物語は続くよ、世界の果てまでも⑩
そのあまりにも極端で不謹慎な言葉が僕の胸を波立たせる。『殺す』だの『死ね』といった暴言には聞き慣れつつあるのに、何故かそれを冗談として笑い飛ばせない。
「じゃあ、タマは近いうちに自殺するってことですか?」
「自殺とはちょっと違うわ」と母親。「今のタマは、何もかもから『逃げている』。自ら命を断つという選択からも。だからロープも練炭も買えないし、高いところや手首は意識して見ないようにしている。でも、消え去りたいという願望は強い。だから、しがらみのない場所で何もせずただ朽ちていきたいと思っているの」
「いや、でも」と僕は口を動かす。「そりゃ、他人の胸の内なんかわかりませんが、普段会ってるタマがそんなに思い詰めているようには見えません。よく笑うし、テンション高いし、僕とも話してくれるし……そもそも、そんなに辛いなら学校なんか来ないでしょ?」
母親が自分を指差す。「学校に行かないなんて、私が許さないもの」
「それに、『逃げる』にも色々な方法があるだろ? どこか一ヶ所に留まって閉じこもるか、絶えず転々とするか、もしくは……限界まで普段通りを装い続けるか」
風なんか吹いていないのに、杉の枝が激しく振動する。辺りの靄が更に濃くなり、吸い込む度に中で対流して沈鬱な気分を掻き立てる。
「そ、そんな風には見えませんけどねー!」僕は空元気で言う。「さっき、楽しそうにピアノ演奏してたじゃないですか? 嬉しそうに父親に甘えてて、幸せそうだったのに」
「そりゃそうだ。タマの願いを叶えたのがこの夢なんだから」と父親。
「あくまで願望の一つよ」と口を挟む母親。
「悪い悪い」と父親。「現実世界で夢がどう定義づけられているのかは知らないが、夢ってのは見ている人間の心が渇望していればいるほど内容は幸せなものになり、満足していればいるほど発生しなくなる」
そう……だったっけ? 最近見る夢は全部桜月夜だからよく覚えてない。
というか、二人の話を聞いていればいるほど、この夢の存在意義がわからなくなる。
「タマにとって夢は見ない方がいいってことですか? でも、お二方含む夢の住民達はタマのために役を演じている。それって食い違っていません? そもそも現実のタマは覚えていないんですよね?」
「何だ? 俺達なんかいてもいなくてもどっちでもいい存在だって言いたいのか?」
「そういうんじゃなくて……」
「冗談だって! お前はそんなこと思わないってわかってるからよ」そう言って僕の頭頂部をグリグリ掻き回す。河童ハゲになっちゃうから止めてほしい。
「わ、私だってアナタは優しい人だってこと知ってるんだからね!」と母親は人差し指で僕の脇腹をグリグリしながら答える。スキンシップが激しいな、この夫婦。
指を離して母親が、「ここは磐井 珠の心、つまり毛玉のタマが現状から逃げるために、木に戻りたくないから無意識で創った、理想の居場所の一つよ。もし夢の住民が使命を放棄してこの夢が成立しなくなったら、いよいよ毛玉のタマは絶望して消滅し、現実のタマは最悪の行動を取ってしまう」
消滅……。逃避行……。このご時世でそう簡単に逃避行が成功するとは思えないけど、実行したってだけで以後の彼女は奇異の目に晒されるのは間違いない。
「この木の中はどうなってるんですか? 逃げ出したいほど酷いんですか?」
「木の中自体に問題はない」と父親。「ただ、あの中にいると現実世界においてタマが認識できる全ての情報が絶えず流れてくる。寒暖、光、音、痛み、感触、態度、感情その他無数のものが。それに耐え切れなかったから夢という理想の居場所に逃げたんだ」
「ならどうして母親は暴力的なんですか? 理想の世界なら優しい人であるべきでは?」
「そうか?」僕の髪の毛をチネチネしながら答える父親。「時に人間は、己を悲劇の人物に、誰からも同情されるような人物に見立てることで、理不尽に耐える健気な自分っていうものに酔いしれたくなることもあるだろ?」
「そう、ですかねぇ」
わかるような、わからないような。タマにもMっぽい一面があるということなのか。
「それで、お前に頼みたいのが──」
「す、すいません」手で制止する。「今までのこと、整理させてくれません?」
「おいおい、ここからが本題だってのに」
「訳のわからない説明を一瀉千里にされても理解が追いつかないっていうか……、深く考えるのは諦めたので、都合良く受け入れるための時間をください」
「そうね」今度は母親が頭を撫でてくる。「仲間の間で情報に食い違いがあると困るものね」
仲間。学校の生徒とかが言っているのを聞く度にうすら寒く思っていたのに、何故か今はすんなり受け入れられた。
僕は、何度も質問し答えを反芻、脳をフル稼働させて理解に努めた。あればの話だけど。
・ここは磐井 珠の夢で、現実の彼女の記憶には残らない。
