今日の花
この作品は史実を基にしたフィクションであり史実とは異なる箇所があります。
あれから一年。その後も日本軍が徐々に占領地を広げてゆく一方で、なかなか新たな文化が我が国に根付かずそれはもう緩やかに文明開化が進んでいきました。
いずれにせよ厳しい状況が続く中で清国全権の李鴻章が小山豊太郎と言う人物の銃撃を突如受け負傷した事で、遂に休戦条約が締結されたのです。
「お休み中のところ失礼致します。只今奥様の姉と名乗る方がおいでになっていますが、いかが致しましょうか」
そんな中、梅木家にある客人が訪れていました。今も彼と逢えない日々が続く中で、かつての姉との文通が楽しくて楽しくて仕方が無かったのです。
その姉が遥々京から遊びにやってくると聞いていても立ってもいられずに思わず布団から起き上がりました。
「小雪お姉様!」
「もう花子はんったらわやしはったらあきまへん」
私が慌てて布切れをどけると、それよりも先に襖が開きました。その名の通り銀色に染まった着物姿の小雪お姉様が寝室の中に入ってきたのです。
あれだけ無茶をするなと言われたのについ言いつけを破ってしまいお姉様もさすがに呆れているようでした。もう自分一人の身体じゃないとわかっていても常に頭を働かせていないといろいろと考えてしまうから。
「どうかお許し下さいませ。ずっとお姉様にお逢いしたかったんです」
その柔らかで魅惑的な甘い香りを求めるように擦り寄ると、少しだけ心が安らぎました。あの時は生きる事に必死で何も考えられなかったのに、今はそうまでしても生きる理由を求めずにはいられない。
「そんなん構へん。あんたが元気なら」
「私は大丈夫です。ここで立ち話もなんですからお茶でもしていって下さいな」
私が寝室から出ようと立ち上がると、その横にいた女中さんが重い身体を支えてくれました。あの長い冬を乗り越えた花もこの庭園で無事に春を迎えていたようです。
今年も薄紅色に染まりゆく桜。それを見届ける事ができるだけでも幸せなはずなのに、本当に人間はどこまでも欲深くて愚かな生き物だとつくづく思うばかりです。
それでも、お姉様に憧れて仕立て屋さんに仕立てて頂いた花柄の白いお着物が着たくて、私はそれを引きずるように客間へ向かいました。
「このお茶ほんに美味しいわあ」
「ふふ、私もすっかりお母様が送ってくれるお茶の虜になってしまいました」
その濃厚なお茶の苦味が口の中に広がってゆくのを味わうようにごくりと喉を鳴らすお姉様。本当に一つ一つの動作が美しくて思わず見惚れてしまうほどでした。
私もそれを見習ってお茶を口にするのですが、この人にはとても敵いそうにない。さすが毎晩のようにお座敷で引っ張りだこになるだけあって、そんな彼女を殿方が放っておくはずが無いでしょう。
この身を削ってでも生きてゆくためには仕方の無い事だと割り切っていたのに、どこかで彼女の事を羨ましいと思っているのかもしれない。そこまでして芸を売り続けてゆく覚悟が私にはなかったから。
「やっぱしあんたの事が好きやわあ」
「え、きゅ、急にどうなさったんですか」
ゆるりと伸びやかに律動を刻むお姉様の言葉にドクンと高鳴る心臓。そんな風に色っぽく艶やかな声で囁かれたら殿方が夢中になってしまうのも無理は無い。
今までお姉様の浮いた話を聞いた事が無いだけに、それが京の芸妓として生きてきた女の意地なのだと思いました。
「ずっと芸は売っても身は売らへんと思うて生きてきたさかいあんたがいーひんと寂しおてなあ」
「……お姉様も寂しいと思う事があるんですね」
その言葉に私はあの晩の事を思い出しました。たまたま拾われたとは言えやはり私は恵まれているのでしょう。それまでずっと女を知らずに生きてきたから。
それに京は文明開化も進んでいたので旅団長の補佐に回る事も多かったそうです。そんな中で満成様が少佐に昇進し、そのお祝いでお座敷遊びをしていたとあとから聞きました。
「今度逢える時は旦那さんともお話ししたいわあ。あと、あの陸軍の大佐さんともな」
「もしかして大竹様の事でしょうか」
あの晩はほとんどお話をする事はありませんでしたが、とても気さくな方で彼女とも楽しげにお話をしていたのを今でもよく覚えています。本当にお酒に強い方で、なんだか急に懐かしくなった私達は想い出話に花を咲かせておりました。
そんな他愛も無い時間ですら玉響でも、今日と言う日の花を摘むように生きていきたい。今日食べて飲んだ分だけ明日の死を免れるなら、それはきっと絶望でも希望でもなく前途有望な未来を作る事に繋がるのでしょうから。
[參考文献]
アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展. "4. 講和へ:講和交渉の開始~下関条約締結と三国干渉". 描かれた日清戦争 〜錦絵・年画と公文書〜. 2021.
https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p004.html