第十話 我慢の毎日
人は見かけによらない。本部長はたあいない弱者のふりをしていて、隠してあった牙を顕にした。
困った顔をしつつ、何度も腹を殴られる。見かけと行動が一致しないことが、あれほどまでに恐いとは知らなかった。逃げることも許されず本部長の脅しに屈するほどで、ノエルはその後、後悔とどうしようもできない諦観で心が沈んだ。もう、満足のいく憧れはなせない。
人を害せないことで手を抜くことになるからだ。刀が奪われたこともあり、そんな憧れに満足などできるはずがない。だが、本部長には逆らえない。恐怖は心の奥底に刻み込まれ、本部長を見かけただけで全身が震えてしまう。
いつか恐怖を乗り越える力をつけるまでの我慢だ、とノエルは自分自身を慰める。強くなりさえすれば、我慢の必要もなくなる。それに、満足いく憧れのためには、剣技を磨かなくてはならないので時期的に丁度いいだろう。そのはずだ。
ノエルが本部長を乗り越えらえる姿は全く想像できないが、そう思い込まなければ狂ってしまいそうだった。
そんな考えに至るまでに、ノエルは何日も要した。恐怖と諦観で、最初の内は何かを考える気力がなかったからだ。強くなる指針を立てたときには、治療を受けた部屋から代美の住まいに移動することになっていた。
代美は先生の刀を奪われたことを容認したし、人を害することもよしとしない。本部長に味方している訳だが、ノエルの敵にはならなかった。口で諫めるだけだし、なにより先生の剣技を教えてくれるのだ。その他にも世話をしてくれるし、ノエル自身でできるようあれこれ言うことを除けば楽なものだった。
一緒に暮らす住まいは長屋だ。終幕の灰身団に属する者のために、作られた長屋を貸しているらしい。同姓で固められた場所では、灰身上の他に奉公人もいる。その奉公人は灰身上の分の洗濯や食事の準備など、補佐として侍女の仕事をするらしい。まだ灰身上らしき仕事をしていないノエルの分もやってくれた。
傷が完全に癒えていなかったので、長屋でもノエルは安静にさせられた。こっそり代美のもつ刀を代わりにして振ろうかと思ったが、隠されてうまくいかない。
代美以外の刀を捜しに行こうとすれば、代美は安静にさせることは諦めた。代わりに体づくりを勧められる。
「剣技を習得するには、必要な筋肉がなければできない。それに体力があれば長く鍛錬し続けられるし、灰身上となって旅するときに役に立つぞ」
納得できる理由なので、一先ずノエルは体づくりに励むことにする。倒れ込むまで走りこんだ。
「おまちどうさま。お望みの刀よ」
大小の刀が与えられたのは傷が完全に癒えたときだ。奉公人の茜が持ってきてくれた。奉公人は家事以外にも様々な仕事があり、担当がある。茜は事務仕事が主らしいが、ノエルと代美の専属になったことで、よく顔を合わせて話をしていた。
ノエルはさっそく振ってみようとする。薄々察していたが、鞘から抜いてよりがっかりした。なんだか不格好な刀である。小刀も同様だ。
「なにこれ」
「大量生産の支給品ね」
「懐かしいなあ。私もこれから始めたものだ」
「交換しよ」
「しない。我慢しろ。一人前になったら、自分にあった刀を一から作ってくれるから」
「そうなの?」
「ああ。刀の性能に頼らなくともヒトカゲを斃せるのだと、さっさと証明してやろう。ノエルなら直ぐに貰えるはずだ」
「……分かった」
ノエルは茜に見送られ、灰身団の敷地から離れた川辺まで代美に連れられる。直ぐにでも先生の教えを乞うたからだ。武芸場や長屋の近くでもいいのだが、代美とノエルはよく人に絡まれる。邪魔が入らぬよう、川辺がノエルの武芸場になりそうだった。
ノエルは代美に木刀を渡される。
「ほら」
「……なに?」
「あのなあ、普通真剣で稽古はしない。危ないだろう?」
「感覚が違う」
握ったときや、重さなどで真剣のときに支障がでる。
「初心者なんだから、型どおりに振れるようになってから言え」
代美は頑なに譲らない。こういうとき、ノエルが折れるまで小言でうるさくなる。最終的に先生の剣技を教えないぞと脅されて、ノエルは渋々木剣で我慢することになった。真剣のある意味がない。
代美は心構えから姿勢、足さばきと基本的なことから教えた。これは復習も兼ねていて、以前からちょくちょく教えてくれた内容が混ざっている。
そうして長い時間を耐えた後、ようやく剣技を教えてくれる。
「まあ、先生の剣技といっても、型はないんだけどな」
「はあ?」
「ちょ、キレるなよぉ。型はないが、『姿勢』があるんだ」
「『姿勢』?」
「ああ。真正面の振り下ろしだったり袈裟懸けだったりと型だけに及ばない、所作の隅々に先生が先生たらしめた強さの技がある。先生はな、佇まいから雲をつかむような雰囲気があるんだ。そこにいるのにつかめない、といった感じで……見せた方が速いか?」
未熟だから、先生の姿勢の一割もなすことができないと前置きをされてから、代美は木刀を構える。
代美が言っていることは分かった気がした。代美の気配が一瞬、うっすらと薄まる。
「どうだ。できてたか?」
「ん」
「なら良かった。先生の場合だと、目の前にいると見えているはずなのに認識ができなくなるんだ。姿勢はさっき教えた基本ができてないとまず習得できないから、型だけにこだわらずに鍛錬してほしい」
