三話⑧
翌朝。
シャルロットは自室のベッドにて、眠りから目を覚ました。
ただし目を見開かせるような、陽の光はない。
自室の窓は、カーテンによって全て締め切られているからだ。
光は届かず、薄暗い空気が流れるばかり。
彼女は意に介していなかった。
寧ろ光を求めず、静観を望む。
それが何年も前から、彼女が望んだ日常の風景だった。
だが、それでは何も変わらない。
日常にあるのは日常だけ。
昨晩に起きた、息子達との会話を思い出す。
「……止まっているのは、私だけなのかしら」
閉められたカーテンに歩み寄り、その端を握り締める。
かつてと同じように光を、栄光を目にするため。
送り出すために。
だがその腕は動くことなく、遂には力なく垂れ下がった。
「それでも……私には……」
シャルロットはただ、俯くだけだった。
●
朝日が屋敷全体を包み込んだ頃、既にソフィーは祈りの服の修繕に取り掛かっていた。
場所は以前、スヴェンと一緒に縫ったこともある裁縫室。
刺繍道具を荷物に忍ばせていたのは幸いだった。
その他、必要な材料はヴァンデライト家の御厚意により用意される。
問題はない。
ボロボロになった祈りの服を手にして、彼女は針を差し込んだ。
指は淀みなく動く。
かつての頃よりスピードも上がっている。
少しは成長できているという事だろうか。
今更だがソフィーはそう思いつつ、小さな穴を次々と修繕していく。
すると傍で見ていたアルベルトが覗き込んできた。
「そふぃーさん! ボクも縫いたいです!」
「アルベルト君には、まだ針は危ないのでダメです」
「え~っ」
「もう少し大きくなったら、習えるようになりますよ?」
「じゃあボク、頑張ってそふぃーさんより、大きくなります!」
今まで彼女の刺繍を見たことがなかったためか。
アルベルトは興味深そうにその様子を眺めている。
他の人に見られるのは気が休まらないが、幼い少年の視線であればそれ程でもない。
彼の陽気な質問に受け応えつつ、笑みを浮かべた。
既にスヴェンはいない。
二日後にある決闘準備のため、王都に赴く必要があるからだ。
緊張しているに違いない。
そう思っていたソフィーだが、予想に反して彼の纏う雰囲気は、今までと変わらない。
次期当主としての顔が、そこにはあった。
ただ屋敷から出立する間際、彼はソフィーを気に掛けていた。
(悪ぃな。最後まで見届けられなくて)
(いえいえ! スヴェンさんも、頑張って下さい! 私、応援に行きますので!)
(本当に来るのか? まぁ、止めはしねぇけど……酔い止めの薬は忘れんなよ?)
どうせ人に酔うだろ。
そんな事を言いながら、彼は笑って馬車に乗り、王都へ向かっていった。
鋼の心を持っているのか、本心を覆い隠しているのかは分からない。
兎に角、今は彼らに応えなければならない。
シャルロットはまだ眠っているのか、依然として部屋から出てくる様子はなかったが、それでも手は緩めなかった。
「元の刺繍があって良かった……これなら違和感も……」
危惧すべきは、景観を損ねることなく修繕できるかという点だった。
しかし幸い、祈りの服には多数の刺繍が残されている。
藍色の服にシンメトリーで刻まれた黄金の翼。
それを見上げるように、花々が頭を上げている。
元々あった絵柄と同じ柄を縫い付け、穴を塞ぐ。
無論それだけでは足りず、シンメトリーを両立させるには、穴以外の部分にも新たに手を加えなければならない。
完成された絵に、筆を振るうような形だ。
画竜点睛か、それとも画蛇添足か。
始めから縫うよりも、大変なのかもしれない。
「そふぃーさん」
「どうかしましたか?」
「どうしてボク達のお洋服には、絵が多いんですか?」
すると時間が経って、アルベルトが疑問を口にした。
何故、貴族の服には刺繍が多く存在しているのか。
純粋な疑問だろう。
対して従者や執事の服には、そのようなものは殆どない。
一般庶民も、それは同じである。
「……やっぱり美しさや権威を引き出すため、ですかね」
「ケンイ?」
「私は強いぞ~、偉いぞ~ってヤツです」
「あ! じゃあ、それを作っているそふぃーさんは、もっと偉いんですね!」
「うーん……それは少し違うかな……?」
ソフィーは困ったように首を傾げる。
