一話③
嫌になったら、帰る。
そのつもりだったが、いつの間にか一日が経っていた。
ヴァンデライト家の屋敷に不自由はない。
何かを言うよりも先に、彼女の望むものは準備される。
殆ど立ち入った事のない他人の屋敷ではあるが、彼女のための自室すら用意された。
スヴェンの刺繍は、推して知るべしだった。
一日という短い間では、生地に糸を通す程度の事しか教えられない。
あの大きな手で刺繍するということ自体がアンバランスなのだが、それでも彼はしっかりと興味を持って取り組んでくれた。
ご機嫌取りな表面ではない。
一生懸命に彼女の指導を聞き入れ、学んでくれた。
それがソフィーにとって、何よりも嬉しかった。
以前、学院にいた頃を思い出す。
『今度は糸玉を落としたのか?』
『糸がなくちゃ、刺繍なんて出来ねぇだろ。気を付けな』
ふと考えてしまう。
何故、彼はそこまで私の事を気に掛けているのか。
自分のような人間よりも、美しい令嬢は大勢いた。
きっと彼ほどの人物なら、引く手数多な筈だ。
それに問題児という評判にも納得がいかない。
一日だけの付き合いだが、そんな側面は何処にも見当たらない。
暴力的な側面を隠しているようにも見えない。
一体、誰がそんな根も葉もない噂を広めたのか。
「どうして、あの人は……。って……日差し、眩し……」
日が昇りきった頃。
気分転換のため、ソフィーは一人、ヴァンデライト家の庭園を歩いていた。
今までの事を整理するためでもあった。
ただ、日差しは引きこもっていた彼女には、未だ毒だった。
細めた目を美しい花々の方へ移しながら、からまった思考を解いていく。
すると不意に、別の気配を感じた。
誰かに見られている。
辺りを見渡すと、生い茂る花々の影から覗き込む形で、幼い少年が見つめていた。
(じ~)
「……?」
(じ~)
「あの?」
「わ! 見つかっちゃった!」
少年は彼女の視線に驚いて、茂みから姿を現す。
スヴェンの弟、アルベルトである。
応接間で顔面から転んで以来だ。
何か用事があるのだろうか。
アルベルトはゆっくりと歩み寄ってくる。
幼い少年という事もあって、ソフィーは警戒心を抱かず、しゃがんで目線を合わせた。
「昨日はごめんなさい! ボク、おジャマでしたっ!」
「う、ううん。そんな事、ありませんよ。アルベルトさんこそ、痛くなかったですか?」
「へ~き、です! ボク、男子なので! 泣きません!」
アルベルトは胸を張る。
どうやら、昨日の一件を謝りたかったらしい。
とは言え、そもそも転んだだけなので謝る必要はなかったりする。
律儀な子だ。
小柄な体格故にスヴェンとは似ていないと思っていたが、案外根本は似ているのかもしれない。
そう思っていると、彼は息をゆっくりと吸い込んで、問い掛けて来た。
「そ、そ……」
「?」
「そひーさん!」
「ソフィーですね」
「兄さまのこと、キライ?」
「えっ」
「キライ?」
「いいえ、そんな事はないですよ……?」
「じゃあ、スキ?」
いきなりそんな事を言われ、ソフィーは戸惑う。
しかし幼い少年の言葉だ。
他意がある訳でもない。
本当に、ただ純粋に聞いているだけなのだろう。
彼女は昨日以来、スヴェンの事を気に掛けていると自覚している。
だからこそ、今ある本心を伝える。
「まだ、よく分かりません。でも、良い人だと思います。こんな私にも、良くしてくれるので……」
「う~ん? じゃあ兄さまも、きっと喜んでくれるね!」
「喜ぶ? どうして……?」
「だって兄さま、怒ったんだもん」
アルベルトは真っすぐにソフィーを見た。
「悪口、許せないって。兄さま、言ったんだ。あんなヒキョー者になるなって。みんな、兄さまが悪いって言うけど、ボクは違うんだ。だからボクも嬉しいんですっ」
幼い少年は屈託のない笑みを見せる。
その瞬間、彼女は理解した。
