二話②
朝食を終えたソフィーは、とある場所へと向かった。
屋敷から最寄りの市街地、下町だ。
リーヴロ家本家を取り囲むこの都心は、人通りも多い。
様々な建物が立ち並び、交易も盛ん。
下町だからと言って、出歩くのは庶民ばかりではない。
そこには貴族が使うような一流宿泊施設も存在する。
ソフィーが目指すのは、その場所だった。
歩ける距離ではあるが、予告の時間よりも早く辿り着くため、馬車で宿前まで辿り着く。
かつて抱いていた敬遠はない。
従者に促されて馬車から降り、辺りを見回すと、既に待ち人はそこにいた。
ソフィーの姿を見つけたようで、大柄な体格の青年が片手を上げる。
「スヴェンさん! 来てくれたんですね……!」
「勿論です。約束を破る程、私は薄情な人間ではありません」
「え? えっと……」
「しかしこうしてリーブロ家のお膝元に立ち入るとなると、少し緊張しますね。粗相がないようにしなければ」
「その」
「はい?」
「その話し方は、ちょっと他人行儀感があるので……」
「……駄目なのか? コッチの方が、礼儀正しいと思うんだけどな。まぁ、気に入らねぇなら、それでも良いけどさ」
ソフィーのツッコミに対して、スヴェンは疑問を抱きつつも元に口調に戻す。
約束とは、見合い後の話。
関係を築くため、お互いに親交を深める場を用意する事だった。
前回はソフィーがスヴェンの元に出向いたため、今回はその逆。
彼を迎える形で約束を取り付けた。
ただしスヴェンの服装は、以前のような貴族服ではない。
一般人に溶け込むような、庶民的な出で立ちである。
「ホントなら、もっと早く来るつもりだったんだけどな。執事が着ていく服はコッチの方が良いとか、あれやこれや言うせいで、もたついちまったよ」
「そうなんですか? 私もてっきり、以前のようなお召し物かと思っていたんですけど……」
「それじゃあ、逆に目立っちまう。お忍びってのは、そういうモンだろう?」
そう言って彼は胸ポケットから伊達メガネを取り出し、自慢げに掛けてみる。
メガネの有無だけでも、印象は変わるものだ。
何処となく知的な側面すら見え始める。
対するソフィーも系統は同じだった。
メガネこそ掛けていないが、学院時代の派手な衣装は着ていない。
あくまで一人の少女が外出する服装に、目元を隠すように帽子を被る。
これで周囲の人間に、リーヴロ家の長女が出歩いているとバレる恐れはない。
そもそも数年間屋敷にこもっていた令嬢の顔を、覚えている人がいるのかは怪しいが。
スヴェンは互いの服装を見比べ、大丈夫そうだと頷く。
「うん。お互い、洒落た普通の男女って感じだな。これなら周りの目を集める心配もない」
「はい。これで、他の人の視線も気になりませんね……多分」
「相変わらずだなぁ。今更だが、別に無理して街に出る必要はないんだぜ?」
彼は少しだけ街に繰り出す事を気に掛けていた。
何を隠そう、ソフィーは引きこもりである。
屋敷の外へ出るのも相当な覚悟がいる。
彼自身は別に室内でも構わないと言ったのだが、当の彼女がそれを押し留めた。
されるだけではない。
自分も何かをしたい。
その思いが、ソフィーを突き動かしていたのだ。
両手を握り締め、心配する彼に答える。
「ま、任せて下さい! 今度は、私がスヴェンさんを案内する番です!」
水入らずで、生まれ育ったこの街を案内する。
スヴェンもリーヴロ家の都心に赴いたことは殆どなく、風景を楽しむ機会はなかったとのこと。
ならば好都合。
観光地としての名を持つ街並みを、楽しんでもらう。
そうすれば、塞ぎ込んでいた自分を掬い上げてくれた、彼への恩返しにもなる。
ソフィーはそう意気込みを見せていたのだが。
「う……。ひ、人に酔った……」
「馬車酔いなら知ってるが、まさか人で酔うなんてなぁ。取りあえず、近くの休憩所で一旦休もうか」
街を歩いて、人混みに揉まれ、暫くして彼女は酔ってしまう。
慣れない事をすれば、それは自分にも返ってくる。
まさかここまでとは思ってもいなかった。
ソフィーは自身の脆弱さを改めて知り、愕然とする。
休憩所の長椅子に腰を下ろし、気分を整えていると、スヴェンが何処からともなく水の入ったコップを持って来た。
「店の人に事情を言って、水を貰って来た。酔い止めの薬なら持っているが、いるか?」
「い、いえ……大丈夫です。お水だけ、頂きます」
自信ありげに息巻いておいてこの始末。
本当に申し訳ない話だ。
ソフィーはコップを受け取り、熱くなった身体を冷ましていく。
割と軽度なので、少し待てば調子は元に戻るだろう。
スヴェンは特に気にした様子はない。
代わりに彼女の耐性のなさに、少しだけ苦笑する。
「野暮かもしんねぇけど。学院の頃よりも、よわよわになってねぇか」
「よ、よわよわ……」
「運動してないのか? つーか、昼夜逆転してるんじゃないだろうな?」
「……!」
「まさか?」
「し……してます」
彼の問いに、ソフィーは目を逸らした。
残念ながら事実である。
彼女は引きこもりになって以降、昼夜逆転した生活を送っていた。
陽の光を疎む日々が続いたため、自然とそうなってしまっていた。
早寝早起きも久しぶりだったのだ。
人に酔ったと言ってはいるものの、もっと別の所に問題がある気もする。
彼は残念なものを見るような目をした。
