三話⑨
服の修繕に取り掛かって以降、ソフィーが手を休めることはなかった。
構想していた刺繍の柄を、針と糸に乗せる。
ヴァンデライト家の従者からは、あまり気負いせずにと言われたが、それでも彼女は懸命に縫い続けた。
拾い上げた自身の力で、解れた穴を縫い直す。
それが今出来る、精一杯だったからだ。
残念ながらソフィーは、ヴァンデライト家の事情に詳しくない。
国境がどれ程のものなのか、どんな危険を背負っているのか。
今までスヴェンは、一切話そうとしなかった。
だからこそ聞き出そうとは思わない。
自分が知っているのは、あくまでスヴェンという一人の青年だ。
口調はこれ以上ない程に粗暴だが、家族を思う心優しい人物。
それでいてお節介な所もあり、時折からかいもする、そんな人。
シャルロットは彼ら兄弟を見て、何を思ったのか。
分かりはしないし、分かろうとすること自体が無粋だろう。
だがソフィーに見えたのは、過去の自分。
仲違いをしていた妹のカトレアとの関係だった。
あのままでは、いつか溝はどんどん深まり、手の届かない場所へ遠ざかってしまう。
そんな気がした。
故に、手繰り寄せる。
自分がそうだったように、今だけは後ろを振り返らない。
代弁するように、彼女は糸を紡ぐ。
「出来た……!」
「……む、むにゃ?」
安堵の声を上げたのは、翌日の事だった。
隣でうたた寝をしていたアルベルトが、彼女の声を聞いて目を覚ます。
彼の目に映ったのは、完璧に修繕された祈りの服だった。
両翼は輝きを取り戻し、頭を上げていた花々に力が宿る。
過度の装飾は加えていない。
明確な端役は必要なく、栄光や栄誉は枷でしかない。
藍色の服と同色の、僅かなフェアアイル。
そこから浮かび上がる元来の色の花々。
祈る者、それを支える者たち。
それが修繕された刺繍の姿だった。
息をついたソフィーに、アルベルトは喜びの声を上げる。
「そふぃーさん、凄いです! キラキラしてます!」
「そ、そうかな?」
「はい! ボク、あまり昔の事は覚えてないんですけど、昔に見たこのお洋服と同じくらい、輝いてます!」
明るい様子で太鼓判を押してくる。
確かにソフィーの観点からも不満な点はない。
間違いなく、よく縫えたと言える代物だ。
ただシャルロットに伝わるかどうか、気掛かりでならなかった。
するとアルベルトが早速、ソフィーの手を引く。
「早速、お母さまにお見せしましょう!」
「……」
「そふぃーさん?」
「……分かりました」
勇気を奮い立たせ、顔を上げる。
今更になって臆病になった所で仕方がない。
スヴェンも着るか否かは本人の意志に任せると言っていた。
自分が出来るのは、手渡す事まで。
彼女が何処にいるのか、ソフィー達はヴァンデライト家の従者に尋ねることにした。
しかし間もなくして、その従者は慌てた様子で二人の元に戻って来た。
「あれ? どうしたんですか? お母さまを呼びに行った筈じゃ……」
「それが……! シャルロット様が見当たらないのです……!」
「えぇっ!?」
朝食を終えた後、シャルロットは自室に向かった筈だが、中はもぬけの殻だったらしい。
加えて側近の従者もいない。
庭園にいるのかと思ったが、それも違うようだ。
屋敷はおろか、この敷地内に姿が見えないという。
どうやら殆どの者に事情を隠したまま行動している。
暫くして屋敷の従者が、馬車が一つ無くなっている事に気付いた。
「恐らく、屋敷の外に出られたのかと……」
「そんな……お母さま、今まで外に出なかったのに……」
ここ数年、シャルロットは敷地から一歩も出ていない。
スヴェンが次期当主として王族に認められた事から、それは顕著になったようだ。
自分の役目を果たし終えたためか。
一部では、元いた実家に戻ることも提示されていた。
そんな彼女は何処に行ったのか。
修繕した祈りの服を手にするソフィーは、皆が混乱する中、一人思い立った。
「私達も追いかけましょう!」
「お母さまが何処にいるか、分かるんですか!?」
アルベルトが驚く。
当然、彼女が何処に行ったのかなど知る由もない。
痕跡も殆どないので、全ては憶測でしかない。
だが一つの予感があった。
「根拠はありません。でも、分かる気がするんです。私も……手を引いてくれた、あの人のために何かを返したい……そのために、此処に来たから……」