何故、スヴェンが問題児と言われるに至ったのか。
何故、そこまで気に掛けようとしているのか。
手を振りながら小走りで去っていくアルベルトに手を振り返し、ソフィーはその場から立ち上がる。
絡まっていた糸は、確かに解けた。
ソフィーはスヴェンを探した。
屋敷の中は広いが、従者たちに聞けば居場所は自ずと分かる。
辿り着いたのは広々とした執務室だった。
スヴェンは何枚かの手紙を見返しつつ、机に向かってペンを走らせていた。
ヴァンデライト家の長男として、当主に代わって行うべき仕事があるのだろう。
「スヴェン様、こちらの念書は如何いたしましょうか」
「もう一度、送っておいて下さい。一度ならず二度……二度ある事は三度あると言います。彼らは忘れるのが、大の得意技ですからね」
「畏まりました」
物音を立てないように扉を開くと、彼は従者に指示を出していた。
この屋敷で初めて会った時と同じ、敬語口調のままだ。
もしかすると、仕事をしている間はこの調子なのかもしれない。
一旦、終わるまで待っていた方が良い。
するとスヴェンが彼女に気付き、よおと言うような雰囲気で手を挙げた。
「ソフィーか。悪いな、もう少し待ってくれねぇか。王宮から書簡が来て、返事を出さなくちゃいけねぇんだ」
「……分かりました。では、此処で待っています」
「ん? 見ても楽しい事なんてないぜ?」
「お邪魔でなければ。私が、そうしたいんです」
「そういうモンか?」
「はい」
邪魔をする気は毛頭ない。
ソフィーの考えに不思議そうにしながらも、スヴェンは拒否しなかった。
視線を手元に下げ、再びペンを動かしていく。
彼は今まで、何を思っていたのだろう。
自分が引きこもりを続ける間、何をしていたのか。
外に出なかったソフィーには殆ど分からない。
ただ一つ分かるのは、彼は変わらなかったという事だけだ。
ソフィーのように変化を恐れていた訳ではない。
自分の信じるものを、周囲に流されずに貫き通す。
変わらないままに進んでいく。
それが彼女にとって、とても眩しく見えた。
数十分が経って、彼は最後の一枚を書き終えると、軽く背伸びをした。
「ふ~、やぁっと終わったぜ。待たせたな」
「いえ……」
「それにしても、だ。わざわざ来たって事は、何か言いたい事があったんだろう?」
スヴェンは待っていた理由を問う。
落とした刺繍道具を渡した時と同じように、変わらない態度で待っている。
ソフィーは勇気を出して、答えた。
「スヴェンさんは、学院にいた頃……他の貴族の方々と、いざこざを起こしたと聞いています」
「……」
「後悔、していますか?」
皆まで言わない。
秘めていた糸は絡み合っているのかどうか。
彼は意表を突かれたような様子だったが、間を置くことなく首を振った。
「後悔なんて、してねぇよ。と言うか、手を上げたのは向こうだしな。勝手に転んで、勝手に事を大きくしやがったのさ。全く、困ったお坊ちゃん達だぜ」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はねぇよ。俺達ヴァンデライト家を排斥すれば、回り回って自分達が不利になる。それが分かっているから、最後の最後で怖気づいたのさ。あんな情けねぇ奴ら、構うこたぁねぇ」
真っ直ぐな答えだった。
例えそれが嘘だとしても、嬉しかった。
それが自然と笑みに変わったのだろう。
彼女の笑顔を見たスヴェンは目を丸くしたが、それと同時に安堵したようだった。
かつて自分が庇った少女に、一歩一歩歩み寄る。
「ソフィーが安心したなら、その甲斐もあったんだろうさ。少し、ホッとしたぜ。間違った事をしたつもりはなかったが、そのせいで逆に追い詰めちまったんじゃねぇかってな」
「スヴェンさん……」
