第五十六話 風呂屋での遭遇
「ノエル、もう時間だ。帰るぞ」
「……まだ」
「朝一には出発するんだ。早めに切り上げて、明日に備えるぞ」
「……ん」
ノエルは仕方なく鍛練を終わらせ、住まいの長屋まで帰宅する。正吾を筆頭とした子どもたちは、奈々子の件で代美と約束したこともあり素直に別れを告げていた。
「第一支部までは遠いからな。いつも以上に身綺麗にしておかないと」
何十日もかけてやっと到着する距離だという。
目的地のない旅ではたくさん歩いたが、好きに行動できて休息も取れた。伝達は急ぎとなるので、これまでのように楽ではないらしい。徒歩ではなく、馬を使うぐらいだ。鍛練する時間ぐらいは取れるだろうか?
代美は水の入った桶を用意し、髪を洗うように指示する。洗髪する機会はそう多くない。普通は月に一、二度。ノエルの場合は灰身上の仕事柄、よく汗をかくことになるのでそれよりかは多い。油で髪を固めていないことも、髪の結い方も複雑すぎないことも理由にあったりする。
髪の長さが腰ほどまであるノエルは、洗髪が大変だ。こういうとき、肩に付かない長さの代美が羨ましい。
自分一人でできるようにならないと、と毎度の口癖を言われつつも、代美が手伝ってくれる。ノエルは楽をして、洗髪を終わらせた。その次は髪を乾かす間もなく、風呂屋に直行する。
風呂屋の湯を使えば、洗髪も直ぐに終わるのに。
だが、湯をたくさん使うことになるからと禁止にされている。代美に背を洗ってもらってから、さっさと湯につかる。暫く浸かっていかないと、怒られてしまうのだ。
体の芯まで温まっていくのを感じながら、憧れのことを考える。先生の記憶を鮮明にするために、ノエルは目蓋を閉じた。
ああ、なんて綺麗なのだろう。早く、ノエルもああなりたい。
何度思い返しても記憶は色あせることはなく、逆に輝きを増す。刃が光を反射する煌めきに剣技の軌跡、舞い踊る真紅の血。
想いを募らせ再生する記憶が最高潮のとき、体を揺さぶられる。力が強く、ぐらんぐらんと揺れて、強制的に記憶が止まった。なんなのだと、目蓋を開けて睨みつける。代美かと思ったが、見知らぬ顔であった。
「おお、起きたか」
「……何」
「いや、寝ていると思ってな。溺れてしまうぞ、と言いたいところだが、どうやら起きていたらしいな。すまんすまん!」
今度は背中を叩いてくるし、声は大きく反響する。
ノエルは眉を上げていると、慌てて体を洗い終わった代美がやってきた。
「すまない。ノエルが何かしてしまっただろう、か……」
「違うぞ。私が早とちりをしてしまったのだ。あえて言うなら、今後は湯につかって目を閉じないようにするべきだぞ。本当に居眠りしてしまうし、私のようにいらぬ親切をしてしまう」
代美はその女を見て、動きが止まる。目を剥いた凄い形相でいて、一点を凝視している。ノエルはその先を追うと、その女の胸部であった。代美やノエルにはないものを持っている。
大分湯に浸かっただろうし、この女の相手は代美に任せてしまおう。
上がろうとしたノエルだが、肩に腕を回されて阻止される。女にしては筋肉のついた腕である。あと、密着してその膨らみには弾力があることを実感する。代美の形相が更に深刻化した。
「ほれ。そんなところで立っていたら、風邪を引くぞ」
「そ、そうだなっ。では失礼する」
代美はようやく視線を外し、横並びに座る。もう見なくていいらしい。
「遠慮しているのか?」
「な、何をだ?」
女は代美の顔を覗きこむ。
ノエルはぎっちりと筋肉に押さえつけられ、湯から出ることができずに無理やり付き合わされていた。手を使って腕をどけようとし、それも阻止されてと格闘が行われる。この女、よっぽどノエルを湯から上がらせたくないらしい。
女は呑気に代美と他愛ない話をする。
「私の胸はさぞかし立派なことだろう。中々お目にかかれないだろうし、見たいなら見ておくがいい」
「ッ!? わ、私はもう十分だ!」
「恥ずかしがらずともいいというのに。なあ、ノエル」
「別に」
