最終話②
「ケホッ!? ケホッ! ケホッ!」
「姉さま!?」
「ご、ごめんなさい……驚いちゃって……」
思わず咳き込んでしまい、用意されていた紅茶を飲む。
やってしまった。
素知らぬ顔でいるつもりだったが、前振りもない切り込みに耐えられなかった。
カトレアも心配そうに見つめてくる。
そして今の態度で明るみになったのか。
ジクバールは得心が行くような顔で待ち構えた。
「私の推察は当たっていたようですね」
「っ!? い、いえ! 多分人違い……いえ、絶対に人違いです……! エリーゼなんて、そんな名前の人は知りません……!」
ソフィーは首を振って、どうにか誤魔化そうとする。
仮にエリーゼだと認めたらどうなるのか。
分からないが、厄介な事になるのは間違いない。
ただでさえ、闘技場の一件で礼儀知らずな行動をしたばかりなのだ。
これ以上、周囲を巻き込んだ騒動は起こしたくないというのがソフィーの思いだった。
しかしジクバールは、静かに反論する。
「私はエリーゼが何者なのか、まだ話していません」
「えっ」
「一般的な名です。町娘のお名前かもしれませんし、何処ぞの貴族のお名前かもしれない。それなのに貴方は、その名を聞いただけで過剰な反応を見せた」
「!」
「それはつまり、エリーゼが何者なのか。既にご存知だということ」
しまった、と動揺したが既に遅い。
寧ろその動揺すらも、ジクバールに証拠を与えているようなものだった。
彼は確信したような面持ちで、少しだけ身を乗り出す。
「刺繍界のエリーゼ。巷で噂になっているその名を、貴方は知っている。いや、自覚している筈です」
「それは……」
「ソフィー嬢。やはり貴方があのエリーゼで、間違いありませんね?」
反論しようと口を開いたが、言葉が続かない。
ジクバールの冷たい瞳が、彼女を見つめていたからだ。
否定しようにも否定できない、させてくれない圧を感じる。
この感覚に、ソフィーは覚えがあった。
学院時代、他の令嬢達が自分に向けていた視線だ。
思わず目を逸らしかけると、そこへスッと手が伸びてくる。
それは用意された紅茶のカップを手に取る、カトレアの姿だった。
「ジクバール様、折角の紅茶が冷めてしまいます。味が落ちない内に、召しあがった方が宜しいかと」
「……」
「私達も貴族の末輩です。刺繍を嗜むことはありますし、その手の界隈の話も当然耳にします。反響ある名を挙げられれば、動揺しない者などいないでしょう」
カトレアは憮然とした態度で、助け舟を出す。
そこには学院で優等生と呼ばれる、高貴な令嬢としての顔があった。
横槍を受けたジクバールはしばしの沈黙の後、カップに手を伸ばす。
彼はリーヴロ家の屋敷に招待されている側。
下手な態度は取れない。
彼女に言われた通り、上品にカップを取り、湯気の立った紅茶を味わう。
「成程……確かに良い味ですね」
「……」
「ご存知とは思われますが、茶葉は熱湯で香りや渋みを引き出します。咄嗟の温度、咄嗟の言動が、本来の味を暴くものです」
「お詳しいのですね。ですが茶葉にも、それぞれ適した温度があります。茶葉の種類を見定めず無作為に注いでしまえば、折角お楽しみ頂ける味も損なわれてしまいますよ?」
「私は紅茶ばかりを嗜むもので、その手の類には詳しいのです。刺繍と同じように、見間違えたりはしません」
「それでしたら、東洋の茶葉などは如何でしょう。高温でなくとも、じっくり時間を掛けて味を引き出すものもあります。興味がお有りなら、紹介いたしますわ」
カトレアとジクバールは、互いに笑顔で話し合う。
しかし、そこに穏やかな雰囲気はなかった。
遠回しの牽制、皮肉めいた言い回しが、右へ左へ飛び交う。
これが貴族同士の会話術なのか。
慣れないソフィーは、ただただ気まずいばかりだった。
(言葉の応酬が……。か、会話に入れない……)
姉の威厳などあったものではないが、口を挟めない。
挟めば逆に墓穴を掘ってしまいそうだ。
いっそのこと空気のまま、天井の模様でも数えた方が良いのかもしれない。
そう思いながら、ソフィーは再び紅茶を飲んでいく。
すると手応えが得られないと感じたのか。
頑なな態度を前にして、ジクバールは僅かに肩を落とした。
「仕方がありませんね。私も、舌を火傷するつもりはありません。ただ一つ、口ではなく、少々お耳に入れておきたい事があったというだけです」
どうやら真偽を確かめる以外に目的があったらしい。