代美が喋喋と語っていくが、ノエルは一先ずやってみようと思った。時間がかかるのは好きじゃない。
目蓋を閉じて、先程見せてくれた代美の姿勢を思い返す。体格の違いはあるが要所要所を押さえておけば、模倣は可能だ。
ノエルは呼吸を意識し、ゆっくりと吐く。代美は息を吐ききった瞬間に、姿勢はなった。目蓋を開いたとき、代美は苦笑いをしていた。
「……驚いた。流石ノエルだな」
「力を抜いたほうがいいの?」
「そうだな。その場に溶け込めるように、自然体が求められる。それが斬りあい時にも維持できるかが、難しいところだな」
「代美はできない?」
「そうだな。さっきので限界だ。ノエルは目がいいようだから見せられたら良かったが……他の弟子に見せてもらうには難しいだろうし、できる者ほど出払っているだろうから」
「そう」
ならノエル自身で試行錯誤していけばいい。コツはなんとなく掴めたので、後は技を高めていけばいいだけだ。これまでと変わらない。
それから川辺で稽古や自主鍛錬をする日々を送った。代美は最初に教えることを述べたら、後は時々様子を見に来るだけでずっと共にはいない。ただ、昼食と夕食前になると、呼びにやって来る。
「灰身上は体が資本なんだ。鍛錬よりも、まず十分な食事と睡眠をとることが大切なんだぞ。身長だって伸びなくなってしまうんだからな」
「それは困る」
毎日の積み重ねで、少しずつ身長は伸びていく。体格の小ささは悩みどころなので、時間を割くことを許容する。
その他にも代美は、ノエルが木刀の振りすぎで再び手のひらが出血すると、代美は町に連れ出した。
「ノエルは憧れ以外にも、楽しみや喜びを知るべきだ」
鍛錬ばかりになるな、ということらしい。包帯巻きの手の反対を引きずってでも、様々なものを体験させる。
八百屋や魚屋に並ぶ新鮮な商品を見たり、農村部から来ている売り歩きの者から声をかけられたり、店売りで座ってだんごを食べてみたり、女らしさを強要されて櫛屋や絵双紙屋でない好みを言わされたり。
絵双紙屋では特に困ったことに、ノエルが読み書きできないことを発覚された。これまで文字に接する機会はなかったので良かったが、一冊の恋愛物語を勧められて「読めないからいい」と言ったのが間違いだった。
代美は店の看板を指差して、「あれはなんだ」「どう読む」と答えさせた。全て分からず答えるのも面倒で首を傾げていれば、読み書きができるよう教えられることになってしまった。
「寺子屋だと絶対にさぼるからな。私直々だ」
「時間が減る」
「もう稽古つけてやらないぞ?」
「最近もあまりつけてくれない」
「元から私が教えられることは少ないし、ノエルは直ぐにできてしまうからな。どうしても反復練習になってしまうんだ。よし、今日中に自分の名前を書けるようにするぞ」
その前に筆の握り方や用具の扱い方を教わることになる。そこから躓いてしまったのだ。筆の握り方ごときに細かく言われつつ、紙に書かれた手本の『ノエル』の文字を写す。
「書いた。終わり」
「まだ一回だけだろう。しかも蛇みたいにくにゃくにゃで読めないし。次は私と一緒に書くぞ」
背に回られて一緒に書くことになった。手本通りになったが、一人だと元通りの字に戻る。
「一回見せればこのぐらいできると思っていたが」
「興味ない」
「まあ、着物もまともに着れないしな」
憧れに関係しないとこんなもんである。
とはいえグダグダしていれば、鍛錬の時間は減る。筆をとって液状の墨につっこむと、つけすぎてポタポタと滴り落ちた。ノエルは横から覗き込む。
「……これ、赤色ある?」
「朱墨か? 確かあったような……ちょっと待ってろ」
あったらしい。代美はその墨をすってくれた。
「いっぱい欲しい」
「ノエルがこんなにも意欲的だなんて……よし、任せろっ」
高速ですってもらっている間に、ノエルは刀を外に用意しておく。
「できたぞ! これでいっぱい練習できるな――って、え?」
硯ごともらって、外に用意した刀身に垂らした。いっぱいと言っていたが量が少ない。
「おおおおおい!? 何やっているんだ!」
代美がうるさいのはいつものことなので、放って刀を振ってみる。
血の代わりにはなるが、これは違う。心沸き立つものがない。
本部長の恐怖が記憶に強かったが、ノエルはその前にカティンカとの勝負をしていた。その際、カティンカの血に惹かれたものである。代美の血もそうで、だが途中で惹かれなくなった。対してカティンカの血には、今でも惹かれている。
この違いはなんだろう。ノエルは理由が分からず、感情を持て余していた。
これが誰の血でもよくないことは分かっている。出血した場面を見ていないので確信はないが、ノエルは茜などの奉公人や町人の血には全く興味はなく、灰身上には気になったりしなかったりした。
どうしたものか。
朱墨を血に見立てた場合では惹かれない。ただ赤いだけでも違うようだ。理由探しで考え込むが、ゴンと頭に拳骨がくだる。
「腕が痛むぐらいにすったのに、無駄にしやがってぇ」
代美は口うるさいだけで、呆れたりしてもあまり怒ったりしない。出会った初日以外、手も出してこなかった。
ノエルは少し目を瞠目し、すいっと目を逸らす。なんだか居心地が悪い。地面に落ちた朱墨を足を使って土でかぶすが意味がなかった。再び拳骨を受ける程、代美の怒りは膨れ上がった。




