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三話⑦

「あっ!? く、くぅっ……! も、もう、筋肉痛が……!?」

「痛むのか? 酷いようなら医務室に運ぶが……」


夜、ヴァンデライト家のリビングにて。

夕食を馳走になってから、ソフィーは小さな悲鳴を上げていた。

理由は単純で、既に腕や腰の辺りが筋肉痛を発していたのだ。

普段から引きこもって、怠けまくっていたツケか。

夕方に仮眠を取った瞬間から、コレである。

一挙手一投足が常にぎこちない。

スヴェンが心配そうにしていたが、彼女はどうにか気丈に振る舞う。


「だ、大丈夫です。十分にストレッチはしましたし、ぬるま湯にもしっかり浸かりました。そのお陰で全然……いっ!?」

「あんまり無理すんなよ。元々よわよわだった身体に、活を入れた感じなんだ。無理に動いて、肉離れでも起こしたらそれこそ大変だ」

「は……はい……」

「……悪ぃな。無駄に付き合わせちまって」

「いえ、そんな事ありません。これは、私が好きでした事ですから」


別に気にする事ではない。

そう思って何気なく答える。

だが後から考えて、自分が発言した「好き」という単語が引っ掛かってしまう。

思わずソフィーは背筋を伸ばした。

これではまるで、スヴェンが好きだから訓練をしたという意味にならないか。


「あぁっ!?」

「な、何だいきなり」

「あの! 今のは好きとか嫌いとか、そういう意味ではなく……! 私がやりたいから、やったというだけで……!」

「ふ~ん?」

「な、何ですか……?」

「ソフィーって、顔に出やすいよな」

「えっ! 嘘!?」

「そういうトコな」


両手で頬を押さえたが、スヴェンは笑うだけだった。

彼女の思いを理解した訳ではない。

ただ単純に、反応を見て楽しんでいるだけのようだ。

そこには貴族令息ではない、普通の青年がいるだけだ。

顔が熱い。

ソフィーは少しだけ不機嫌な態度を取って見せた。


「うぅ……スヴェンさんのそういう所、ちょっとどうかなって思います」

「悪い悪い。少し揶揄からかいたくなってな」

「……」

「わ、悪かったよ。機嫌直してくれって。な?」


参ったというように、スヴェンは両手を上げる。

別にそこまで怒っている訳でもない。

自分が隠している感情を、見破られたような気がしただけだ。

好きなのか、そうでないのか。

謝るスヴェンに対して、ソフィーは小さく頷き、顔の熱を冷ましていく。

そしてそう思ってしまった発端、シャルロットとの会話を思い出した。


深入りをするな、と彼女は言った。

そしてそんな彼女の服を、アルベルトは直してほしいと言った。

直すだけならば、屋敷の従者にも出来る筈だ。

何やら事情があることは、直ぐに分かった。

安易に踏み込んではいけない。

その言葉が頭の中を駆け巡る。

それでも、無視はできない。

返したい。

ソフィーは例の一件を、スヴェンに打ち明けることにしたのだった。


「それにしても、母上がどうかしたのか?」

「喧嘩でもしているのかな、と」

「喧嘩した覚えはねぇが……もしかして、何か言われたのか?」

「ええと……アルベルト君に、シャルロット様の服を縫い直してほしいとお願いされたので……」

「あぁ、あの服の事か……」

「知っているんですか?」

「まぁな。気になるなら、少し見てみるか?」


スヴェンは特に迷った様子もなく、部屋の扉を軽く指差した。

彼が普通に立ち入れる場所にあるらしい。

そして直ぐに心当たりがくるような洋服らしい。

一体、どんなものなのか。

気にならない訳もないので、ソフィーは頷いた。

専用のクローゼット部屋に案内されるのかと思ったが、違った。

地下の一室。

ひんやりとした空気の中、彼の後ろに続いて通路を歩いていく。

少しだけ緊張していると通路の突き当り、錠前が付いた黒い扉があった。

何やら物々しい雰囲気の場所だ。

そういや鍵があったなぁ、と呟いたスヴェンだったが、時間を置かずにアルベルトが鍵を持ってやって来た。


「あっ! そふぃーさん! 兄さま!」

「何だ、アル。お前も来たのか」

「はい! この部屋のカギは、執事の人から預かっています! 今、開けますね!」


アルベルトの陽気な声が通路に響く。

怖そうな雰囲気に、この声は中々に効く。

内心安堵していると、彼が早速、錠前に鍵を差し込んだ。

カチリと鍵が外れる音が聞こえる。

そして重い錠前に悪戦苦闘している所を、スヴェンが手を貸して取り外した。