「……!」
「行きましょう! スヴェンさんのいる……王都の闘技場へ……!」
きっとシャルロットも、あの場所にいる。
ソフィー達は祈りの服を手に、王都を目指した。
●
決闘当日。
開始まで残り僅かといった時。
スヴェンは既に闘技場の控室で、ソファーに座り気を静めていた。
誰もいない一室で一人、目を閉じて静寂に身体を預けている。
するとそこへ別の者の気配が近づいて来る。
扉を開けて現れたのは、神妙な顔のピエールだった。
今までの不遜な態度と違い、荒々しい雰囲気もない。
瞼を開いた彼は、顔を向けることなく声を掛けた。
「……ピエール様、横槍とは感心しませんよ」
「私も、貴様の顔など見たくもなかったがな……」
「随分と落ち着かれたご様子。セルバリウス様のお言葉が、身に染みたようですね」
「チッ……! 相変わらずの減らず口を……!」
一瞬だけ元の調子に戻る。
協力者だったセルバの一声は、それだけ強い意味があった。
スヴェン自身も彼から取り立てられ、仮の次期当主として椅子を用意された。
そこらの下手な貴族よりも発言権はある。
彼からの忠告は、警報のようなものだ。
先代の努力を無に帰すような真似は、流石のピエールでも出来ないのだろう。
それでも一定の距離を保ったまま、彼は背を向けるスヴェンに向かう。
「だがどうしても、問わねばならない事がある。お前が無様に敗北する前にな」
「何か?」
「何故、お前は誉れを良しとしない? 何故、名誉を遠ざける?」
「……」
「答えろ! スヴェン・ヴァンデライトッ!」
ピエールは右手で払うような動作をしながら問い質す。
貴族として、という今までの名目ではない。
彼自身の個人的な怒りが滲み出ていた。
「貴族にとって、名誉とは何物にも代えがたいもの! 名誉あってこそ、民は我々貴族を羨望し、畏怖し、その背中を見上げるのだ! だというのに、貴様はッ……!」
「……」
「学院の時からそうだ! 貴様は貴族そのものを遠ざけていた! 私はそれが我慢ならなかった! 普段の言動ばかりではない! あの時! 彼女を問い詰めた時もッ……!」
「……」
「何故、あんな女のために! 先代達が築き上げてきた名誉を傷つける!?」
これだけピエールが固執する理由は、スヴェンも薄々気付いている。
彼は貴族であることに誇りと名誉を感じる男だ。
人の上に立つには、認められるだけの証がなくてはならない。
貴族として成り上がった者達は、皆そうやって王家から認められ、その称号を与えられた。
しかし、スヴェンの在り方は歪だった。
証や名誉は二の次、三の次。
同じ学院の令息令嬢を毛嫌いしていた節すらある。
それ故に、あの粗暴な態度。
それがピエールには我慢ならなかったのだろう。
ソファーに座っていたスヴェンは、ゆっくりと立ち上がった。
「ピエール様。貴族として見るならば、貴方の考えは正しいのかもしれません」
「……!?」
「ですが私は、自分に嘘は付きたくないのです」
振り返ったスヴェンの瞳には、力が宿っていた。
そこにある意味に気付いたのか、気付かなかったのか。
ピエールは真っ向から視線を合わせる。
「名誉と栄光のためならば、幾らでも嘘を重ねる。それが上流階級の、貴族というものだろう?」
「やはり……お互い相容れませんね」
「そのようだな。胸を撫でおろしたい気分だ」
先に視線を降ろしたのは、どちらだったのか。
互いに受け入れられないものから目を逸らす。
もう会話は必要ない。
ピエールも長居する気はなく、そのまま控室を去ろうとする。
しかしその去り際に彼は、スヴェンを指差した。
「貴様の正しさを証明するためにも! せいぜい惨めに負けると良い! 生涯の恥辱として、この目に焼き付けてやる!」
それだけ言って、ピエールは去っていった。
嵐が去ったように、一室には静寂が訪れる。
結局の所、根本が違う。
二人が分かり合うことはないのだろう。
ただ、以前ほどの怒りはない。
彼の言い分を聞いたスヴェンは、軽い溜め息をつく。
「ったく、どこまでもしょうもねぇ奴だ」
もう直ぐ、試合が始まる。
刻限を悟ったスヴェンは、そのまま部屋の隅へ歩き、掛けられていた外套を羽織った。