・夢の中にいるアホ毛ポニテ毛玉(以下、毛玉)は磐井 珠の心の擬人化。ほぼ裸(最重要)。
・毛玉は元々、デカい杉の木の中にいたけど、現実世界の情報に耐え切れず逃げ出した。
・毛玉が夢を創造した。彼女にとって理想の居場所だけど、生まれない方が好ましい。
・毛玉以外の人達は夢の住民で、各自与えられた役を演じている。それを放棄してしまうと夢が成立しなくなって毛玉は消えてしまい、磐井 珠(現実)は逃避行を取ってしまう。
……何とかここまで纏めることが出来た。が、都合良く受け入れるには僕の柔軟さがまだまだ足りないし、疑問もまだまだたくさんあるけど、聞いたらそれはそれで混乱しそう。
叩けば叩くほど謎が舞う。
「とりあえず、今までの話は受け入れられそうです。他にも聞きたいことはありますが」
「さっき説明した内容までが夢に関して俺達の話せるものだから、聞かれても答えられないかもな」と父親。
「答えられない?」
「私達にはいくつか制約があるの。現実世界で言う重力みたいなものが」と母親。「例えば、私達は現実世界には行けないとか、誰かと役を交代することは出来ないとか」
「毛玉のタマが杉の木から逃げた具体的な理由も駄目ですか? 現実世界のタマに一体何があったのか、話してもらえませんか?」
「それこそ、一番話せない内容だわ」母親は指で×を作る。「話しても、現実世界の住民には意味不明なスピーチとしか聞こえないみたいなの」
「えー……何それ。試しに話してくださいよ」
「いいわよ」数回、咳払いをする母親。「羊のメリーゴーランド、見捨てられ、傷は増え、塗装は剥げていくが、懲りずに上下を繰り返し、跳べども跳べども同じ場所に辿り着く。今日と明日の狭間にある柵を乗り越えても景色は変わらず、いつしか早天を諦め──」
「もういいです。聞いても全然わからないってことがわかりました」
よりによって一番重要な部分が判然としないとか、ハードモード過ぎん?
「で、さっき止めてしまった本題っていうのは?」
「ああ、そうだったな……」
そう言って父親は、頭を深く下げた。
「これは夢の住民全員の頼みだと思ってくれ。どうか、現実のアイツの居場所になってやってくれないか?」
その体勢のまま、
「現実世界のタマが、ここなら安心できるって居場所を見つけたら、毛玉のタマは杉の木に戻って来るらしいんだ。坊主は確か、タマの高校の同級生で仲が良いんだろ?」と父親。
父親に続いて頭を下げ、母親も、
「蹴り飛ばした私がお願いなんて虫の良い話だけど、アナタが頼みの綱なの! このままだとあの子は消えてしまう……そんなの耐えられない」
「急にどうしたんですか⁉ か、顔を上げてくださいよ!」僕は狼狽する。「消える? だって皆さんが演じている限り夢は消えないんじゃないんですか?」
「もちろん、俺達が使命を放棄するつもりはない。ただ……」と言葉を切って苦しそう息を吐く父親。「現実のタマを取り巻く状況が改善しないままだと、毛玉のタマは夢を創ることすら止めて、消滅しようとする。役者にどれだけやる気があっても肝心の舞台がなければ何の意味もない」
「そ、そんな……」
母親は振り向いて石階段を挟む林を指差す。「あそこの木々にはあの子の記憶が宿っていて、葉を使うことで夢を創っているの。だけど、宿主を失った杉の木は靄を放ち、近くの葉桜から順々に覆いをかけて使えなくしてしまう。このままだと全ての木々に覆いがかかって、夢が生まれなくなるわ」
「……毛玉のタマは、それをわかった上で杉の木に戻らないんですか?」
二人は首肯する。とんだ破滅願望だ。
居場所になってやってくれ? えらく抽象的なお願いだ。居候させてやってくれ、ってことではないのはわかっている。居場所って言うくらいだから、昵懇の仲を目指せってことなのだろうか。でも、どこかに必ず地雷が埋まっているとわかっている人に安易に近づきたくないのが本音だが。
はぁー……。面倒なことに巻き込まれたなー。
二人の懇願するような表情が胸に入り込んで懊悩を加速させる。
ふと、タワレコでのタマが脳裏を過ぎる。あの急変ぶりを目の当たりにして何の心配もしていないほど薄情じゃない。しかも彼女は学校で腫れ物扱いされてる僕と話してくれるくらいの善人だ。一回くらい恩に報いるのは別に悪いことじゃないはず。
それに、この夢の出来事を非現実的な幻想だと一蹴するのも罪悪感がある。
しばしの黙考の末、
「わかりました。僕なりにやってみます」
二人の顔が一気に明るくなる。
「本当か、坊主⁉ やってくれるのか⁉」顔を近づけて確認する父親。
「あまり期待はしないでほしいですが」
「ありがとう、ありがとう!」僕の手を取って感謝の言葉を連呼する母親。おいおい、そんなに喜ばないでくれよぉ~。こっちも嬉しくなって調子乗っちゃうだろぉ~?
