物語は続くよ、世界の果てまでも⑪
玄関を出て、中庭へ。一歩進む度に、廊下から聞こえていたタマと多武さんの音の重なりが優しく鼓膜を撫でる。
「帰ったぞー」大仰に手を振る父親。
「パパ!」ジャンプしながら出迎えるタマ。
「良い子にして待ってたか?」
「コクコク! コクコク!」タマは力強く頷く。
あれ? 僕の時より嬉しそうじゃない?
「パパ、『Salt days』」毛玉から両腕を出してせがむように父親を揺らすタマ。
「あー、約束してたな……マイナちゃん、ギター借りるよ?」
「は、はい!」
多武さんが使っていたギターを受け取り、ペグで調節する父親。
その姿は悔しいくらい様になっている。……何で悔しがっているんだ、僕?
「あら、おかえりなさい」濡れ縁の奥から、お盆に五人分の湯飲みを乗せておばあさんがやって来る。「そろそろ帰って来ると思っていたわ」
「あ、ただいまです」ただいまとか久しぶりに言ったなぁ。「ちょっと……」
僕は手招きする。線香の香りを放つおばあさんの耳元に口を近づける。
「何かしら?」
「夢の住民の中に、僕を演じている人もいるんですか?」
「あら、何故?」僕の胸の内を見透かしているかのような笑みを浮かべる。
「いや……もしタマの前で顔を合わせてしまったらこの夢に綻びが生まれるかもって」
お盆の上の湯飲みを勧められて受け取る。立った茶柱がプカプカ浮かんでいる。
「いないわよ」ズズズッと啜る音の後にそっと答える。
「そうですか……」
「だって、アナタとタマが出会ったのは高校でしょ?」
そうだった。あー、焦った……。
って、それだと。
「僕がこの夢にいること自体、マズくないですか?」
「問題ないらしいわ」答えたのは、濡れ縁の端でちんまりと座って湯飲みを両手で持つ多武さんだった。恨みがましそうな目で僕を射竦める。「タマがそれを許したから。アナタには自分のパーソナルな部分も見せても良いと思っているんですって。ムカつくわ。一発殴ってやりたい」
「怖っ。中学校の夢で睨んできたのもそういう感情があったから……」
「何の話?」と首を傾げる多武さん。
弦を弾く音が。チューニングを終えたようだ。
「よしっ! いくか!」
演奏が始まる。つい最近聞いたギターの音の連なりが空気を震わせ、草いきれが立ち上る。一瞬ムワッとするが、すぐに爽やかな歌声が聞いている人の心に快い風となって届く。
父親の演奏を、すぐ隣という特等席で聞くタマの横顔。そこにどんな感情が、どれだけの割合で含まれ、それがどんな表情で現れているのか、それを言語化するのは無粋というか勿体ない気がする。だけど、それを見た僕の感情ぐらいなら言ってもいい。
『ズルい』
父親の演奏が終わり、一同濡れ縁で横一列になって茶をすすりながら談笑し、タマと多武さんは『新曲作り』のため、家の中に入っていった。
「今回は随分長い夢だな」父親は湯飲みをUFOキャッチャーのアームみたいに持ちながら言う。「それだけぐっすり眠ってるってことか。良いことだ」
「……」不安が首にのしかかって俯いてしまう。
「どうかしたの?」おばあさんが僕に尋ねる。
「この夢から覚めた後、僕はどうすればいいのかわからなくて」一度短く吐露して、お茶で喉を湿らせてから言葉を続ける。「『居場所』って言葉の意味は感覚的にわかっているつもりです。まさに僕がタマに居場所を作ってもらったので。でも、その逆が全く想像出来ないんです。どうすることで僕が彼女にとってそういう存在になれるんだろうって……」
「難しく考えなくていい」と父親。「お前がタマにしてもらったことを、今度は坊主がすればいいんだ。タマは坊主にどうしてくれたんだ?」
してもらったこと。それは──。
「話を聞いてくれました。授業の合間の短い時間でしたけど茶化さずに、疑わずに、深刻になり過ぎないように。だから自分でも驚くくらい素直にスラスラ話せました」