お忍びで貴族が一般服を着るように、王族が赤マントを羽織るように、服とはその人の価値を表す。
どんな者であっても、一目で高貴な身分であることを知らしめるため。
象徴としての意味を、刺繍は引き出す。
刺繍が貴族令嬢の嗜みであるのは、それが理由だ。
ソフィーも当初は、その価値に近しい者として学びを受けたのだ。
尤も、今の自分は誉れある人間ではないのだが。
自嘲気味な思いを抱いていると、アルベルトは納得しつつ、とある事を語る。
「でも兄さまはケンイが、好きじゃないみたいです」
「そうなのですか?」
「はい。あんまり褒められたくないって、言ってました。褒められるばかりが、貴族じゃないって」
彼は過去を思い返していた。
幼い身にとっては、おぼろげな光景しか浮かんでいないかもしれない。
それでも、悲しそうな表情はなかった。
「お父さまは、凄く凄く褒められました。国のエイヨだって、聞きました。でも、兄さまはそれが嫌いだって。着せられたくないって、言ってました」
「……」
「だから学院も嫌いだって、言ってたんです」
「そう、だったんですね」
「そふぃーさんも、学院は嫌いですか?」
「……本当のことを言うと、あまり好きではないですね」
「じゃあ、兄さまとそふぃーさんは、やっぱり似ているんですね! 仲良しです!」
何故か凄く嬉しそうだったが、ようやくソフィーは気付く。
学院時代、スヴェンとの関係は落とし物を拾われただけだ。
会話らしい会話もした覚えがない。
だからこそ自分を連れ出した理由が、今まで分からなかった。
だが少しだけ見えた気がする。
数日前、酔ったスヴェンが自分に語った言葉を思い出す。
彼女は針を針刺しに置き、ゆっくりと目を伏せた。
「アルベルト君、ありがとうございます」
「?」
「何となくですけど、スヴェンさんの気持ちが分かった気がします。どうしてあの時、私を見つけてくれたのか」
偶然ではない、と彼は言った。
そしてソフィーは、貴族令嬢達からの圧力に折れてしまった。
彼女達の行動が、善にせよ悪にせよ。
あれが貴族らしさというのであれば、栄誉を背負った気高い者だとするなら、それを否定したかったのかもしれない。
もう一度、ソフィーは針刺しから針を抜き取る。
「それじゃ、ラストスパート! 一気に縫いきります!」
「頑張って下さい! ボク、応援してます!」
「あっ、でも……」
「?」
「アルベルト君は、まだ学院を嫌いにならないで下さいね?」
「え~っ」
せめて忠告しておく。
まだ通ってもいない学院を嫌いになられては大事だ。
自分のせいで悪い影響を与える訳にはいかない。
そう言うと、アルベルトは一緒になれない事に、残念そうな声を上げるのだった。
●
「流石に騒々しいな。決闘は周知の事実って訳か……」
決闘を明後日に控え、スヴェンは王都に到着していた。
馬車から降り、夕暮れの光と喧騒を受け、少しだけ顔を顰める。
周囲の人々は彼の姿を見て驚き、小声で何かを話し始めている。
話している内容は大体想像がつくので、耳を傾ける意味はなさそうだ。
適当に聞き流しつつ、彼は煌びやかな宿へ足を運んだ。
寝床は既に手配されている。
長居するつもりもなく、一泊するだけの貴族用宿泊施設だ。
リーヴロ家のそれとは違い、おいそれと利用できるものではないが、今回は特例として認めてもらえた。
王都で行う準備も、王宮に出向いて決闘に関する書簡を直接手渡すだけ。
問題なのは、そこで長話が続くだろうこと。
王族との世間話に付き合わされるだろうことだ。
決闘に関して嫌味の一つくらい吐いても良いのだが、せめて王宮に直行する前に、荷物は降ろしておくべきだ。
そう思い、従者と共にフロントに辿り着くと、彼の来訪を待ち構える者がいた。
決闘を持ち掛けてきた元凶、ピエール・バートンである。
「来たか! スヴェン!」
「……ピエール様、ご無沙汰しております」
「お前……なんだ、その態度は……? 今更になって、まだ仮面を被り続けるつもりか?」
「これが私の貴族としての顔故、お許し下さい。そして先日は私も酔いが回っていたこともあり、ピエール様に対する礼を失しておりました。重ね重ね、お詫び申し上げます」
「チッ……! 気味の悪い男だ……!」
いつもの仮面を被ると、ピエールは面白くなさそうに舌打ちをする。
いつも通り、彼は機嫌が悪そうだ。
