最終話⑯
「えっ!?」
別の方向から聞こえた甲高い音に、ソフィーは声を上げた。
部屋の窓が割れたのか。
強風と雨の音が、室内にまで大きく響き渡る。
荒々しい空気に、他のドレスたちが震え出す。
同じように風で靡き倒れそうになる自身のドレスを、ソフィーはどうにか抱え込む。
するとスヴェンが転がって来た小石を見て、皆に指示を出した。
「礫が巻き上げられたのか! 皆、窓から離れろ!」
思わずソフィーは目を瞑る。
既にガラスの破片が床に飛び散り、風も吹きこんでいる。
下手に窓に近づいて怪我でもすれば大事だ。
彼の指示に従い、ドレスを抱きつつ一歩一歩後ろに下がろうとする。
そんな時だった。
窓の近くに置かれていたアンジェリカのドレスが、風に煽られた。
それだけでなく、まるで強い力に引かれたかのように、トルソーから抜けて窓の方へ吸い込まれていったのだ。
突然のことに誰も反応できない。
今まで言葉を失っていたアンジェリカが、焦燥に駆られた。
「わ、私のドレスが……!」
「アンジェリカさん!?」
止める間もなく窓の方へと駆け出す。
だが遅かった。
ドレスはそのまま外の風に巻き込まれ、室内から姿を消す。
消えた方向を見ると、外にある大きな樹の枝にドレスが引っ掛かっているのが見えた。
寸前で留まっているようだが、今のままでは別の場所に飛ばされかねない。
貴族令嬢という立ち振る舞いすら忘れ、アンジェリカは即座に踵を返した。
「あのドレスは……あのドレスは、私の……!」
スヴェンやルーカスを通り過ぎ、扉を開け放って駆けていく。
この強風の中、ドレスを取り返す気なのだろう。
ソフィー自身、同じ状況なら同じようにしていた筈だ。
すると衛兵達にもガラスの割れた音が聞こえたようだ。
複数人が慌しく駆け込み、周りの状況に困惑する。
「これは何事ですか!?」
「この風で窓ガラスが割れた! 警備兵、あの窓を補強してくれ! 他の作品まで野晒しになる!」
「か、畏まりました!」
スヴェンがすぐさま状況を説明し、兵士達を動かす。
すぐさま持ち込まれた木板で割れた窓は塞がれ、雨風を凌いでいく。
もうこの部屋は大丈夫だろう。
ソフィーは自分のドレスから手を放した。
そしてスヴェンが彼女に気付くよりも先に、アンジェリカを追った。
考えるよりも身体が先に動いていた。
館内を過ぎ、自ら傘を差し、一人で繰り出す。
多少の雨に濡れようが、気にはしなかった。
先程見た場所まで、収まらない風に吹かれながらも進み続ける。
すると視界の先で、アンジェリカが傘すら差さず、懸命に樹の枝に手を伸ばしていた。
もう少しで引っ掛かったドレスに手が届きそうなのだが届かない。
そんなもどかしさに、彼女は躍起になっていた。
「アンジェリカさん! 危険です!」
「黙りなさいッ! これは私の作品なの! 私が望んで、一から作り上げた最初の……!」
彼女は大声を上げて牽制する。
何があってもソフィーだけには力を借りたくない。
手を出す事は許さない、そう言いたいようだった。
「貴方に分かる筈がないわ! いとも簡単に心を動かせる、貴方には!」
「!」
「何日も、何週間も、何ヶ月だって! 私は、たったそれだけを望んでいたのに……!」
悲痛な叫びが届く。
全てはルーカスの心を動かすため。
婚約関係となった今でも、彼女は過去に縛られたままだった。
きっと、そこから抜け出したかったのだろう。
慣れない手つきで刺繍を一から学び、自分の力でドレスを作り上げた。
公爵令嬢という立場を抜きにして、一人の少女として彼の気を引こうとしたのだ。
ソフィーはその言葉に自分自身を重ね合わせてしまい、二の足を踏む。
直後、後ろから別の足音が聞こえてくる。
スヴェンが二人に気付いて追って来たのだ。
雨風に動じず、状況は見ただけで分かったようだ。
無理に手を伸ばすアンジェリカを見て、彼は思わず制止の声を上げた。
「よせ! 無理に引っ張れば……!」
瞬間、ようやくその手がドレスの端を掴む。
アンジェリカは安堵の表情を見せたようだった。
だがそんな気の緩みが隙を生んだ。
無理な体勢だったためにバランスを崩した彼女は、反射的に力を込めてしまう。
樹の枝から取る前に、込めた力の先がドレス全体に伝わってしまう。
一瞬の事だった。
ビリッ、と布を裂く音が微かに響いた。
「あぁっ!?」
誰が叫んだのか。
伸びていたドレスは支えを失って、手元に落ちてくる。
