一話②
仕切り直しに近い形で、ソフィーとスヴェンは対面する。
胸元には、去っていった彼の弟が持ってきたバッチが付けられた。
「失礼は承知だが、弟を叱らないでやってはくれねぇか」
「も、も勿論です。そんな事は、しません」
「悪いな。俺の晴れ舞台とか言って、自分も頑張りたいとか、張り切ってたんだ。空回り気味だが、根は良い奴なんだよ」
そう言って、スヴェンは僅かに笑みを見せる。
言葉遣いは荒々しいだが、咎めるつもりはない。
寧ろそれこそが、かつての彼と一致する。
粗暴ではあるものの、ずかずかと踏み込む訳でもなく、何処か優しげな雰囲気を持つ同級生。
変わりがない事を知り、ソフィーは疎外感を抱かず、少しだけ安堵した。
「そ、それにしても……」
「ん?」
「最初は、誰かと思いましたよ……。いえ、見た目は変わってなかったんですけど……あんな敬語使う人だっけ、って……」
「学院の頃とは違う。そりゃあ、俺だって礼儀は尽くすさ。でも今でも他の場に行ったら、何故か遠ざけられてる気がするんだよなぁ。こっちはしっかり礼儀正しく、にこやかに笑ってるってのに。皆、引き攣った顔しかしねぇんだ」
「あ~……」
「そんなに変か?」
「い、いえいえ! 変ではないです! はい!」
「何だそりゃ。相変わらずだなぁ」
スヴェンは納得いかなそうな顔をする。
しかし前々から彼を知っているなら、そういう反応にもなるだろう。
先程見せた表向き用の態度は、今とは明らかに正反対だ。
最早、詐欺に近い。
何を考えているのか分からない、底知れなさすらあった。
それならまだ、今の方が話しかけ易い。
彼もそれを理解したのか、態度はそのままに昔を思い出していく。
「確か、俺がソフィーの落とし物を拾った時も、そうだったろ。真正面から声をかけてんのに、ビビりまくってさ。それのせいで、やたら印象に残ってるんだよな」
「そ、それ在学生の頃の話ですよね!? と言うか、誰だってビックリしますよ……! 武闘大会の優勝者が、いきなり声を掛けてきたら……!」
「優勝って……あんな慣習的な行事、何の箔にもならねぇよ。どいつもこいつも、腰の据わってないお坊ちゃまばかりだったからな。素振りしてるだけで終わったぞ」
そんな風に思っているのは彼だけだろう。
素振りをするだけで風圧が起きる相手に、敗北を悟らない方が難しい。
いかに男子に興味がなかったソフィーでも、在学時の彼の偉業は知っていた。
貴族令息のみで行われる武闘会で、他を抜き去って優勝した人物。
誰もが彼を前にすれば、自然と気を引き締めてしまう。
当然、在学時の彼女もそうだった。
『よく出来てるじゃねぇか。大事にしなよ』
始めて落とし物を届けられた時、ソフィーは酷く驚いた。
大柄な体格故に、圧を感じる程だった。
しかし、それ以上の事は何もなかった。
スヴェンはそう言って、落とし物を届けただけ。
放っておけば良いのに、わざわざ褒めてすらくれた。
その時のこともあって、若干だがソフィーの中で彼への印象は変わっていた。
彼女が屋敷に足を運べたのも、それが理由の一つだろう。
「それで、調子はどうなんだ? 今でも刺繍、やってんだろ?」
すると彼は、そんな事を聞いて来る。
刺繍という二文字が、目の前に現れる。
ソフィーは一瞬だけ身体を震わせた。
あの時の事が、再び掘り返されていく。
分かっている。
スヴェンは変わっていない。
それは理解できた。
だが、自分はきっと変わってしまったのだ。
視線を逸らし、声を振り絞る。
「……刺繍は、止めました」
「止めた?」
「もう、やっても意味はないので……」
もう、嘲笑する笑い声は聞きたくない。
自分には、何の意味もない。
そう彼女は思ってしまい、少しだけ沈黙が流れる。