「だったら、それを今度はタマにしてやればいい」問題が解けた生徒に向けるような笑みを浮かべる父親。「大丈夫だ、坊主ならやれる。自信持てって!」
「だけど、自信を持つのに必要な根拠がないというか。僕みたいな非力で面倒くさがりな奴が果たしてそんなこと出来るのか不安で……」
「あら、根拠ならあるじゃない。夢の住民がアナタに期待しているって根拠が」事も無さげにおばあさんは言う。「それと、若い時から自分を過小評価してると将来の可能性を取り逃すわよ。母親に突っ込んだ時みたいに無鉄砲になることで得られるものもあるのよ」
期待。小さい頃からずっと、ずっと、ずっと言われてきた首輪のような言葉。最近やっとそれから解放され、二度と僕に対して使われることはないと思っていたのに。
でも今は、期待という言葉が翼となってどこまでも行けるような、そんな感じがした。
だけど、その言葉が持つ重さを背負える自信はまだないから、
「やってみます……としか今は言えませんね」
「おっ、サマーウォーズか」と父親。「とにかく、何事も一歩目だ。そっから先は神でもなければ誰にもわからないからな」
突然、眩暈と共に白の花びらが大量に混じった突風が襲ってくる。腰かけていたぬれ縁がブヨブヨに柔らかくなり、周りの地面が隆起する。
「時間が来たようだな」
「やーねー。年寄りだから時間が経つのが早く感じるわ」
すぐ近くにいるはずなのに、二人の声が遠くから聞こえる。
「俺た……の夢でタマ……を見守るから……前は現じ……ツの傍に……てくれ」
「アナタをし……じてい……わ。タ……が……じている……ナタを。タマがあ……て……アナ……」
意識が沈んでいく。雑なかがり縫いをされたかのように動かない唇の間から言葉を押し出す。陽炎のようにブレる二人の像に届いたのかわからないけど、頷いてくれた気がした。
胸が温かいもので満たされたのを感じながら、僕はゆっくり瞳を閉じた──
「また一つ、名作が生まれたわ」
「うわっ……自画自賛。その自信過剰っぷりはどうにかした方がいいよ」
「いいじゃない。悪夢を素敵なハッピーエンドに変えたんだから」
「そうかなぁ……それより、口の端から糸が出てるよ」
「あら本当? この縫いぐるみを作った時のかしら」
スルスルスルスル。てらてら。
「それで、今回の『ヒツジ』はどういう意味なの?」
「『痛みを被る児』」
「うぅん?」
「それぞれの漢字を音読みすると」
「ツウ、ヒ、ジ……ヒ・ツウ・ジ。んん? 結構、無理やりじゃない?」
「これくらいのは良いのよ」
「あ、そう。ところでさその縫いぐるみ」
「これ? もう返しにいくの?」
「そうじゃなくて、どうやら別のところからお客さんが来たみたいなんだ」
「どういうこと?」
「マキが創った夢を勝手に改変している人がいるってこと」
「何それ。目的は?」
「さぁ?」
「アナタにもわからないの?」
「うん。もしかしたら僕も知らない事態が起こっているのかもしれない」
「そんな……私、どうすればいいの?」
「僕がその人の動向を探ってくるよ。マキは新しい夢を創って待ってて」
「大丈夫なの? アナタ、お世辞にも強いとは……」
「別に戦うわけじゃないよ。バレないように忍んで観察するだけ。まぁ、マキの邪魔をするような奴だったらボクごと自爆でもしてやるさ」
ピョン、ピョン、ピョン、ピョン。
「じゃあ行ってくるね」
ギュッ。
「……どしたの?」
「それ、本気じゃないわよね? 私のために消えたりしたら許さないから」
「……ごめん、冗談だから。マキのところまで帰ってくるのを大前提で行動するから」
「嘘じゃないわよね? もし帰ってこなかったら、見つかるまで探すわ」
「わかったよ。楽しみに(かくご)しておく」