第二話 我慢できない 前編
欠落少女は力を弱め、刀を下ろした。女の邪魔が入らぬ場所に移ろう。
ようやく刀の柄から手を離したので、そのまま立ち去ることにする。今度は腕をとられ、予想外なことだから尻餅をついた。
「す、すまない! そんなつもりじゃ……大丈夫か?」
面倒な。早く続きを行いたいのに。
逸る気持ちのまま直ぐ様立ち上がって、手を前に出した状態でいる女の横を通る。
「わああ! だからちょっと待て! とーまーれーッ!」
腰にしがみつかれると、動きが鈍くなる。仕方なく、言われたとおりにしてやる。女は盛大な息をはああと吐いていた。
「お前、捕まっていただろう。それで先生……あのお方に助けられた。違うか?」
指差す先は倒れた男である。先生というらしい。もう二度、あの光景を見せてくれなさそうで残念だ。
「口が利けないのか? 様子もおかしいし…………お前、名前は? 名前ぐらいは言えるか? 私は代美だ」
「……」
「おーい。まさか耳も駄目なのか?」
鬱陶しい。耳まで近づけて声を出そうとするので、一歩後ろに下がる。反応せぬ限り、いつまでも構ってきそうだった。
「ノェ……」
「ノエ?」
「違う。ノエル」
「そうか。ノエルだな」
うんうんと頷いているし、もうよいだろう。今度こそ立ち去ろうとして、代美はまたしても引き留めた。
「まだ話はある。それに先生の弔いも終わっていない」
屍は掘られた土に埋められ、大振りな石が印として置かれる。代美は火葬にしたかったらしいが、土葬と断念したらしい。
火葬ならば、人間であっても最終的に灰となる。あの化物と同じ最期だ。ノエルは自身の手のひらをじっと見る。
「――行こう。傷の手当てをしないといけないしな」
応急処置として手は布で巻かれている。刀をずっと振っていたせいで出血したのだ。その他にも体には数々の傷がある。
代美には弔いを手伝えと言われたが、結局何もさせられはしなかった。その代わりに刀を奪おうとするので、断固として拒否する。
「ノエルには扱いにくいだろう?」
代美の小刀と、次にもう一振あったらしい先生の小刀を差し出され、後者だけ受け取っておく。勿論手持ちの刀は渡さない。
代美は衣服といった他の形見を抱えている。そちらは興味ないので、持っていればいい。
「なあ、なんであの場所にいたんだ? 化物に襲われていたところを、先生に助けられたのか?」
「……」
「全く。ノエルは私に、というか全体的に興味なさすぎだろう。先生と刀に関しては別のようだが……」
先生に興味はない。ただ憧れの元になった本人なので、弔いを見届けようという気になっただけだ。
あの場では刀を振り続けるのには難しいらしい。化物が邪魔してくる可能性が大いにあると言うので、ノエルは大人しく代美の案内に従っている。
遭遇した化物に対し、代美は物陰に隠れてやり過ごす。
「夕方でないのに、ヒトカゲは本当に多いな」
「……ヒトカゲ」
「! ああ、そうだ。昔の早くから縄張りとしていたらしいが、昼間からこれほどまでに出てこれるなんてな」
話に出る度に疑問だった。憧れに関係してくるので、疑問のままにはしておけない。
「ヒトカゲって、あの化物のこと?」
「…………は? まさか、知らないのか?」
だから聞いている。
答えないでぶつくさ独り言をしているのには苛立った。
「ええと、こほん。ヒトカゲというのは、 まさにその化物のことだ。基本的に夕方に出現し、人に似た影の姿で襲ってくる。だから皆、人影と呼んでいるんだ」
「個体差があるの?」
「ああ。これまでやり過ごしてきた個体は全て強いぞ。夕方でもないのに出てこれるのだからな」
「形も同じ?」
「いや。強いほどに人の形に近づくし、弱いほど形を保っていられないから、ゆらゆらと揺れるだけの無害なのもいる。後は極希に人じゃなくて動物の姿だったりするな」
「そう」
先生の相手となったヒトカゲは人の形そのものだった。対して代美と共に見かける個体は人の形をしているものの、ぼんやりと体の線がはっきりしていない。
「さて、ここまで来ればひとまず安心だな」
安全地帯には数多くの家屋があった。廃屋となっているのを使っているらしい。ノエルは鞘から刀身を抜こうとして、代美に首根っこを掴まれる。
