最終話⑮
薄暗い通路に雨音だけが響く。
増長するように不安ばかりが押し寄せる。
それでもソフィーは進み続けた。
立ち止まる意味はない。
自分が何のために此処にいるのか、そしてあのドレスを作り上げたのか。
分かっているからこそ止まらない。
一人ではあったが、彼女の意志は固かった。
迷うことなく作品の元へ近づいていく。
「確か、案内が正しければこの先に……」
ソフィーのドレスが配置されているのは、先にある小ホール。
先程見た地図を見る限り、そこには特に技術力の高い作品ばかりが展示されているようだ。
待ち構えていた巨大なアンティーク扉に手を触れる。
何故か鍵は開いていた。
多少重い扉を押し、冷たい空気が流れ込む。
身震いを抑えて中へ入ると、目を奪われそうなドレスが幾つも掲げられていた。
そして同時に、誰かの気配を感じる。
相手もそれに気付いたのか、慌てた様子の声が響く。
「ッ!? だ、誰なの!?」
「そ、その声は……!」
聞き間違える筈もない。
思わず声のする方向へと駆け出し、ようやく辿り着く。
するとそこにはソフィーのドレスが展示され、それに相対するようにアンジェリカが立ち尽くしていた。
「アンジェリカさん、なのですか?」
「あ、貴方が何故ここに!?」
同じセリフをソフィーは考えたが、直ぐにその理由は分かった。
アンジェリカの手には刺繍用の裁ちバサミが握られていたのだ。
まだ使った形跡はないが、今にもその口は開こうとしている。
何のためにそんな事をしているのか。
最早、疑うまでもない。
呆然としながらもソフィーは、言葉を紡ぐ。
「それを、どうするつもりですか……?」
「……」
「まさか私のドレスを、傷つけようとしていたのですか?」
「……」
「答えて下さい! アンジェリカさんっ!」
信じようと思っていた自分が、裏切られたような気分だった。
悲しさよりも先に、思わず息を荒げる。
珍しい彼女の剣幕に、アンジェリカは視線を逸らすだけだった。
ハサミを手放すことも隠すこともなく、その場に立ち竦む。
しかしやがて感情を抑えられなくなったのか。
徐々にその両手が震えていった。
「全て、貴方が悪いのよ。大人しく屋敷の中で籠っていれば、こんな事にはならなかった。こんな……こんな愚かな事にはっ……!」
誰に対する言葉だったのか。
アンジェリカは激情に駆られてハサミを振り上げる。
雨に打たれた窓からの僅かな光を受け、その切っ先が鈍く光る。
ドレスに向けられた瞬間、ソフィーは考えるよりも走り出した。
振り下ろされるよりも先に、間へと割って入る。
アンジェリカから背を向けたまま、彼女はトルソーに着させられたドレスを庇った。
「退きなさい」
「嫌です!」
「退きなさい! エリーゼ!!」
全てを知った上での発言。
ハッとして振り返ると、彼女は振り上げた腕をそのままに鬼気迫る表情をしていた。
「貴方がエリーゼなのでしょう!? 知っているわよ!? あの時みたいに、また私達に見せつけて遠ざける気なのでしょう!?」
「な、何を……!」
「貴方はいつもそうだったわ! 私が欲しいものを奪い去っていく! どうして……どうして貴方ばかりっ!」
そこにあるのは嫉妬と憎悪。
公爵令嬢としては相応しくない、感情に任せた視線が突き刺さる。
だがそれでも尚、真意は覆い隠している。
何故そこまで執着するのか。
執拗に排除しようとするのか。
寸前の所で呑み込もうとする。
だからこそ、ソフィーも負けじと言い返した。
最早、自分がエリーゼであるか否かを答える意味はなかった。
「何を仰っているのか分かりません! 私がエリーゼだから、何だと言うのですか!?」
「!」
「私は貴方から、何かを奪ったつもりはありません! このドレスも、展覧会も、全ては私自身のためです! 寧ろ奪ったのは、アンジェリカさんではありませんか!? 学院の時も、貴方はそうやって私の心を擦り減らしたのです! 謝られることはあっても、非難される謂れはありません!」
「このッ……!」
真っ向から反論してくるとは思わなかったのか。