兄弟並ぶと背丈が全然違うな。

そんな事をソフィーが思っていると、にっこりとしたアルベルトが一生懸命に扉を開け放った。


重々しい音と共に広がっていたのは、殺風景な一室。

あるのは、トルソーに掛けられた一着のドレスだけだった。

藍色のドレス。

パーティーに用いる装飾過多なものではなく、刺繍もそこそこに縫われた長いローブが特徴だった。

ただ全く手が付けられていなかったのか、小さな穴や解れがかなり多く残っている。

これが、直してほしいと依頼されたシャルロットのドレス。

ソフィーがそれに近づくと、スヴェンはいつもより小さい声で言った。


「祈りの服だ」

「この服は確か……戦いの……?」

「そうだな。戦場に赴く人の無事を祈る。そのためにある服だ」

「……」

「もう、何年も使っていないけどな。お蔭でこの有様だ。従者達も、触れるなと言われてから一切手を付けてねぇ」


確かに彼の言う通りだった。

藍色故に褪せてこそいないが、普通なら取り替えても不思議ではない状態だ。

それなのに鍵まで掛けて、何もない一室に閉じ込めている。

その意味を、ソフィーは考えた。

アルベルトが傍に近寄ってきて、祈りの服を見上げる。


「兄さまの大事なケットウ。お母さまには、これを着て。しっかりと、ケットウを見てほしいんです」

「アルベルト君……」

「皆、触りたがらなくて……でも、お洋服は着るものです! ボクはこの服に、お日様を浴びてほしいんです! そふぃーさん、お願いしますっ!」


恐らくシャルロットは動かない。

それでも彼は、母に決闘を見てほしいのだろう。

無理難題と分かっているのかもしれない。

不安そうな視線をソフィーに向けると、スヴェンが小さく息を吐いた。


「おいおい、ソフィーを巻き込むなって。それに決闘は授業参観じゃねぇぞ。そんな歳でもねぇし、母上は二度とコレを着ない。だから、この部屋に閉じ込めておいたんだ」

「でも……それじゃあ、兄さまは……」

「フッ。俺が服の一着や二着で、動じると思ったか? 安心しな。ピエール如き、俺が一撃でブッ飛ばしてやるよ」


自信満々に答える。

やはりスヴェンは変わらない。

寧ろ、今ある状態こそが最良だと思っているようだった。

そこには母親であるシャルロットとの一線が引かれているようにも見えた。

ソフィーはもう一度、祈りの服を見た。

近づき過ぎるのが良いことか、悪いことか。

この家の者ではないソフィーには、分からない。

だからこそ、今そこに見えるものを見た。

穴の開いた、解れた箇所。

紡がれない糸。

不意にその様子が、自分自身と重なった。


「私の刺繍と、同じ……」


あの時、ソフィーは刺繍に関係する全てを投げ出した。

嫌になったのだ。

期待をすることも、誰かに非難されることも。

もしかすると、この祈りの服もそうなのかもしれない。

これ以上、傷つくことを恐れている。

シャルロットの面影を浮かべ、彼女はゆっくりと頷いた。


「分かりました。やってみます」

「ソフィー……お前……」

「でも、勝手に触れる訳にはいきません。シャルロット様に、直接許可を頂きましょう」

「……前から思ってたが、ソフィーって結構頑固だよな」

「そうですか?」

「おう。らしくなってきたって感じだ」


反対されるかもしれない。

そう感じていたが、スヴェンは拒否しなかった。

あくまでソフィーの意志を尊重する。

加えてそれだけが理由ではないようだ。

重い腰を上げるかのように、彼はゆっくりと腕を組んだ。


「仕方ねぇ。俺も行ってやるよ」

「良いんですか?」

「ソフィーだけじゃ、バッサリ断られるだけだ。それにそろそろ、あの辛気臭い顔も頃合いだろ」


彼自身、何か思う所があるらしい。

許可を貰おうとする彼女へ同行する。

正直、かなり心強い。

ほぼ他人である自分がずけずけとモノを言うのは非礼に近い。

嬉しそうなアルベルトに、ソフィーは任せてほしいと言うだけだった。


シャルロットは屋敷の中にいなかった。

何処にいるのかとスヴェンが従者に聞くと、庭園にいると答えた。

最近の彼女は、自室と食堂と庭園を往復するばかりの毎日を過ごしているらしい。

やれやれと言って、スヴェンは庭園に赴いた。

勿論、ソフィーも後を追う。

夜の庭園は幾つもの照明灯が明かりを放ち、辺りを緑に染めていた。

花の殆どは閉じ、光彩輝く花弁を包み込んでいる。

昨日にも会った東屋に、彼女は座っていた。

ただそこにいて、閉じた花畑を真っすぐに見つめている。

そしてソフィー達が近づくと、こちらを向いた。

