君と見る花
この作品は史実を基にしたフィクションであり史実とは異なる箇所があります。
きらきらと輝く水面にゆらゆらと舞い落ちる桜。水辺に咲く桜の木の下で僕は彼女とお花見をしていた。
透明のガラスのような水面を覗き込むと、それに眩しげに目を細める着物姿の女が映し出される。その横で僕は小さな小さな舟を漕いでいた。微かに花の香りが漂う櫂を押し引きするたびに水を掻く音が響く。
お座敷遊びなんてただの暇潰しだと思っていたが、あの日から彼女の事がどうしても忘れられなかった。僕は何度も彼女に文を送ってはこうして逢瀬を重ねていた。
「とても桜がきれいで素敵ですね」
彼女がひとひらの桜を見つめて言った。まだ年端も行かない娘だと言うのにほのかな色香を纏っていて、その長い睫毛に憂う瞳がどこか儚げでただただ美しい。
自分よりもか弱い女なんてただの足手纏いだと思っていたが、彼女だけは違った。少し大人びた白い簪。そして、黒地の生地を贅沢に活かした花柄の着物がそれを物語っていた。
「こんなにきれいなのにすぐに枯れてしまうなんて……」
そう言って、彼女は水辺から花びらを掬い上げると、それをじっと見つめる。その凛とした佇まいには芯の強さを感じていた。
この女に花街は似合わない。もっと清らかで品のある着物を身に纏うべきだ。それなのに何故このようなところで芸を売っているのか。
(――ああ、まさに諸行無常だ)
僕は感嘆の溜め息をつく。この国が開かれるまでに多くのものを失った。今は短くなってしまったこの黒髪で自由に髷を結う事も刀を持ち歩く事もできない。
その自由を取り戻すためにはどうしても新たな文化を受け入れる必要があった。例え外国かぶれと言われようとも日本の伝統芸能を失う訳には行かない。
「それでも花はきれいだ」
今も彼女の向こうで桜の木がそよそよと揺れている。僕はその言葉が風の音にかき消されてしまわぬように強く言い放った。
我々は刀を取り上げられ、武家の娘は売られ、このまま武士道まで失われてゆくと言うのか。だが、今は枯れかけた梅の木のようにこの桜の木が枯れようともまだ武士としての誇りは捨てちゃいない。
それは卵の殻で海を渡るようなものなのかもしれないが、何かを成し遂げようとする時には犠牲は付き物なのだろう。少なくとも我々はそうやって生きてきたのだから。
「あなたと一緒に桜を見られて嬉しいです。また来年も見に行ってくれますか」
彼女が顔を赤らめて微笑んだ。その約束が果たされる時に例え自分がいなくとも、せめてこの女だけは守りたい。僕は彼女の問いに返事はせずにこの心に誓うのだった。
[参考文献]
アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展. "1. 発端と背景:朝鮮の混乱と日清両国の動き~甲午農民戦争". 描かれた日清戦争 〜錦絵・年画と公文書〜. 2021.
https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p001.html