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欠落少女よ、憧れとなれ  作者: 嘆き雀
第三章 姫の祈りと罪の身代わり
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第六十五話 ヒトカゲになった男

 あれからどれほど時間が経ったのだろうか。


 雄大は暗い隘路で空を見上げると、薄い橙色に染まっている。自宅を出たときにはまだ空は青かったのに。

 夕方でも夜に代わるその直前、逢魔が時は近いが、雄大は何も恐れなかった。人間を襲うヒトカゲも雄大を捕まえんとする人間も、それどころか嘲笑を浮かべる余裕さえある。大人数でもって徐々に追い詰められていることは分かっているが、まだ捕まってはいない。雄大ただ一人に対し、相手のこの無能さ。


「このまま逃げきってやる」


 それができると信じて疑わなかった。策通り事は進んでいて、後はこの町から脱出するだけだ。想定よりも早く灰身上がやってきたせいでこのように追い詰められることにはなったが、雄大はただ逃げ回るだけでなく隠していた金は回収できている。

 そのほんの少しを町人に渡してしまえば、包囲は突破できる。意気込みよく有志で名乗りを上げた町人だが、大金には目がくらんだ。そうでない者だっているが、見極めは済んでいる。出費は惜しみなかった。なんせ、己の人生がかかっている。




 町を出ようと決め、その準備に取り掛かったのは灰身上が来る前からだ。自宅の向かい側の家が炎に焼かれ、火事場泥棒をしたときには考えていた。ぽっくり死んだ親の遺品も売り尽くし、金目のものがなくなっていた。盗みで金を得て、捕まる前に別の場所に向かって享楽にふける。

 火事はそのきっかけで、その場で遭遇したヒトカゲは都合のいい隠れ蓑になった。


 盗みに夢中になって危うく炎に身を焼かれそうになり、ほうほうのていで自宅に帰ろうとしていたときだ。


「ヒ、ヒトカゲ……っ」


 形はぼんやりと掴みどころなく、まるで人間のように二足歩行で立っている。

 雄大は初め、その不気味さに間抜けにも恐怖を感じた。だが、襲われることなく、雄大の周りをついて回るだけで害はない。いや、目障りという点では、害はあったか。


「チッ、ついてくんな! うぜえんだよ!」


 盗みの後で神経を尖らせている雄大にとって、排除に取り掛かるのは当然行き着く思考だ。殴り飛ばすと、ヒトカゲは本性を現した。拳に絡まりついてくるのを、雄大は何度も何度も殴る。ヒトカゲはなかなか死ななかったが、最終的に足を使って地面ですりつぶすようすれば、とうとう動かなくなって灰になる。


「は、ははは! ヒトカゲってのは大したことねえな」


 そのあとはヒトカゲの振りをして、盗みを繰り返した。それを目撃されたのだが、人目に見つかってもいいよう黒ずくめでいたのがヒトカゲに見えたらしい。そのような噂が流れたので、都合がいいとそれに雄大が乗っかった。

 本当はヒトカゲは死んでいるが、それを知るのは雄大しかいない。町人を上手いこと騙しつつ、質屋に盗んだものを売る。


「親の遺産がなくなっちまったんじゃねえのか?」

「掘り出し物があったんだよ」


 他人の家でな。

 盗みを働くたび、雄大は何度も質屋に通うことになった。質屋の主人は怪訝に思っているようだが、それ以上追求しない。それで身を亡ぼすかどうか、雄大は主人と世間話をする仲であるが、一切気にしなかった。自分が良ければ、その他などどうでもよく、利用しても罪悪感はない。


 ヒトカゲのおかげで、雄大は盗めるところまで盗もうと町に居残っていた。灰身上については町の奴らが呼んだことは知っていたが、その到着は予想よりもずっと速く、今後の行動に支障が出る。


 身辺には十分注意していたので、雄大を見張る町人には直ぐに気づいた。ヒトカゲが出るからといって、出歩くのをしつこくとめる声を無視すると、灰身上と巡り合う。青年一人と少女二人で、青年さえ気を付ければ少女相手は楽だろうと侮った。

 それは誤りで後悔することになるが、そのときの雄大はまだ知らぬので欲を出した。酒や女のためにと、金はいくらあっても足りない。


 そして見張りを振り切って盗みに入った家で、雄大は人を殺める。


「あーあ、やっちまった」


 ヒトカゲだと思って隠れていればよかったものを。

 初めての人殺しだが、雄大の心は落ち着いていた。盗みもしたし、その前からやりたい放題やって半殺しまでしたことがある。

 罪が増えるだけだ。捕まらなければいいだけのこと。


 ただその人殺しで、雄大は身動きがとりにくくなった。見張りが増えて、何をしようとも町人が睨みをきかす。

 その状況を利用し、賄賂を渡して包囲を突破すると考えたのは名案だったが、雄大が実行する前に、灰身上や町人と引き連れて同心が自宅にやってきたのだった。




 包囲を突破するのに必要な、賄賂になびきそうな町人が見つからなかった。事前に話をつけていた町人がいたが、灰身上から逃げ出すときに使ってしまっている。もう一人ぐらい話をつけておけばよかった。そうしたら手際よく、同心や町人、灰身上に追われるこの状況にも対応できた。