すると不意にスヴェンが、その場から立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと縫ってけよ」
「……え?」
「裁縫部屋に行こうぜ。意味がないかは、俺が決める」
彼は動揺も、失望もしない。
返答は待たずして応接間を去ろうとする。
それだけでなく、ソフィーを手招きしたのだ。
今言ったとおり、裁縫部屋へ案内する気なのかもしれない。
周りにいた従者達も、彼の行動に異を唱えたりはしない。
呆気に取られるソフィーに向けて、人の道を作る。
「な、何なの……一体……」
ソフィーは流されるままに、裁縫部屋へと案内される。
今は仕事をしていないのか、室内には誰もいなかった。
そんな中へ連れられ、スヴェンは自らの従者と共に材料を揃える。
彼女の前に、見知った刺繍道具が置かれていく。
「丁度、材料は揃ってるんだ。他にも必要なら、こっちで用意する」
「いや……その……」
「別に何も言わねぇよ。気楽に縫ってくれれば良い」
「で、ですから……」
「先ずはそこに掛けてくれ」
「あ、あのっ……!」
勝手に進んでいくので、思わずソフィーは声を張った。
理屈があった訳ではない。
今までの塞ぎ込んできた思いや過去が、口を滑らせたのだろう。
流されるままに、彼女は反論する。
「お、お言葉ですがっ! 私、もう刺繍は止めたんですっ! それに……! 私なんかが、そんな事をしたって……! 何の価値も……!」
「そうか? じゃあ、俺のでも見とく?」
「え……? 見るって、何を?」
「俺の刺繍」
意固地な返答に、スヴェンはそんな事を言った。
無骨な大きな手で、小さな刺繍針をちょいっと摘まみ上げる。
どう見ても、柄に合っていない。
「何だその顔」
「だ、だって、刺繍ですよ……?」
「フッ。刺繍は貴族の嗜み。男がやっちゃダメなんて規則はないぜ。まぁ、見てな。華麗な手際を見せてやるよ」
笑みを見せながら、彼は絵柄が描かれた刺繍枠を手に取る。
刺繍は貴族令嬢が学ぶ教養の一つだが、男性がやってはいけないという規則はない。
ないけれども、普通はやらない。
その腕も針を通す事よりも、粉砕する方が得意そうだ。
しかし、彼の自信に溢れた顔を見るに大丈夫なのかもしれない。
流石にそこまでは否定できず、彼女は見守る側に回る。
見るだけだ。
別に口出しなどしないし、手伝ったりもしない。
その筈だったのだが。
「あ。針、折れた」
「……」
「ん? 間違ったか?」
「ぅ……」
「……なんか、指に刺さったな」
駄目そうである。
始めて十分も経たない内に、気まずい空気が流れる。
スヴェン自身は全く頓着していないが、彼の従者がそろそろ我慢の限界らしい。
同じように、ソフィーは根負けして立ち上がった。
「わ、わわ、分かりました! 分かりましたって! やります! やりますから、もう止めて下さい! 危なっかしくて、見てられません……!」
「え? でも……」
「お願いしますっ!」
「お、おう」
年端のいかない子に綱渡りをさせているようなものだ。
あの妙な自信は何処から湧いて出ていたのか。
ソフィーは彼から針を取り上げた。
下手に怪我をさせる訳にもいかない。
こうなれば仕方がない。
見守る筈だった彼女は、いつの間にか自ら行う立場に早変わりする。
殆ど縫っていない刺繍枠を手に取り、生地に針を近づけた。
久しぶりの感覚が、全身を包み込む。
そして少しだけ緊張が走る。
「本当に、縫うだけですからね……?」
「分かった。俺は此処で見ておくよ」
スヴェンはあっけらかんと答える。
針を握っていると、懐かしい感覚と共に、かつての記憶が這い上がってくる。
あの時から全く触らなくなっていたが、身体はしっかり覚えているようだ。
ソフィーは一度だけ深呼吸をする。
