三話④
「朝食にぶどうジュースとワインを間違えて……兄さま、お酒がとても弱いんです」
「ぶどうジュースがお好きなんですか?」
「はい。とっても」
「そうだったんですか……知らなかった……」
「酔ってる内は、ずっとこうなんです。ボクや執事のひとにも、こんな感じで……」
彼は事情を説明していった。
どうやら食事の最中に、誤ってお酒を飲んでしまったらしい。
そして酔っている最中は、何をどうしても他人行儀な状態から戻らないのだとか。
確かに今も尚、スヴェンは片膝をついたまま動かない。
わざとそんな事をする人でもないので、ソフィーはその話を信じるしかなかった。
しかし、彼がそこまで下戸だとは思わなかった。
ソフィー自身、酒は殆ど飲まないが、何にせよ此処までの事にはならない。
それにこの状態は酔って気が大きくなる、のではなく真逆に直行している。
何がどうなって、こうなったのか。
混乱していると、スヴェンはアルベルトに向かって居直った。
「アルベルト様、お客様をご案内されるために、お一人で向かわれる必要はありません。私に一言仰って頂ければ、お迎えに上がりましたのに」
「だって兄さま、そんな様子じゃ……」
「貴方は相変わらず親身な方ですね。お気遣いありがとうございます。ですが、これは次期当主である私の役目。ここから先は、私にお任せ下さい」
実の弟に対してこの態度。
かなり重症のようだ。
手を握り締められたアルベルトは、心配した様子のままソフィーを見上げる。
「皆と話したんですけど、これ以上お待たせするのも、どうかなってなったので。じじょーを説明しようって……」
「一応お聞きしますけど、これが一大事という訳では?」
「ち、違うんです……! それは別のお話なんです……!」
慌ててアルベルトは否定する。
流石に違うようだ。
今日の朝食で酔ったらしいので、時系列も違い過ぎる。
今こうなっているのは、お互い全く予期していなかった事のようだ。
そしてこんな状態では、本題に入る事も出来ない。
彼女はどうにか頭の中で整理していく。
「取り敢えず、酔いが醒めるまでは……という事なのかな?」
「ごめんなさい……」
「いえいえ。やっと事情が呑み込めました。アルベルト君、ありがとうございます。後は私に任せて下さい」
「良いんですか? 兄さまの目が醒めるまで、待っていても……」
「待ってばかりも落ち着きませんし、構いませんよ?」
元よりスヴェンの身を案じて、屋敷まで足を運んだのだ。
事情がどうであれ、ほとぼりが冷めるまで客室に引きこもるつもりもない。
罪悪感すら抱きそうなアルベルトに、ソフィーはにこやかに笑みを見せる。
すると直後、スヴェンが立ち上がり執務室の扉を開けた。
ソフィーが目上のお嬢様であるかのように、先を促す形で手を伸ばす。
「リーヴロ家と比べて些細かもしれませんが、精一杯おもてなしさせて頂きます。さぁ、どうぞこちらへ」
しかしこれでは、足を運ばされる勢いだ。
柄ではないので、引け目すら感じてしまう。
加えてこの状態のスヴェンとは、まともに話したことがない。
どうしたものか、とソフィーは頭を悩ませるのだった。
そして任せて下さいと言ったものの、結局の所はされるがままだった。
スヴェンは酔うと、いつも以上に礼節を欠かなかった。
自分を召使いか何かだと思っているのだろうか。
誘導される形で庭園に興味があると口にするとすぐさま案内され、まるでガイド役でも連れているかのように、庭園の植物達を解説された。
話の内容は刺繍の題材にも活かせそうな、興味深いものばかりではあった。
もしくはあえて、そういった話を取り揃えたのか。
普段の彼にはない博識さが見えて、ソフィーは頷くばかり。
そうして庭園の中でも映える、一面咲く赤い花畑に辿り着いた。
「アネモネが咲いていますね。ヴァンデライト家にとっては、希望の象徴として取り上げられてきた花です。踏み荒らすような戦の庭でなければ、このような場所だけでなく、各地一面に咲き誇れるのでしょうが……。ソフィー様は、どのような花がお好きですか?」
「ええと……そうですね。ここにあるアネモネが……特に赤いアネモネは好きです。赤色だけでなく、花弁の中心に白色が残る様子が、成長を意味しているようで」
「……」
「ど、どうかしましたか?」