「ソフィー……お前ってヤツは……。貴族が昼夜逆転生活とか聞いたことねぇぞ? もしかして、アレか? 何処ぞのシフト制門番か?」
「ち、違……!」
「夜勤手当が必要みたいだな?」
「ああっ……! そ、そんな事を言って……! もう……!」
「悪い悪い。でもなぁ、マジでその生活は変えた方が良いぜ。身体壊すぞ」
スヴェンは至極真っ当な事を指摘する。
人はそもそも朝起きて夜に眠るように出来ている。
夜更かしは美容の天敵。
流石のソフィーも、その自覚はあったので気恥ずかしさを覚えてしまう。
やはり何処か、一人でいる事に甘え、自堕落になっていたのかもしれない。
「それに陽の光を浴びるのも、悪くない。そう思ったから、こうして俺を呼んでくれたんだろう?」
見上げると陽の光を背にしたスヴェンが、彼女を見つめていた。
昼夜がひっくり返ったのは自分本位な意識のせいだったが、今は違う。
こうして屋敷の外に出たのは、自分のためだけではない。
今はまだ眩しい。
しかし慣れれば、この光の先も歩けるようになる筈だ。
ソフィーは目を細めつつ、確かに頷いた。
少し間を置いて調子を取り戻したソフィーは、水を渡してくれた店に礼を言った後、スヴェンと共に再び街を散策する。
体調を崩さないようゆっくりと歩き、彼も歩調を合わせてくれている。
二人が通るのは、街の大通り。
通路の両脇には隙間なく屋台が立ち並んでいる。
売られているものは食品の割合が多いが、アクセサリーなどの品もある。
まるで祭りでもあるかのような雰囲気だが、この街では普通の光景だ。
日常の如く盛況さは失われず、夜になれば別の店が明かりを灯していく。
スヴェンは物珍しそうに辺りを見回した。
「ストリートフードか。やっぱり海に面していると交易の程が違うな。見た事ねぇ品ばかり揃ってる」
「リーヴロ家領の自慢の一つなので。スヴェンさんから見ても、こういった所は珍しいですか?」
「俺の所は国境に面しているからなぁ。あそこは端に行けば行く程、何もねぇんだ。寂しいモンさ。物資だって自国の輸入で成り立っているし、自給自足ってのが、珍しいのかもしれねぇな」
「……という事は、此処の物資もスヴェンさんの元に届いているんでしょうか」
「違いねぇ。いやぁ、ホントに感謝してるぜ。神よ、何とやらってヤツだ」
「ふふ。そんな調子の良い事を言って……」
「金だけは馬鹿みてぇにあるからな。景気よくやらねぇと、バチが当たっちまうよ」
そう言いつつ、彼は目ぼしい店を見つける。
綿菓子を売っている露店だ。
今さっきそれを購入したばかりの子供が、嬉しそうな表情で家族と共に通り過ぎていくのが目に映る。
木の串に編まれたそれは、糸を束ねた糸玉のように見える。
いるか、というようにスヴェンが振り返って来たので、勿論頷いた。
そもそも、それ位は自分で出すとソフィーは手を伸ばしたのだが、彼が大丈夫だと首を振る。
こういう時は外部の人間が景気よく金を落とすべきだ、という認識らしい。
彼は顔が隠れる位の大きい綿菓子と、その半分くらいの小さな綿菓子を買ってきた。
色はどちらもイチゴの赤、である。
そしてその小さい方を彼女に手渡した。
「食べ歩きは貴族じゃご法度だが、今の俺達は一般庶民、だからな」
「少しくらいなら良いかも、ですね。でも、他の人には……」
「内緒、だろ?」
お互い僅かに笑い合いながら、綿菓子を口に運ぶ。
今はお忍びなのだ。
令嬢として、誰かに見られている訳でもない。
見ているのは、今ここにいるスヴェンだけだ。
少し恥ずかし気に帽子を被り直しつつ、ソフィーは口の中に広がるイチゴの味を楽しんだ。
二人は再び風景を見て回る。
街の中は水路が行き渡っており、何処からか聞こえる水の流れる音が、気分を落ち着かせる。
人通りは確かにあるが、その中にも一種の静けさがある所が、ソフィーは好きだった。
最近では街にすら出ていなかったが、今になって思い出す。
子供の頃、よく家族に連れられて街を出歩き、人々と交流を深めていた事を。
ソフィーは名物と呼べる品々を、スヴェンに紹介していく。
合間にある休憩所で休んでは歩いて、の繰り返しだったが、気が咎めることはなかった。
「どう、でしたか?」
「ん~、かなり満足だ。食い物が美味いのは、豊かな証拠って言うしな」
陽が傾き始めた辺りで、スヴェンは満足そうに背伸びをした。
やはり体格が良いからだろうか。
紹介した名物をじゅんぐりに味わっていった。
口に合わなかったらどうしようかと思ったが、大丈夫そうだ。
両親や従者から頼んで、露店に関する資料を引っ掻き回しただけのことはあった。
安堵とするソフィー自身も、数年経っても殆どの味が変わっていないと知る。
そしてそれは、ただ変わっていないのではない。
変わらないように努力しているのだ。
ソフィーは、往来する人々の表情を見る。
そこにかつての彼女のように、塞ぎ込む者はいない。
「こうしてあるのも、領地の皆さんが、一生懸命頑張ってくれているお陰です」
「だな。民あっての貴族、貴族あっての民、だからな」
「だから私も、頑張らないといけないんですよね。せめて、少しでも……」
「……ソフィー?」
スヴェンが彼女を見返す。
体調を崩したのかと心配しているようだが、そうではない。
帽子のつばを上げて、そこにある太陽を見上げる。
「だ、誰か! 誰か、弟を知りませんか!?」
すると不意に、少女の声が聞こえてきた。