「拗ねているのか? かわいい奴だな」
大人と子どもの関係だから力負けしていても仕方ないが、反発心は芽生える。どうでもいい内容であるが肯定しないでおくと、明るい笑顔でいなされた。手強い。
「ノエルも気にするのだな……」
代美は意味の分からぬことをぼそりと言う。
自身の劣等感ばかり気にしていないで、ノエルを助けろ。見て分からぬというのか。
「……胸は、邪魔なだけ」
「ほう?」
「動きにくくなる」
「その通りだな。肩も凝るし、灰身上をやっていく上では不便なものだ。皆はとても羨ましがるがな」
「灰身上なのか? それにしては見かけない顔だな」
「本部の者にとってはそうだろう。私は支部から来ているからな」
「へえ」
代美の助けを得られなかったので、ノエルは湯から上がるのを諦めた。腕の力は緩み、解放される。上がってやろうと思ったが、灰身上の名につられた。
「強い?」
「初めたばかりの新人よりは強いとも。それなりに鍛錬は積んでいるからな」
「打ち合う?」
「そうしたいのは山々だが、急ぎの用があってな。本部に直行しなくてはならないのだ」
「ならば、湯に入ってゆっくりしている場合ではないだろう」
「ハハハ。まさにその通り」
「笑い事ではないと思うが……。どこの支部だ?」
「第三支部だ。当分は本部にいることになるから、その内にやろう」
「無理」
今日でなくては、出発してしまうので打ち合いはできない。
「なんだ。仕事でも入っているのか?」
「ん」
「そういうことだ。すまないが、今回は縁がなかったということだな。ノエル、行くぞ」
代美が有無を言わさなかった。着替えもあるので、ノエルはついていくしかない。
「ノエル。あの女には気をつけろ」
「なぜ」
代美は親しい雰囲気を一変し、強張っている。着替えを素早く終わらせて、外に出てから言った。
「言ってもいないのに、ノエルのことを新人だと知っていた。この状況だ、注意しておくに越したことはない」
この状況は危機的なのだろうか。ノエルはよく分からずにいると、代美が察して説明する。
「記憶を失う前のノエルはヒトカゲと関わりがあったと思われる。そのことで一朔殿と話したことがあるが……覚えていないか」
「うっすら」
確か旅する前のことだったか。ネロと初遭遇時の説明をしていた気がする。
「ノエルにしては上出来だな。ネロには無傷で捕まえられそうになっただろう。何かしら関わりがあるのは確実なんだ。ヒトカゲは人間に化けられると知った以上、ノエルに近づく者は人間に見えても用心深すぎるぐらいに疑っていかなくてはならない。ヒトカゲの謎を明らかにするためにも、身を守るためにも、な」
「そう」
「実感をもつんだぞ。ノエルが思っている以上に、事は深刻なんだからな。そのせいで常に……その、見張りがついていると言うしな」
「見張り?」
「しーッ。口に出すな、聞こえてしまうだろう」
「……ヒトカゲがいるの?」
「それもありえそうな話だが。今回はそうではなく、忍びだ」
「…………敵?」
「敵ではないが、完全なる味方でもなく……ううん。ずっと見られていたら、あまり気分の良いものではないだろう?」
「いや?」
「ノエルはそうだが、一般的にそうなのだ。ましてや何も言わずそうするのだからな。だが相手からしたら仕事と仕方のないことで、それなのにとやかく言われるのは気持ちのよいものではないだろう? だから、話すにしても、聞こえないようにな」
今の話こそ聞こえていそうなものだが、ノエルが探ったところいないようなので大丈夫か。
「前、いたかも」
「前方にいるのか!?」
代美相手であるが、言葉が足りな過ぎた。
「違う。過去の方」
見られている感覚がしたのに、その姿がなかった。
「いつだ?」
「……代美が療養中のとき」
「そのときは一人だったか?」
「ん。斬ってもいい?」
「駄目だ! 斬らず、そのままにしておくんだっ。あと私に報告するように。共に居合わせたときも、私では気付かぬかもしれないからな」