アンジェリカは一瞬だけ気圧されるが、次第に怒りがそれを塗り潰していった。
更に一歩、ソフィーとの距離を詰め、今にも振り下ろしそうな勢いを見せる。
反射的にソフィーは目を瞑った。
絶対にドレスだけは傷付けまいと、トルソーごと強く抱きしめる。
だが、痛みが襲ってくることはなかった。
無理矢理引き剥がされるようなこともない。
ゆっくりと目を開けると、アンジェリカはハサミを振り上げたままだった。
怒りではない悲痛な表情が、彼女を見下ろしている。
「お願い……お願いだから……。もう、止めて……」
「……!」
力なくアンジェリカがハサミを下ろす。
今にも泣き出しそうな様子に、ソフィーは言葉を失う。
両者の間に、外の雨音が響いた。
「私だって、これが愚かしい事だと分かっているわ。でも、それでも許せなかった。ルーカス様を、奪われる訳にはいかなかったのよ……」
「あの方を……?」
「私は殿下に憧れていたのよ。一目惚れだったわ。あらゆる才能を持ち、宝石のように輝くあの方と傍にいる事が、私の幸福だった」
小声ながらも話し始める。
二人は政略結婚による繋がりだと思っていたが、そうではない。
アンジェリカはルーカスを愛していたのだろう。
それでも彼は人間国宝と呼ばれた人物。
多少話し合ったソフィーですら、掴み所のなさは感じられた。
「私如きではルーカス様には届かない。心も動かせない。だからせめて、あの方の婚約者になれるように努力し続けてきたわ。愛されなくてもいい。ただ傍にさえ居られれば、それで良かった」
「……」
「でも……学院で貴方を知った時、ルーカス様は言ったのよ」
学院時代。
今も昔もルーカスは変わらない。
そんな彼の目に偶然、一人の少女が映った。
周囲と中々打ち解けられず、刺繍をするだけの令嬢。
正々堂々と、自己研鑽を積んで来たアンジェリカとは正反対の人物だ。
気にするような相手でもない。
その筈だった。
だがそんな少女を見て、彼はふと呟いたという。
(あの刺繍、とても美しく見える)
たったそれだけ。
それ以上は何も言わなかったし、ルーカスが少女に干渉しようとはしなかった。
それでもその言葉を聞いた瞬間、アンジェリカの中で何かが崩れた。
綺麗、という個人的な感情を彼が見せたからだ。
国宝であるルーカスが、初めて心を動かした瞬間だった。
「ま、まさか!」
「私がどうやっても動かせなかった心を、貴方が動かした。憎らしかったわ。貴方にその気がなくても……いいえ、その気がなかったからこそ、妬ましくてどうにかなりそうだった」
「だから、あの場で私を非難したのですか……?」
「邪魔者は消えた。形だけの繋がりだけれど、婚約だってできた。これで全て終わったと、済んだと思っていたのよ。それなのに、また貴方は現れた……!」
発端は些細な一言から始まった。
当時は婚約関係になかったアンジェリカは、ルーカスが奪われるのではないかと恐れ、ソフィーを遠ざけようとした。
相手は陰気な令嬢。
周りの取り巻き達と囲んでしまえば、直ぐに折れる。
結果、その通りになった。
彼女は屋敷に閉じこもり、学院を拒絶した。
だがスヴェンが糾弾しに来たのは全くの想定外だった。
そのために場は荒れ、ルーカスとの婚約にも時間を要してしまった。
そして再び、ソフィーは現れた。
封じていた筈の嫉妬と怒りが這い出てくる。
アンジェリカにとってそれは、悪夢の再来だったのかもしれない。
「ルーカス様は貴方を気に掛けている! 私たちの心が離れていくのよ! 貴方に、貴方なんかには絶対に渡さない!」
何の興味も示さなかった殿下の心が動けば、婚約すらも解消されるかもしれない。
そんな恐れが、アンジェリカから感じ取れた。
勿論、ソフィーにそんな気などない。
ルーカスが自分を評価していたなど、全く知らなかったのだ。
自らが立ち上がるために振るった刺繍が、そんな形で彼女達を引き離していたと知り、何も言えなくなる。
すると直後、ホール内に新たな気配が訪れる。
「成程、そういう事でしたか」