大丈夫だ。
この場には嘲笑うような者はいない。
加えてスヴェンが盛大に初心者ムーブを取ったためか。
先程のような拒絶反応は起きなかった。
それから彼女は意を決し針を滑らせ、糸を通していった。
始めは多少もたついたが、直ぐに以前の感覚を掴み取る。
徐々に手の動きと共に、繋いだ糸が舞い始めた。
這い寄っていた緊張も、糸の舞いに溶けて消えていく。
それは手早く、そして正確だった。
まるで糸自身が、あるべき場所へ収まっていくようだ。
周りの従者だけでなく、スヴェンも驚いたように目を丸くする。
「……出来た」
十数分後、ソフィーは縫い終えた刺繍枠を机の上に置いた。
生地には小さいながらも、チューリップのような青い花が咲いていた。
描かれていた図案が色を付けて浮き上がり、微細な影の表現すら出来ている。
まるで本当に、そこに花があるかのような代物だった。
「これは……」
「青い花、です。幸福をイメージして縫いました。本当に、それだけ、です」
ソフィーは自信なさげに言う。
数年もの間、針を持つことを遠ざけていた。
他の人には分からなくとも、ブランクというものを彼女は感じ取っていたのだ。
誰の目も直視できない。
根拠はないが、もしかしたら責めてくるかもしれない。
視線が怖くて、ただひたすらに俯く。
すると暫く刺繍を見ていたスヴェンは、おもむろに口を開いた。
「意味はあるだろ」
「え?」
「ソフィーの刺繍には、確かな意味がある」
侮蔑の言葉はない。
物静かな声だけが聞こえる。
ソフィーが顔を上げると、彼は持っていた刺繍枠を手渡してきた。
「今の手際の良さ。その辺の刺繍屋じゃ、比較にならねぇ。俺は素人だから確かな事は言えねぇが、それでも才能があるって断言できる」
「お、お世辞は別に……」
「世辞じゃねぇよ。俺が純粋に思った事だ」
取って付けたような誉め言葉ではない。
貴族として客観的に見た上で、ソフィーの刺繍には才覚があると断言した。
嘘ではないのだろう。
スヴェンの今までの態度から、何故だかそう感じ取れた。
自らの刺繍を賞賛されるのは、いつ振りだろうか。
返答に困っていると、彼は少しだけ残念そうな顔をした。
「本当は、もっと早く言うべきだったんだろうな」
「ど、どういう……?」
「あの時の事、俺は後から聞いた。だから、どうにかして切っ掛けを探していたんだ。手紙なんかじゃなく、直接こうやって話し合う機会をな」
「もしかして、そのために見合い話を……?」
「無理矢理、連れだして悪かった。でも、どうしても言っておきたかったんだ。ソフィーの刺繍は、幼稚なモノなんかじゃねぇってな。今だってそうだ。俺には、結構楽しそうに見えたぜ?」
思わず振り返ったが、従者達も何も言わない。
まさか始めからそのつもりだったのだろうか。
屋敷から一歩も外に出なくなった自分を案じて、ただ会うために呼び寄せた。
唐突な見合い話の意図に、ソフィーは気付いた。
消えた自分の事など、誰も見向きもしないと思っていた。
自分に価値などない。
嘲笑されるだけなら、もう手に取る意味すらない。
そう思っていた。
だがそれは間違いだったのだろうか。
「折角だ。良ければ、刺繍のコツを教えてくれよ。俺の場合、ど~にも上手くいかねぇんだ」
そう言って、スヴェンは新たな刺繍枠を手に取った。
あくまで自分と同じ立場に立とうとしている。
そんな事をしても、意味などない筈なのに。
もう一度だけ彼の方を見ると、にこやかな笑みを浮かべていた。
自分の失敗を物ともしない、笑い飛ばしそうな態度。
ソフィーは手にしていた、青い花の刺繍枠を握り締めた。
「では……先ずは、針を折らない所から始めましょうか?」
「ぐっ……。た、確かにそうだな……」
尤もな指摘にスヴェンは口ごもった。