カトレアも、表向きの表情で不思議そうにするばかり。
壁の模様を数えかけていたソフィーは、慌てて声を発する。
「な、何でしょうか……?」
「王都で開かれる刺繍展覧会は、ご存知ですか?」
「展覧会……そう言えば、そのような催しがあったような……」
そう言われて思い出す。
スヴェンの決闘で完全に忘れていたが、近々王都では、様々な刺繍の品を集めた展覧会が開かれる。
身分に関係なく、審査員達が優れたものを選定し展示する。
選ばれた者には表彰も行われるという、大きな式典でもある。
刺繍の道を一歩ずつ踏み出していたソフィーが、知らない訳もない。
思わず頷くと、ジクバールはゆっくりと手を組んだ。
「数年に一度開かれる、貴族の方も含めた大々的な品評です。私は審査員の一人として、その催しに臨みます」
「!」
「もし興味がお有りならば、是非とも参加して頂きたいのです」
諦めるつもりはないらしい。
何とかソフィーは動じないように平静に努める。
確かに興味がない訳ではない。
刺繍を学ぶ者として、ない訳ではないが簡単に頷いて良いものか。
薄氷を踏むような思いで、彼女は身体を固めていた。
「舌を火傷されては大変です。氷が、必要ですか?」
「お気遣い頂き、感謝します。しかし私は、味を嗜む模範的なご令嬢さま方に向け、提案させて頂いただけです」
「……」
「ソフィー嬢だけでなく、カトレア嬢も、是非ともご検討頂ければ幸いです」
カトレアの牽制を軽くいなすと、ジクバールは残っていた紅茶を飲み干す。
答えを聞くつもりはないようだ。
頃合いを見計らうかのように、彼は椅子から立ち上がると同時に会釈をし、その従者が傍に近寄る。
それは会談の終わりの合図だった。
「紅茶、とても美味しかったですよ」
玄関口まで見送ると、彼は一言そう告げた。
意味深なものだったので、愛想笑い以外に応えられない。
カトレアもそれは同じだった。
「それでは、再びお会いできることを楽しみにしております」
そうしてジクバールは、リーヴロ家の屋敷を立ち去った。
恐らくこのまま王都に向かい、刺繍展覧会の審査員としての役目を果たすのだろう。
まるで嵐でも過ぎ去ったかのような気分だ。
静寂が訪れソフィーが安堵すると同時に、カトレアも重い息をついた。
「はぁ~」
「カトレア……! 大丈夫……!?」
「はい、何とか……。でもまるで、公爵家を相手にしているような気分でした……」
「ごめんね……私も、助言できれば良かったんだけど……」
「いえ……寧ろ同席して正解でした。もし姉さま一人だったら、絶対に躱し切れていなかった筈です」
「う……。情けないけど……た、確かに……」
言い難そうにソフィーは答える。
正直な所、あの言葉の応酬を躱せる程の自信は皆無だった。
カトレアがいなければ確実に暴露していた。
そうなれば、あらぬ方向に話が進んでいた可能性もある。
初対面の帝国貴族相手に奮戦した彼女には、感謝してもし切れない。
とは言え、まだ完全に通り過ぎた訳ではない。
火種は直ぐ目の前に燻ぶっている。
カトレアは依然として姉の様子を気に掛ける。
「厄介な人に目を付けられましたね。姉さま、どうします?」
「う~ん。とりあえず、スヴェンさんに相談してみようかな……」
「あの方に? そう言えば、決闘の事後処理で外泊されていましたね」
「そうなの。手持ち無沙汰って聞いたし、少しくらいは良いかなって」
彼女は暇そうにしていたスヴェンを思い出す。
決闘に勝利した手前、当主となる手続きを行うためにも、彼は暫く王都に滞在する予定になっている。
その関係で、会おうと思えば会える距離感にある。
ジクバールの件は彼も知りたがっていたので、突然という事もないだろう。
ほんの僅かに、ソフィーの胸の内に自信が湧いてくる。
しかしその代わりに、闘技場での出来事を思い出される。
決闘が終わった後、彼が心の距離を縮めようとした、あの時の事を。
「そう……スヴェンさんに……」
「姉さま?」
「う、ううん! 何でもないの!」
顔が熱くなっている気がして、どうにか取り繕う。
結局、あの時は何も答えられずに終わってしまった。
次に会う時、どんな顔をしていれば良いのか。
視線を合わせられるのか。
妙な板挟みを感じて、沸き上がっていた自信は徐々に萎んでいく。
緊張感ばかりが取り巻き、ソフィーは誤魔化すばかりだった。