同時に赤い布地の切れ端が舞った。
それが何であるかは疑いようがない。
呆然とするアンジェリカの手の中には、大きく破れたドレスが収まっていた。
「そんな……」
ソフィーですらそれ以上は何も言えなかった。
無理矢理引っ張ったせいだろう。
ドレスの胸元から腹部にかけて、大きく裂けている。
最早展示できる状態ではなく、ソフィーであっても修繕できるか分からない程だ。
二人が声を掛けられない中、アンジェリカは次第に肩を震わせた。
今まで彼女がしてきた事は、許されるものではない。
私怨と嫉妬で妨害を続け、最後には他人の作品にまで手を出そうとした。
自業自得と言われても仕方がない。
しかし、この結果はあまりに皮肉すぎた。
最も大切だったものを、自分の力で作り上げたものを、アンジェリカは目の前で失ったのだ。
雨や風が徐々に収まり始め、代わりに彼女の嗚咽が聞こえてくる。
「いや……いや、いや……」
頬から水滴が流れる。
それは涙だったのか、雨雫だったのか。
ソフィー達は微動だに出来ない。
暫くして、ルーカスがその場にやって来た。
先程の雨が嘘だったように止み、風も一転して騒ぎを止める。
だがルーカスは、一定の距離を保ったまま近づかなかった。
無表情のまま、ドレスを抱える自らの婚約者を見つめている。
ソフィーにはその様子を気に掛けるだけの余裕はなかったが、代わりに拳を握り締める者が一人いた。
スヴェンだ。
彼は一向にアンジェリカの元に向かわない殿下を見て、明らかに苛立っていた。
本来は口を挟むべき状況ではなかったのかもしれない。
だがどうしても我慢できなかったようだ。
遂にスヴェンは、大袈裟に声を張り上げる。
「満足ですか、殿下。これが貴方の望みだったのでしょう?」
「スヴェンさん!?」
慌ててソフィーが視線を向ける。
そんな事は、彼はおろか発言したスヴェンですら思っていない。
しかし場を動かすには十分過ぎた。
挑発を受け、ようやくルーカスが睨む。
「……何だと?」
「愛の反対は無関心とは言いますが、流石ですね。要点をキッチリ抑えていらっしゃる。人を苛立たせる才能すら、あのピエール以上とは……私も予想外でした」
「貴様、誰にものを言っている? ようやく拾い上げたヴァンデライト家の地位を投げ捨てる気か?」
「そんなもの、幾らでも捨ててやりますよ。自分の婚約者を泣かせるよりは、遥かにマシだ」
語尾を強めて、スヴェンはルーカスに対抗する。
それだけでなく帯刀していた剣に手を触れた。
抜いた剣をゆっくりと地面に突き刺し、空になった鞘だけを構える。
人間国宝である第三王子に、敵意を見せる。
アンジェリカもようやく、力ないままに二人へ視線を向けた。
「誰も殿下を咎めないのならば仕方がありません。さぁ、構えて下さい。あの時の続きをしましょう」
「……良いだろう。その挑発、乗ってやる。貴様のふざけた言動にも腹が立っていた所だ」
歯止めは効かない。
ルーカスは目つきを鋭くした後、同じように剣を抜いた。
真剣は構えない。
鞘を持つスヴェンと同じように、剣を投げ捨て鞘で相対する。
「スヴェンさん! ルーカス様! や、止めて下さい……!」
ソフィーは止めに入ろうとするが動けない。
色々な出来事の連続に、身体が追い付いて来ていないのだ。
彼ら二人の剣幕も、どちらが正しいのかも、何故こんな事になったのかも分からない。
考えるよりも先に、鞘と鞘がその場で打ち合う。
スヴェンが一歩、そこから踏み込んだ。
「殿下! 貴方は本当に、彼女の婚約者なのですか!?」
「何が言いたい……」
「何故、アンジェリカを止めなかったのですか!? いや、手を差し伸べなかったのですか! 少しでも振り向いていれば、こんな事にはならなかった! あの時、ソフィーが傷つくことだってなかった筈です!」
「忠告はした。だがそれ以上に何が出来る。私達は王家によって婚約しただけの間柄、私情を挟む余地はない」
「あの話を聞いてまだそんな事を仰るとは、つくづく厄介なお方だ! 国宝と呼ばれるだけのことはあるようですね! 血が通っているとは思えない!」
「ッ! 頭に血が上るばかりの男に、何が分かる!」
声を荒げ、ルーカスが差し返す。
今まで無感動に見えた表情が、激しい感情を見せる。
あくまで従っただけの婚約と言い張っていたが、国宝という名を嫌味に使われ逆撫でされたのか。
僅かにスヴェンが後退した隙に、彼はそのまま距離を詰めて鞘を振り下ろす。
