただでさえ面倒ごとが二つのしかかっているのに、更にもう一つ乗っかってきたストレスで、思いっきり全部投げ出したい衝動に駆られる。各々が自分の都合だけで勝手に進んでいっちゃって、僕にそれを受け入れろと押しつけてくる。
もう知るか知るか! 僕は佳人の白ウサギに今日も慰めてもらうんじゃい!
と、息巻いていたのに、
「あっれー? どこ行った?」
学校で会った時に返せるように手提げに入れておいたのに、消えていた。
まずは店中を、その後に心の怪盗団並のカバーアクションで二階を探し回ったがどこにもなかった。
「そんなバカな……」
外に持ち出す時は必ず口のところの留め具を留めているんだから落としようがない。家にあるはずなのに……。
その後も店中を探したが白ウサギは出てこなかった。
大混乱の土日の越えて月曜日。
音楽室の一件から一週間経ったが、僕と磐井さんを遠ざける磁力は消えることなく、依然として避けられている。こっちとしては近づくつもりはないし、勝手にしてくれよという感じだ。どうでもよくなったとかそんなんじゃないけど、こちらが近づく度に拒まれ遠ざかられてしまっては、こちらがいくら想っていようが手が届かないんだから仕方あるまい。……何だ、『想ってる』って? これじゃまるで片想いじゃないか。
やることもないから、思い出殺し(メモリー・ブレイカー)である僕は文庫本に目を落とし、嫌厭する生徒からの憎し憎しの視線を無抵抗のまま浴び続ける。僕が言うのもアレだけど、まだ根に持ってんの?
この日は何か起こることもなく、フワフワタオルの枕に頭を埋めて眠った。
赤い栞を挟んだ文庫本の上にハードカバーを載せることを忘れずに。
水曜日。
二日に一回見ていた磐井さんに関する夢がはたと消えたことにやっと危機感を覚えたものの、学校に来ていることを確認してホッと一安心。傍から見れば、本当、いつも通りだ。それが逆に不安を煽るが、手の打ちようがないから怫鬱とするしかない。
帰りのHR後の教室。また多武さんから声をかけられた。
東屋にて。
「このままだと合唱部の人達に取られちゃうわ」
「取られるって……。もういっそのこと、本人に聞いてみたらどうです?」
「今まで何回かLINEしたり直接話しかけようとしたけどダメだった」
「直接でもダメって相当心閉ざして……って、え? 何も出来ていない云々って前に言ってませんでした?」
「今は手を拱いているだけなのだから何も出来ていないのと同じでしょ?」
「真面目だ……」
「継橋君はLINEとかしてみたの?」
「LINE知らないんですよ」
「はぁ⁉」
多武さんの顔が接近する。もう本当、ちゃんと鏡見て。心臓破裂させる気?
「いくらでも交換するチャンスはあったでしょ? 何でまだ」
「わかんないです……」
「てことは、私の方が珠と近しい関係ってことよね?」
「そりゃ中学から一緒なんだから当たり前でしょ」
「ふふふ、そうねそうね」
わざわざスマホを鞄から取り出して大事そうに両手で包む多武さん。可愛いな、オイ。
「知らないの可哀想だから、教えてあげるわ。だから……」
「あー、わかりました。まずは多武さんを友達登録しなきゃですね」
「そ、そうよ……」
ポケットからスマホを取り出すけど、あまり乗り気ではない。表には出さないが。
スマホを振る。これで友達登録出来るの面白いよな。滅多にやらないけど。
「登録しました。あれ? アイコンのキャラって」
「知ってるの? 『動揺不稼働人形(Antinomy toy)』って曲のMVに出てくる『ヤーちゃん』だけど」
「知ってます知ってます! 『たぶん私の人生P』の曲の中では『チリアクタからジンアイ』と同じくらい好きです」
「そうなの⁉ 嬉しいわ。私はね、初期の方の『狂は狂の?』とか──」
と、また途中から関係ない話に脱線してしまい、日が暮れるまで『たぶん私の人生P』について二人で語り合った。
そして、何もないまま土曜日。
いや、何もなくはないか。多武さんと音楽の趣味が結構合うことがわかり、毎日LINEでお互いの好きなアーティストを勧め合うようになった。こんな近くに理解者がいるとは思わなかった。
「こういうのでいいんだよ、こういうので」
とっくに南中している太陽が鉛色の雲に隠されたせいでどんよりとしている空を、喫茶店跡の窓から眺めながら呟く。
面倒ごとに悩まされることなく、好きなことに意識を傾注させられる時間は実に素晴らしい。充実している。時間が流れるのが早くて、その一分一秒全てが僕のもの。
おかしな夢もてんで見なくなったし、親も暫くは顔を出さない。面倒ごとが一気に二つも消えた。残った磐井さんの件だって今のところ何の問題も起きてない。色々思い悩んだけど、結局僕の杞憂だったってだけなのかもしれない。
それでいいじゃないか。
それでいい。
だから、僕よ。
いい加減、貧乏ゆすりは止めてくれないか?
何度も立ち上がっては部屋の中を動き回ったりしないでくれないか?
「ん?」
スマホの画面にLINEのメッセージが表示されている。藁にしがみつくような想いで内容を確認すると、ウメタカからゲームのお誘いが。前に断ったそのお詫びとして、今回は乗ることにした。
「助かったー……」
とにかく今は、気を紛らわせよう。