小さな花
この作品は史実を基にしたフィクションであり史実とは異なる箇所があります。
私は東京の名家である小桜家の長女として生まれました。お琴に三味線、そして舞踊。お公家に嫁ぐために厳しく育てられてきたはずなのに、その小桜家が明治維新後の江戸幕府の崩壊により没落し私は舞妓として売られる事になったのです。
「まるで小さな桜の花のようだ。ぜひとも君を僕の妻として迎えたい」
そんな私を拾ってくれたのが彼でした。彼の名は梅木満成。私と同じ東京の名家である梅木家の当主であり、今は日本陸軍の少佐としてお勤めされている方でもありました。
「さあ、花子。こちらへおいで」
私の名を呼ぶその声が酷く優しげで、だんだんと身体が熱を帯びてゆくのを感じつつも私はそこから一歩も動けずにおりました。
「何故私のような女を選んだのでしょうか」
きっと、あなたのようなお方なら花街の女ではなく良家の娘を選ぶでしょうに――。その言葉が紡がれるよりも先に、いつの間にか目の前に立っていた彼によって塞がれる私の唇。
暫くすると、彼の顔がゆっくりと離れてゆき私はそれが接吻だと言う事にようやく気がつきました。
「君は武家の生まれだろう。一目見てわかったよ。あれだけの作法はそんじょそこらの女にできるようなものじゃない」
まるで全てを見抜いているかのような鋭い眼差しは、そこに映し出される自身の姿を捉えて放さない。
彼の言う通り武家の娘として生まれた私にとって、京の舞妓として生きていくと言う道はあまりにも過酷なものでした。あの煌びやかで華やかな世界とは裏腹に、そこには芸を売ってお金にする女とそのお金で女を食い物にする男の泥臭くて淫らな世界が渦巻いていたのですから。ああ、思い出すだけでもおぞましい。
「君は僕と一夜を共にするのは嫌か?」
「何故そのような事をお聞きになるのでしょう」
私に選択技などない。この世に女として生まれてきた時点で私の運命は決まっているのですから。
せめて魂だけは売るまいと心に誓いながら言葉を紡ぐと、不意に彼が私の肩を掴んではこう言いました。
「君のご両親がどんな想いで君を育ててきたか考えた事があるか? もし君に武家の生まれとしての誇りがあると言うのなら、その僕を利用してでも頂点へ昇り詰めればいい」
彼の言葉で解き放たれる、まだ幸せだった頃の想い出。もう二度と取り戻す事ができない、あの穏やかに流れていた優しい日々が――。
「君は僕の手をとったんだ。僕も君のような女をただの花街の女として終わらせたくない」
「……満成様……」
彼の名を紡ぐと共に絡み合う互いの視線。もう、すでに手遅れなのかもしれない。この人に全てを捧げたいと思うほどに、私の心はすでにあなたの事でいっぱいなのですから。
「……どうか、私を愛してくれますか」
私の問いに答えるかのように再び重なる彼の唇。私を抱き締める彼の腕の力が少しずつ強くなってゆく。私は彼の服の裾を掴みながら初めて感じる男の人の温もりにただただ酔いしれておりました。
きっと、まだ何も知らなかったあの頃にはもう戻れない。それでも、この人が目指す世界を私も見てみたいとおぼろげにそんな事を思うのでした。
[参考文献]
アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展. "1. 発端と背景:朝鮮の混乱と日清両国の動き~甲午農民戦争". 描かれた日清戦争 〜錦絵・年画と公文書〜. 2021.
https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p001.html