鞘のぶつかる甲高い音が、辺りを震わせる。
「貴様には分からないだろう。才能以外を持たない者の事など。今こうしている中でも、冷めた感情を持つ私がいる」
「!」
「私は生まれながらの破綻者だ。才能の代わりに人として持ち合わせるべきものを取り落とした。父や母、兄弟達もそれを理解している。だからこその人間国宝だ。先の言葉を聞いても尚、愛情というものが何か私には理解できない。だからこそ、アンジェリカの思いには応えられない」
ルーカスは苦しそうな表情を見せる。
彼もまた苦悩していた。
全てが空虚に見えると言った以前の言葉は嘘ではない。
自分の意志ではどうにも出来ない虚無感を抱えたまま、生きてきたためか。
アンジェリカにどう接すれば良いのか。
どんな言葉を掛ければ良いのか。
人として育むべき感情を、才能によって塗り潰した。
そんな叫びが聞こえてくる。
「空虚であるからこそ、死すら頭をよぎる程だ。婚約という仲であっても、彼女は私の元に居続けるべきなのか。それが幸福な事なのか。今でも分からない。私はその程度の人間、その程度の男なのだ。傍にいた所で不幸になるだけ。宝に番など、必要ない……!」
鞘同士で押し合いに、更に力を込めていく。
それでもスヴェンの様子は変わらない。
彼の言い分に納得する気はなかった。
「番人のいない宝など荒らされるだけ。本当に何物も必要ないと言うのなら、空虚だと言うなら、何故彼女達を気に掛けたのです。本当に興味がないのなら、放っておけば良かった。言葉にしなければ良かった。貴方が戻したかったのは、二人の時間ではない。自分自身の、心が動いたあの瞬間だったのではないですか?」
「く……!」
「貴方は気付いていない。過去以上に、今こうして剣を交えているこの瞬間こそ、心が動いている証拠だと。貴方も、一歩踏み出すことを恐れた。肝心な時に何も言わず、それが回り回ってソフィーを傷付けた。俺にはそれが、我慢ならない……!」
返すように、力で無理矢理ルーカスを押し退ける。
類まれな才能を持つ人間国宝が、僅かに怯んだように見えた。
それを好機だと思ったのか。
更に追い打ちを掛けようと、スヴェンが踏み出そうとした瞬間。
ソフィーが一歩踏み出した。
もう十分だった。
二人の争いに意味はない。
元は自分が発端だったのだ。
たとえアンジェリカに非難されようとも、少しでも歩み寄っていれば良かった。
そうすれば、あの時点で分かり合えていたかもしれない。
今もそうだ。
目の前で起きているのは、過去の再現。
スヴェンがアンジェリカを非難した時と同じ、彼はまた自分の立場を顧みず、他者のために悪名を背負おうとする。
それだけは、もう嫌だった。
これ以上、傷ついてほしくない。
戦いの剣幕を受けても尚、ソフィーはスヴェンに向けて大声で引き止めた。
「スヴェンさんっ! もう良いんです! それ以上は、もう……!」
「!?」
驚いた様子でスヴェンが立ち止まる。
そして彼女の表情を見てハッとした。
雨は止み始めている。
風の音はなくなり、悲痛な声だけが聞こえる。
スヴェンはようやく、ソフィーが涙を流している事に気付いた。
「どうして、ソフィーが泣くんだよ」
「だって……!」
「……あぁ、クソッ。情けねぇな、俺は」
自分が以前と同じ事をしていたと気付いたのだろう。
スヴェンは後悔のまま鞘を下ろす。
引き止める声があったからこそ、寸前で踏みとどまったのだ。
対するルーカスは、二人の様子を見てどこか寂しそうな表情を浮かべていた。
そして、そんな彼の元にゆっくりと歩み寄る者がいる。
アンジェリカだ。
彼女は破れたドレスを両手に抱えたまま、弱々しく近寄った。
「ルーカス、さま」
「アンジェリカ……」
「ごめんなさい! ごめんなさいっ……!」
「……いや、良いんだ」
ひたすらに謝るアンジェリカを見て、ルーカスはその場に鞘を取り落とした。
彼自身、気付いたのだ。
とうの昔に、心は揺れ動いていたと。
ソフィーの刺繍という些細な切っ掛けから、より大きなものへ。
だからこそ彼は、それ以上無感情ではいられなかった。
「私こそ、すまなかった」
今までにない悲しそうな声色で、彼女を僅かに抱き寄せる。
国宝ではない彼の意志が、そこにはあった。
ソフィー達もその光景を見て、口を噤む。
騒ぎを聞きつけた衛兵たちがやって来るまで、皆一歩もその場から動けなかった。