予期せぬ横槍に、二人は思わず振り向く。
納得するような声と共に現れたのは、スヴェンだった。
「スヴェンさん!」
「ヴァンデライト!?」
驚く彼女達に対して、彼はとても冷静だった。
少しだけ服を整えながら、一歩一歩近づく。
何かあったのだろうか。
聞く間もなくスヴェンは数m程度の距離で立ち止まり、アンジェリカを見据えた。
「言いたい事は吐き出しましたか? 終わったのなら、そこから退いて頂きたい。それ以上は彼女にも、彼女の作品にも手を出す事は許しません」
「……貴方には関係のない話でしょう?」
「私達は学院時代の同級生です。旧友を守るのは当然ですよ」
「流石、問題児同士は惹かれ合うという訳?」
「どうやら、大きな勘違いをされているようですね」
挑発するアンジェリカに対して、学院時代のような粗暴な面は見せない。
あくまで礼儀正しく、その皮肉を真っ向から跳ね除ける。
「私達の代は、動乱の世代と呼ばれているとご存じありませんか。勿論そこには貴方も含まれているのですよ。問題児という、下らない肩書にね」
「わ、私を馬鹿にしているの!?」
「馬鹿にしたんですよ。自分で愚かと分かっておきながら、その行為を止められなかった。下らないプライドに惑わされる位なら、あの時に全て吐き出しておけば良かったのです。そうすれば、今になるまで拗れる事もなかった。貴方の行動は自分を、そして周りを不幸にしているだけだ」
「ッ……! 貴方のような野蛮な男に、何が分かるのよ!?」
正論だからこそ認めたくないのか。
耐え切れずにアンジェリカは叫んだ。
「私は公爵貴族として、より正しくあり続けてきたの! 息苦しさすら感じていても、それでも努力し続けてきたのよ! それなのに、この子は! あの方の心を簡単に引き出した! どうしてなの!? 私が手に入れられなかったものを易々と! だから許せない! 女々しいと、愚かだと分かっていても、澄ました顔で平然としている貴方が許せなかった!」
「私は、そんなつもりは……」
「貴方さえ! 貴方さえいなければ、私は!!」
ルーカスの心を手に入れられた。
そんな思いが聞こえた気がして、ソフィーは気圧されかける。
抱えていたドレスへの力が抜けていく。
だがその瞬間、スヴェンが口を開いた。
「その話、何故殿下に打ち明けないのですか?」
「え……」
「嫌われると思ったのですか? 蔑まれると思ったのですか? 踏み止まるチャンスは幾らでもあった筈です。ですが貴方は声を殺して、目を向けるべき相手から逃げ続けた。傷つくことを恐れた。違いますか?」
沈黙がその場に訪れる。
アンジェリカは愕然としたまま動かない。
そこでようやくソフィーは気付いた。
飾られていた作品は、自分のものだけではないと。
「アンジェリカさん」
「止めて! 私を哀れまないで! 私は貴方とは違う!」
「哀れんでなどいません! ただ……!」
悲鳴に近い声を上げる様子を見て、ソフィーは視線を投げる。
その先は、すぐ近くに展示されていた深紅のドレス。
アンジェリカが造り上げた、作品だった。
「あのドレスは、何のために作り上げたのですか?」
「!?」
「私が参加する以前から、アンジェリカさんはそのドレスを仕上げていました。それは私への感情を抜きにした、貴方自身の本当の思いだった筈です。貴方は――」
アンジェリカは何のためにドレスを作り上げたのか。
決してソフィーに対抗しようとしていた訳ではない。
完成していたそのドレスを使い、審査員という立場を捨ててまで成し遂げたい事があった筈なのだ。
それこそが彼女の思い。
嫉妬や憎悪を抜きにした、本当の気持ちだった。
「ただあの方に、振り向いてほしかった」
真意を突く言葉と共に、新たな足音が聞こえる。
いつからそこにいたのか。
スヴェンの後を追う形で、ルーカスが彼女達の前に現れた。
そして彼がいる事は全くの想定外だったのだろう。
アンジェリカが酷く怯えた様子で、声を震わせた。
「ルーカス、さま……どうして……」
その瞬間。
ガシャンと、窓ガラスが割れる音が響いた。




