仁科愛美から河村一樹へ 3
その日、私は、通常通りにバイトをしていた。キッチンで、注文があった料理を作っていた。
彼は「トイレ」と言って、持ち場を離れていた。しばらく帰ってこなかった。もしかして、お腹でも壊してるのかな。吞気に心配をしていた。
三十分ほどして、彼がキッチンに戻ってきた。店長と一緒だった。どこか青い顔をした彼は、そのまま手を洗い、仕事をした。
業務中に、店長から、業後にミーティングをすると声がかかった。バイトも含めて全員参加。そんなことなど、今まで一度もなかった。
夜十一時の閉店になって、後片付けをして、ミーティングが始まった。全員参加と言われたミーティング。でも、そこに、彼の姿はなかった。今日出勤していた里香さんの姿もない。
店長の口から語られた出来事に、バイトも社員も、みんなが驚いた。
――彼と里香さんが、業務中に、トイレでセックスをしていた。
彼等の行為を発見したのは、お客さんらしい。なんでも、トイレに入ったお客さんが、個室からガタガタと音とするのを聞きつけたという。同時に、個室から、くぐもった声が聞こえたそうだ。
もしかして、個室で具合が悪くなっている人がいるんじゃないか――そんなふうに考えたお客さんは、慌てて店長を呼びに行った。その結果、個室で、彼と里香さんが発見されたそうだ。明らかに最中という格好で。
店長は、お客さんと後日話し合う約束をし、帰って貰ったという。当然、代金はいただかずに。もし、こんなことがネットなどで拡散されたら、大問題だ。具合の悪い人を助けようとするお客さんが、悪意を持ってそんなことをするとは考えにくいけど。
問題の二人は、閉店と同時に帰宅させられた。処遇については本社の指示を仰ぐが、クビになるだろうと店長は言っていた。もちろん、このことは実家にも連絡するという。店舗の営業に大きな影響を与える問題だから、当たり前だろう。
ミーティング中、ほとんどの男性従業員が気まずそうに顔を伏せていた。店長と社員の一人だけが、この問題について真剣に考える顔を見せていた。その様子で、簡単に察しがついた。
気まずそうな顔の男性従業員は、全員、里香さんと関係があったんだ。
女性従業員達は、チラチラと、横目で私の方を見てきた。哀れむような、女性従業員達の目。
私と彼は同じ地元出身で、同じ大学で、近くに住んでいる。付き合っていることも、みんな知っている。
あまりの惨めさに、私は泣きたくなった。
ミーティングが終わって、解散となった。帰り際、女性の社員に声を掛けられた。
「愛美ちゃん、大丈夫?――ではないよね?」
私は、苦笑いするしかなかった。
「大丈夫ですよ。とりあえず彼とは別れます。もう、気持ち悪いですし」
そうだよね、と呟いた後、社員さんは、心配そうに聞いてきた。
「明日もシフト、入ってるよね? 来れる? 無理そうなら、私から店長に言うけど」
「大丈夫です。ちゃんと来ますから」
苦笑は崩さない。目は細めたまま。笑っていないと、泣きそうだった。あまりに惨めで。あまりに情けなくて。
アパートに帰って、服を脱いで、スエットに着替えた。スマホのチャットアプリには、メッセージを通知する赤いバッジが付いていた。バッジの中には「15」という数字。十五件ものメッセージが来ている。
メッセージの送り主が誰かなんて、考えるまでもなかった。
チャットアプリを開くと、思っていた通り、彼からのメッセージが来ていた。十五件分の言い訳。十五件分の弁解。十五件分の懇願。
十五件分の、身勝手な言い分。
『魔が差したんだ』
『今日が初めてだったんだ』
『明日、話し合わないか』
『もう、こんなことは絶対にしないから』
『もう、愛美しか見ないから』
『別れたくない』
『後悔してる』
『店長から、実家に連絡がいったらしい』
『クビになるのかな』
『父さんも母さんもキレてて、大学辞めて帰ってこいって言ってる』
『愛美と一緒にいたい』
『一緒に地元に帰ろう』
『これまで、三年以上も付き合ってきたんだから』
『一生、愛美のことを大切にするから』
『俺と結婚してほしい』
吐き気がした。私と付き合っていると知りながら彼に手を出した、里香さんに。私と付き合っていながら、誰とでも寝る女に手を出した、彼に。
別れ以外の選択肢はない。
翌日、私は一人で大学に行った。授業が終わると、一人でバイト先に行った。
みんな、私を腫れ物のように扱った。必要以上に気を遣われた。女性の社員さんに、何度も「大丈夫?」と聞かれた。
彼と一緒に進学すると決めた大学。彼と一緒だから来ると決めた東京。彼と一緒だからすると決めた、一人暮し。一緒に探したアルバイト先。
今の私を取り囲んでいるのは、全て、彼がいたからあるもの。
でも、その彼は、私を裏切った。
私を裏切って、薄汚い女との快楽に走った。
心に亀裂が入る音を、私は確かに聞いた。ピシッという、鋭い音。まるでガラスのように、カシャンと鳴って砕け散った。
なんだか、もう、何もかもどうでもよくなった。