期待なんてされるもんじゃない、結局面倒なことになるんだから。と悟って以来、責任や衆目が付きまとうことは避けてきた僕だけど、たまにはこういうのもアリかもな。
今度は母親を先頭にして、階段を下る。鳥居が近づくにつれて葉を擦り合わせる音は音量を増していく。
「僕がこの夢に来るってことは前もってわかってたんですか?」
「ああ」父親が答える。「俺達より上にいる奴から『現実世界から迷子が来る。その子なら夢の住民じゃ成し得ない、現実でのタマの居場所になれる。だけどもし、君達のお眼鏡に適わなければ容赦なく叩き潰して構わない』って言われてたからな」
「知らないところで生殺与奪の権が他人に握られてたのか……」
「そんな大袈裟なものじゃないわ」と母親。「ただ、ボコボコにしてから一昨日来やがれ蹴りで吹っ飛ばすだけ」
「それ十分酷いですからね」
今もなお元気ビンビンってことは、お眼鏡に適ってことか。……どこが良かったの?
「話を聞いた当初は、私もこの人も、久子さんも舞奈ちゃんも全員、この夢に異物が入ることに不快感を抱いていたわ」と母親。「どこの馬の骨ともわからない奴にタマの最もパーソナルな部分に踏み入れさせるなんて正気の沙汰じゃない。しかも居場所になるなんてあり得ないって。だから、私がタマや久子を痛めつけているのを見てどういう行動を取るのかで判断しようってことになった。そしたら、まさか体ごと突っ込んでくるとは思わなかったわ。もちろん合格よ」
「……なのに僕は蹴り飛ばされたんですね」
「それとこれとは違うわ。あそこで私が倒されてしまったら、強大な悪役としての存在感が薄れて夢に綻びができてしまうから。それにアナタはヒーロー役ではないから」
「? さいですか」
話しているうちに鳥居を通り抜けて、神道を進み、巨大な襖の前に到着する。今気づいたけど、手水も鳥居の前で礼もしてないや。バチでも当たるかな。
「帰るんでしょ? あの子のところに」と母親。
「ああ」と父親。
「そう……じゃあ、私はここまでね」神道が途切れる位置で止まる母親。
「えっ? ここまで来たなら一緒に──」途中で自分がアホなことを言ってることに気づいて、別のことを聞く。「ここに残るんですか?」
「いいえ。タマと二人暮らししているアパートに帰るわ」
「そう、ですか……」
別れの挨拶が全く思いつかない。
何を言っても、どんなに誠実に謝意を伝えようと思っていても当てつけになる気がして。
「さーて」唐突に右肩をブンブン回しだす母親。「お別れのキッスの代わりに、お友達パンチをプレゼントしないとねー」
「いらないですー」
急いで襖に手をかける。が、両肩を掴まれる。このパターン、前にもあったような。
「坊主、良かったな。初対面なのに母親のお友達パンチを喰らえるなんてよっぽど気に入られたんだな」
「お友達パンチって、階段上っていた時のあれですよね? 僕の知ってるお友達パンチとは全然違う気がするんですけど……」
「気のせいよ」握り拳にハーっと息を吹きかける母親。「よし、準備完了」
「いやいやいやいや!」
「受けてやってくれよ。蹴りを耐えられたんだから死にはしないって」と父親。
「そうだ!」ズボンと腰に挟んだ白タオルを手に取る。「せめてこれをクッションに──」
「ダメよ」
腹にズドンッ!
「いったぁー……これでもかってくらい伝わってきた……」
「ふふっ、これで私と坊やは仲間ね」そう言って母親は僕を正面から抱きしめた。「勝手なお願いだっていうのはわかっている。でも、坊やならなってくれるって信じているわ」
「ぜ、善処しますぅぅ……」シャツのボタンの固さと別の何かの柔らかさで辛抱堪らない。
「それじゃ嫌」締めつけが強くなる。「絶対やるって言ってくれるまでずっとこのままよ」
正直願ったり叶ったりだけど、父親の『こんなので狼狽えてまだまだ青いな』って視線がムカつくから、名残惜しいけど「やります。約束します」
「そう、良かった」心底安心したような笑みを浮かべてハグを解放する母親。「それと、私本当は何も考えずに誰かのために突っ走れる男……大好きよ」
襖を開けて神社を後にする。閉める時に視線が合った。照れ臭くてはにかむ。
八畳ぐらいの和室から出る時、
「スーツで上るのシンドそうでしたね。シャツ、結構汗ばんでいましたし」
「キツいだろうな。だが、頂上には俺とアイツが同時にいないと入れないんだ」
「そうなんですか?」
父親は息を長く吐いて、
「毛玉のタマ(アイツ)はそれを望んでいるからな。本当、人間ってのは複雑で面倒な生き物だよ」