その代わり決闘を前に臆した様子はない。
曲がりなりにも学院時代、ピエールはスヴェンに傷一つ与えられずに敗北している。
動揺の一つくらい見せても不思議ではない。
違和感を覚えたスヴェンは、彼に問う。
「改めて確認しますが、明日のお相手はピエール様ご本人という事で、宜しいですか?」
「ハハハ! 残念だったな! 生憎だが、お前の相手は俺ではない!」
するとピエールの声に応じて、二人の元に新たな人物が現れる。
騎士服を纏いながらも、一本杖をついた初老の男性だ。
背筋を真っすぐに伸ばし、衰えのない動作で歩み寄ってくる。
浮かべる笑みに反して重い雰囲気を纏う姿に、スヴェンは覚えがあった。
「随分と、成長されたようですな」
「貴方は……!」
王宮を出入りできるスヴェンが、知らない筈もない。
老人の名はセルバリウス・ティアーノ。
国王近衛隊の主力を務める人物だ。
元平民でありながら己の剣術だけでのし上がり、『空剣』と異名を持つまでに至った老兵。
どうやらピエールは、彼を決闘相手として選出したようだった。
懐かしむセルバリウスに対して、取り敢えずスヴェンはゆっくりと頭を下げた。
「まさか、かの『空剣』が出向かれるとは思いませんでした。お久しぶりです、セルバリウス様」
「いやはや本当に久しぶりですね、スヴェン君。次期当主として、君が王宮に出向いた時以来ですか」
「当時はお世話になりました。セルバリウス様の一声があったからこそ、私は次期当主としての名目を、王家に認めて頂けたのです。しかし、最近では貴方の噂を耳にしないもので……息災か案じておりました」
「申し訳ない。しかし、ゴミ処理係の私が噂を広めてしまえば、仕事がやり辛くなってしまう。こればかりは仕方のない事でしょう」
残念そうにセルバは首を振る。
実際の所、彼が人前に姿を現すことは滅多にない。
外敵へ脅威を示すヴァンデライト家と違い、内側を守る者として秘密裏に敵を始末するためだ。
言わば、ゴミ処理係。
王宮内部でもセルバの活動を把握する者は、国王を除いても数える程度しかいない。
故に彼が決闘を臨んだことに、スヴェンは疑問を抱いた。
「では今回の決闘は、どういった風の吹き回しで?」
「そんなモノは分かり切っているだろう!? セルバリウス殿も考えを改めたのだ! お前を当主として認める訳にはいかないと! 実の父の栄誉すら足蹴にする男に、当主たる資格などないのだからな!」
ピエールは断言する。
王家を守護する者として、貴族たる資格のない者を成敗するのだと。
だがセルバは笑みを崩さないまま、視線を向けた。
「何かの勘違い、ですかな。私はピエール殿の意見に従うつもりはありません」
「なっ!?」
「私は内側を守る者として、その実力を知りたい。彼の父、レイヴン・ヴァンデライトに剣を教えた者としても、ね」
父の話を持ち出され、スヴェンの視線が僅かに逸れる。
分かっている事だ。
スヴェンに剣を教えたのは父であり、その父に剣を教えたのはセルバである。
老兵の言葉には、戦いへの高揚以外は感じられない。
するとピエールがたじろぎながらも、反論した。
「セルバリウス殿、今の発言は聞き捨てなりません! 私はこの男と違い、既にバートン家の当主! 軽視される覚えは……!」
「軽視されたくないのであれば、当主である貴方が戦えば良いだけのこと」
「う……!」
「貴方は少し、謙虚さを学ぶべきでしょう。今はまだ成り立て故に見逃されていますが、今のままでは直に思い知ることになりますよ?」
「こ、この私を脅す気ですか……?」
「脅しではありません。言ってしまえばこれは、歳ばかりを喰ってしまった、老い耄れの忠告ですな」
あくまで紳士的に振舞うセルバに、遂にピエールは口を閉じた。
それ以上に騒ぎ立てる程、愚かではないようだ。
苦汁を飲んだような顔をしながらも、居場所を失った事で、背を向けて立ち去っていく。
後に続くように、セルバも一礼だけを残して去っていった。
残りは戦いの中で語り合おうと言わんばかりに。
後方でハラハラしていた従者の心配を余所に、スヴェンはその後ろ姿を目で追う。
「国王近衛隊の『空剣』か。こりゃあ、一撃じゃ終わらねぇかもな……」
さて、どうしたものか。
スヴェンの脳裏には、かつての祈りの服が浮かんでいた。