感情らしい感情はなく、ソフィーは思い切ってアルベルトの依頼を打ち明けた。


「必要ないわ」


端的に、シャルロットは答えた。


「決闘は息子のスヴェンが応えたこと。私が口出しをする事ではないし、出向く必要もない。この子の決断に、私は干渉しないわ」

「……決闘の様子を、見に行かれないのですか?」

「結果だけ聞けば良いでしょう。わざわざ足を運ぶ理由がないもの」


以前より冷たい言葉が、ソフィーの身体を突き抜ける。

明らかに避けようとしている。

それもそうだ。

彼女は地下の部屋に、鍵をかけてまで閉じ込めていたのだ。

無理矢理連れ出すのは、言ってしまえば余計なお世話。

腕を引っ張る訳にもいかず、流石にこれ以上は踏み込めない。

臆して口を閉じると、代わりにスヴェンが一歩踏み出した。


「相変わらず、人を突き放すような物言いをするんだな。そんな事で、折角来たソフィーを怖がらせてどうすんだ」

「スヴェン……」

「俺の決断に干渉しねぇなら、俺があの服を直すよう言っても、何も言わねぇって事か?」

「……」

「あれから何年経ったと思ってんだ。俺はもう、ガキじゃねぇよ」


実の母親に正面から言ってのける。

口調は粗暴なままだったが、そこに刺々しさはない。

諭すような言い方で、彼はソフィーを見た。


「それはアルも、此処にいるソフィーだって同じだ」

「……貴方達は、まだ子供よ」

「親として見れば、そうかもな。でも俺達は一歩一歩、進んでいるんだ。どれだけ遅くても、前を見て歩いている。だから俺は決闘を受けたんだ。そろそろアンタも顔を上げる頃合いだろ。過去は抱えても良い、捨てても良い。でも、いつまでも引き摺るモノじゃねぇ」


嫌な過去とは、捨てられないものだ。

不意に頭の中を過ぎっては、自分自身を縛り付ける。

叫びたくなる衝動すら起きるかもしれない。

それをどう乗り越えるのか。

抱えるのか。

暫くして、シャルロットはおもむろに立ち上がった。


「……分かったわ。使い道のない服だし、失敗しようと構わない。ソフィーさん、貴方の自由にして頂戴。いえ……今はエリーゼさんと呼ぶべきかしら」

「し、知っていたんですか? 私の事を……?」

「覚えておいて。抱えるものが大きければ大きい程、失った時にその反動は自分に返ってくるのよ。私達に関わるという事は、そういう事なの」

「シャルロット様……」

「貴方は少し……強すぎるわ……」


シャルロットは、息子の隣にいるソフィーを一瞥する。

その視線には、確かな感情が宿っていた。

ただ、形容できる言葉は見つからない。

彼女は二人を置いて東屋を去り、屋敷の方へと戻っていく。

それを見送っていると、スヴェンが自らの腰に手を当てた。


「不器用な言い方ばっかりだな」

「これで、良かったんでしょうか……?」

「やれるだけの事はやっただろ。使うかどうかは、本人の意志に任せようぜ」


彼にとっても、踏み込めるのはここまでらしい。

強要も強制も出来ない。

それはソフィーも理解できていた。

理解できていたからこそ、僅かな罪悪感が残る。

しかし、少なくとも許可は頂いた。

ならば後は、アルベルトの願いを叶えるだけだろう。

スヴェンの言葉に、ソフィーは頷いた。


「それにしてもあの服、一日で直せるのか?」

「修繕は初めてですが、大丈夫だと思います」

「本当かよ……従者の見立てじゃ相当かかる筈なんだが……。でも、今までのソフィーの刺繍を見てたら、それも出来るのかもしれねぇな……」


あれだけの損傷となると、買い替えた方が早いというのが一般的な認識だ。

わざわざ縫い繕うとなると、手間も時間もかかる。

だが、あの服はただ一つのものだ。

ソフィーが捨てた刺繍道具と同じように、そこには思いがある。

そして込めるのは、自分の思いではない。

スヴェンとアルベルトの思いを乗せるのだ。

たとえ手に取ってもらえなくとも、彼らに代わってその糸で表してみせよう。

一歩ずつ進む、ということを。

彼女は両手を強く握り締めた。


「よしっ! 私も頑張りっ……!?」


意気込むように腕を上げた瞬間、ピリッと痛みが走った。

筋肉痛である。

完全に忘れていた彼女は、思わずその場に蹲った。

格好がつかず、スヴェンが半ば脱力したように肩を落とした。


「いたた……また、痛いのが……」

「……ホントに大丈夫か?」

「へ、平気です……あはは……」


痛みは直に慣れる。

苦笑しつつ、彼女は立ち上がった。

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