 雄大は隠れつつ、睨みつけるようにして人の顔を確認する。そんな中、気づいたら目の前に灰色をまとった少女がいる。雄大が人質に取ろうとして逆に返り討ちにあった、見た目によらず実力者であるあの灰身上。雄大は突然のことに、頭が真っ白になる。


 くすり。


 息を漏らすように笑われて、雄大は思考が復活する。馬鹿にされたと思った。頭に一気に血が上り、下がる。この感情の落差は、少女の笑顔のせいだった。嘲笑ではない、好いた異性に向けるような甘いとろけるようなもの。

 断じて窃盗や殺人を犯した相手に、向けるものではない。


「殺しても、いいんだって」


 いつのまにか刀を抜いていて、雄大は灰身上から逃げ出す。反射的な行動で、雄大は生きながらえることになった。風を切る音が、耳の近くで鳴る。


「な、なんなんだよ!」


 あれは本当に灰身上なのか。人殺しに喜びを見出だすなんて、頭のいかれた殺人鬼だ。雄大でさえ、殺人とは必要に迫られて行うものだと認識している。


 逃げろ逃げろ逃げろ。どこまでもあの少女から、罪から逃げるのだ。


「俺は、こんなところで終わる男じゃねえ!」


 雄大はずっと逃げ延びてきた。力で黙らしたり、口弁で人を騙したり、人が忌避することをあえて行って。真面目が取り柄だった親の反面教師として、苦労なく楽しく生きていけるのだと。雄大はお前らとは違うのだと、それを証明してきた。


 だから、この少女相手も逃げられる。雄大は人より優れているから。ヒトカゲなんかも恐れることなく、殺せたのだから。

 そうだ。恐れることは何もない。少女は実力者なようだが、それがなんだ。大人と子ども、男と女と根本的な力の差がある。


 武器さえあれば、少女はどうにかできる。逃げるために相手と戦うことは、雄大にとって何も変哲もない思考だった。



 包丁がないことが惜しかった。そこらへんに転がっている物を適当に投げてやろうかと考えて、背中を何かで強打される。小刀だ。口だけだったのか、雄大を殺すつもりはなかったようで鞘付きである。狙いがよく転倒してしまうが、出血はない。

 まだまだ動ける体で、急ぎ小刀を拾う。追いつかれないように進路を変更して道を曲がると、大通りに出てしまった。有志の町人がいるが、雄大は武器を得た。


「死にたくなければどけえ!」


 腹から声を出して脅すが、刺股さすまた突棒つくぼうを持っていたから勇敢に立ち向かってきた。それでも及び腰だったので強引に突破しようとし、少女が叫ぶ。


「どいてて!」


 大きな声ではないが、不思議と通る声だ。有志の町人とはいえ、暴力には慣れていない者からしたら頼りがいのある言葉。

 雄大にとって有利に働き、退いた町人の場所を通り過ぎる。そのまま町の外まで目指そうとしたが、雄大に劣らない少女の足の速さと騒ぎを聞きつけやってきた同心の登場に、近道はやはり無理だと裏通りに引っ込む。道を曲がることを繰り返し、少女を除いて追っ手は振りまけた。


 雄大は立ち止まり、少女と向き合う。それに合わせて足を止めた少女は無表情からほんの少し頬を緩ませた。湧き上がる恐怖は無視し、言葉を吐き出す。そうでもなければ、やっていけそうになかった。


「お前はよくやったよ。この俺が振り切れなかったんだからな。だがそのせいで死ぬ。人よりちょっと優秀だった自分自身を恨むことだな」


 雄大は小刀を抜いて、切っ先を少女に向ける。


 刃渡りの長さの不利ぐらい、どうにもできる。雄大は少女を殺して逃げるために、邪魔が入らぬ場所まで誘導していた。一対一なら勝てると、己を鼓舞する。

 だが物言わず動きもしない少女に、雄大は恐怖を無視できなくなる。それを和らげようと何事か口走りそうになって、少女がぽつりと「ようやく」と呟く。


「ありがとう」


 意味が分かりたくなかった。この状況に仕向けたのは雄大なのに、少女はそれを考慮した上で状況を整えて――。


「っ、ぁああああああああああああああ!」


 雄大は小刀を振りかざす。

 力なら勝っているのだ。雄大は逃げ切れる。策も何も、力で叩き潰せば済むこと。


 そして雄大は見た。一点の光が煌めく、少女の瞳の中。逆光により、雄大の姿が黒に塗られている。夕日がさらに傾いて、いつのまにか逢魔が時だ。雄大はまるで――


「……ヒトカゲ」


 雄大の気持ちを、少女が代弁する。


 ヒトカゲの姿が、少女の瞳が遠ざかる。一歩、少女は後ろに片足を下げていた。灰の打裂羽織に刀の刃を改めて捉えて、雄大は思う。

 ヒトカゲを討伐している灰身上のようだ、と。


 雄大が持っていた恐怖は、少女を理解できなかったことが原因だ。ヒトカゲは討伐されるのが道理だと納得してしまう。


「俺は」


 ヒトカゲになってしまったらしい。噂にのっかっていただけなのに、いつのまにか本物になった。


 口についた出た言葉は最後まで紡がれない。とん、と背中に衝撃が走る。

 よろけつつ雄大が見やった先には、泣きそうになって弓を放った、別の灰身上の少女がいた。


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