「安心したついでに、もう少し見合いを続けても良いか? このまま終わるのは、やっぱり味気ないんだ」
スヴェンが手を差し伸べる。
あの時と同じ、落とし物を手渡す大きな掌だ。
だが今この瞬間、手渡すのはただの落とし物ではない。
ソフィーが自ら捨て去ってしまった、自分そのものかもしれない。
彼女はそれを取り戻すためにも、優しく彼の手を取った。
●
「成程、これは戦いだな。繊細な動きは、武芸でも必要だ。こうして糸を通すと、見えてくるモノもあるって訳か」
「……ちょっと、よく分かりませんね」
「雰囲気だよ、雰囲気。こういうのは想像から入るのが一番なんだ」
その日の午後、二人は刺繍に勤しんでいた。
ソフィーは赤い花を、スヴェンは赤い鳥を縫っていた。
彼女の方はほぼ縫い終わりかけているのだが、彼側は半分いかない位か。
腕前はまるっきり初心者。
お世辞にも綺麗とは呼べず、鳥ではなく赤いマリモにすら見えてくる。
だがそれでも良かった。
彼と共に何かをしているだけで、一人だった頃にはない充実感が生まれる。
人と関わりたくなかった自分にも、寂しさのような感情があったのだろう。
するとスヴェンが何かに気付いたようで、視線を横に向けた。
「ん?」
「どうかしましたか?」
「もしかして同じ糸、使ってないか?」
「えっ」
指摘されて視線を移すと、そこにあるのは籠に入っていた赤い糸玉。
よく見ると糸が二本伸びている。
一方はソフィー、もう一方はスヴェン。
どうやら同じ赤色の糸玉を使って刺繍をしていたようだ。
「あ……本当……」
「やっちまったな。全く気付かなかった」
「……お互いに結構縫っていますし、解くのは無理そうですね」
「これは多分、俺がソフィーを真似てたから、分からなかったんだろうな」
互いに集中していたというのもあるだろう。
糸の先は、刺繍枠に張られた布に縫い付けられている。
手で取れるようなものではない。
ソフィーはもう一度、その光景を目に収める。
「赤い糸……」
「端と端だからなぁ。って言っても、この糸玉自体は結構デカいし、気にするもんでもねぇか」
だからどうという訳でもない。
ただ同じ糸を使っていただけの事。
何も気にする必要はなく、鋏で切ればそれで終わりだろう。
しかし彼女はそのまま針から糸を取り除き、ケースの中へと収めた。
「少し……」
「ん?」
「少しだけ、休みましょうか」
「もしかして、疲れたのか?」
「いえ、そういう訳ではないんです。ただ今は、このままで……」
今はこのままでも良い。
そんな思いを口にすると、スヴェンは雑に縫われた刺繍枠を見る。
そしてもう一度ソフィーを見返し、ゆっくり頷いた。
「良いぜ。ここまで来たんだ。トコトン付き合って……っと、針は危ねぇんだったな」
針を収め、白い歯を見せて笑う。
少しだけ胸が締め付けられる。
失っていた、いつかの感情が戻ってくる気がした。
今になって、取り戻せるのだろうか。
一歩だけでも、踏み出す勇気を。
ソフィーはスヴェンに合わせるように立ち上がり、歩き出した。
「丁度、美味い菓子があるんだ。アルも呼んで、茶でもしようぜ。アイツ、甘い物には目がないんだよ。俺達だけで独り占めしたら、涙目になっちまう」
「あぁ……先ずは彼を探さないと、ですね。昼間は庭園にいましたけど……?」
「アイツ、神出鬼没だからな。執事たちが毎回、手を焼いてんだよ」
「それなら、一緒に探しましょうか」
「何だか悪いな。刺繍まで手伝って貰ってるのに」
「いいえ、そんな。それに、私だって手伝って貰っていますから」
「そうか?」
「はい。そうなんです」
ソフィー達が立ち去った後、刺繍室に残されたのは刺繍道具の数々。
綺麗に整頓されたものばかりだった。
その中で、糸玉の籠に二つの刺繍が寄りかかっている。
出来栄えは雲泥の差ではある。
しかし、その二つは確かに一本の糸で繋がっていた。