「治療が済んでない。そもそも刀を使うのを許していないんだからな。……まずは体を洗って来い。誰も使っていない水場があるから、しっかり隅々まで綺麗にな」
抵抗は血が染みこんだ柄を指摘されてやめた。代美に従えば柄は新しくしてやるというので、廃屋から少し歩いた先にある水場に行く。
水場は木々に囲まれた中にある泉だ。手先を差し込めば、冷たくて水面が揺れる。覗き込めば人が映りこんだ。
同じだ。水面のノエルとは別に、欠落した記憶の中に大人のノエルがあった。いいや、ノエルでなく違う人か。現在のノエルと異なり、清潔で品がある。
誰だろう。記憶に興味がないと思っていたが、このときは気にかかった。思い出そうとノエル自身と見比べて手掛かりを得ようとする。手をついたのは、水面だとすっかり忘れていたからだ。
水中ではノエルが吐き出した息によって、視界が泡で埋め尽くされることになった。次に息を吸って、咳き込むことになる。それは止まらないし、喉辺りの違和感と苦しさから、水中から出ようともがく。
助けは代美によってもたらされた。引っ張り出して、背中をさすってくる。
「ノエルからは目が離せないな……」
代美はノエルを甲斐甲斐しく世話してくれた。両者ともに水に濡れたので着物を干したり、治療後は囲炉裏で火を熾し、食事も準備する。柄は変えてくれない。変える材料がないし、そもそも職人がすることで代美にはできないらしい。なんてことだ。
「なぜあの場所にいたのか、先生に助けられた経緯とその最期を教えてくれないか」
前に差し出された焼き魚を取ろうとして、遠ざけられる。近づけられ取ろうとして、また遠ざけられる。ふふん、と意地の悪い顔をしていた。
別にくれないならくれないでいいのだが、柄の件があるし、世話してくれるその有能性を知った後だ。
「分からない」
「どういうことだ?」
「記憶がない。気付いたらあの場所にいて、ヒトカゲに連れられた」
「なんだと」
くれた焼き魚は噛みしめると口の中に熱さが、次にじゅわあと味が舌に広がる。乾かぬ着物の代わりに着た代美のでは、大きさがあっておらずぶかぶかで、袖が落ちてきて食べずらい。紐で縛ってもらいながら、代美に欠落した記憶の詳細を尋ねられた。
残っている記憶は微かである。家の場所、家族と聞かれても分からない。ノエルと似た女性が脳裏を過ったが、確証はない。特別に言うべきでもないだろう。
「先生は……気づいたら、ヒトカゲと戦っていた。二体いて、その内の一体は既に倒れていたからもう片方と打ち合っていた。刀は光を受けて煌めいていて、先生は真っ赤な血を流しているからそれが宙に飛び交っているの。それはとってもとっても綺麗で――。ヒトカゲは負けていて、でも灰になる前に傷を少しだけつけた。先生はこう、刀で受け流して傷を作りながらも素早く振り下ろす。あっという間の戦いで、だから残念。その後に倒れていたヒトカゲによってお腹を貫かれて、二度と動けなくなってしまったから」
気分が高揚していて、今すぐにその憧れを体現したいと思う。だが、その前にノエル自身が先生のように刀を振るうことができない。だから道中のヒトカゲに出会っても欲求を抑えた。あのヒトカゲは強いというし、憧れをなす前に死ぬのは本望ではない。
「そうか」
代美は顔を俯いていた。焼き魚はまだまだ残っていたので食べる。空の胃には際限なく入った。
「すまないが、魚は全部やる。食べた後は寝て、明日に備えて早めに寝よう」
火が全て消えて、代美は規則正しい寝息をし始める。ノエルは気付かれぬよう、静かに布団から出て刀をもつ。外は月が出ていて、ほんのり明るかった。
刀を振るうのに、柄の汚れは問題ない。手のひらの傷だって、ずっと我慢していたことに比べればなんてことはない。
歓喜が心を占める。ああ、憧れに近づいてきている。
初めの頃とは段違いに刀をまともに振れていた。先生の技量にはまだまだ遠いが、その進歩が実感できる程だ。
そんな気分が最高潮のときに迫って来た代美を見て、閃いたものがある。憧れはヒトカゲだったけど、人間でも斬る相手はいいのではないか。
血を飛び交う光景を作るには、人間の方がよりよい。ヒトカゲは灰を出すだけであるし、ノエル自身が出血する必要もなくなる。
試してみようか。
ノエルは代美の体に潜む血に惹きつけられていた。