「いえ。貴方は真っすぐな方だと、そう思っただけです」
頭をフル回転させて答えた彼女に、一瞬だけスヴェンは固まったが、微笑むだけだった。
だがその表情は、より親身なものを感じさせ、ソフィーは少しだけ胸の鼓動を速めた。
真っ直ぐなのは、自分ではなく彼の方だろう。
そう思いつつ、彼女は視線を逸らすしかなかった。
軽く歩いた後は、眺めの良いテラスから茶席が用意された。
良い香りのする紅茶と、薄めのパイが目の前に並ぶ。
庭園を眺められるこの場所からだと、趣も感じられる。
当然だが、そこには二人分の量が用意されていた。
「ハーブティーはいかがでしょうか。こちらのパイと合わせて、お召し上がりください」
「あ、美味しいです……!」
「パイの軽い風味と合うような茶葉を選定しております。お楽しみいただけたなら、幸いです」
「それでは私だけでなく、スヴェンさんも召し上がって下さい」
「いえ、私のような者が頂く訳には……」
「ここにあるのは二人分です。執事の方が、気を利かせてくれたんです。私だけ、というのは逆に失礼だと思いますよ?」
「……分かりました。では、お言葉に甘えて」
どうにか彼を着席させるに至る。
こうでも言わないと、ずっと立ったままだ。
彼の住まいだというのに、そんな状態では落ち着くものも落ち着かない。
ふうっと息を吐いて、ソフィーは視線を上げた。
向かい合うように座ったスヴェンが、そのまま丁寧にカップを口へ運んでいく。
一見、酔っているようには見えない。
いつもとは違う、礼節極まる彼がいるだけだ。
やはり今の状況が分からない。
自覚症状はあるのだろうか。
酒に酔うと記憶がなくなると聞いた事があるが、今もそうなのだろうか。
何となく、ソフィーは聞いてみる。
「……あの」
「何でしょうか?」
「スヴェンさんは今、酔っている自覚があるんですか?」
酔っている人間に、酔っているかと聞くのも妙な話だ。
大抵は酔っていないと言うだけだろう。
しかし彼は全く動じないままに、カップを受け皿に置いた。
「ありますよ」
「!?」
「何をそんなに驚かれているのですか?」
「え!? で、でも酔っているから自覚がない筈じゃ? え? どういう……?」
「酔っているからこそ、ですね」
あっけらかんとした態度に増々混乱するが、彼は一区切りおいて話し始める。
「私は元々、お酒に強い人間ではありません。しかし貴族の交流会や夜会に向かえば、必ず提供されます。お酒は互いの交流を深める一つの手段でもありますからね。それを断っていては、私だけが浮いてしまいます」
「そ、そういうものなのですか? 私、夜会には出た事がなくて……」
「ご令嬢であるならば、アルコールのない飲み物も提供されますが、大の男が酒嫌いというのは、やはり良い顔はされません。言ってしまえばこれは、私が訓練した処世術のようなものです」
「苦手なのに、訓練されたんですか?」
「はい。これと同じように、毒を盛られた時など、ある程度の耐性は付けています」
「ど、毒!? 盛られるんですか!?」
「いえいえ……そういった場合を考えての話です。王族の方も、同じように訓練されているそうですよ?」
毒を引き合いに出されて驚くが、彼にとって酒は同程度なのかもしれない。
それでも自ら口に運び、訓練を重ねた。
ソフィーの前でも面を外さないのは、一瞬の気の緩みが何処で現れるか分からないためか。
色々と暴露しつつも、スヴェンは態度を崩さない。
ようやく真意に気付き、ソフィーは引け目を思い出す。
「私は逃げてばかりだったので……やっぱり凄いな、って思います」
「貴方は、逃げてなどいません」
「えっ……?」
「ソフィー様は今、自分の力で歩き出しています。一度は目を背けた才にも、真っ直ぐに向き合うようになられました。それは決して、逃げではありません」
そんな劣等感を、彼は塗り潰そうとした。
嘘は言っていないのだろう。
言ってはいないのだろうが、彼女は首を振った。
自分は誉れある人間ではない。
学院の頃は特にそうだった。
交友関係もまともに築けず、一人で刺繍をするばかり。
そんな者に手を差し伸べる者などいないと思っていた。
「でも、学院の時の私は違いました。だから思うんです。どうして、貴方は私を見つけてくれたのか……」
「……」
「落とし物を届けてくれた、だけではないですよね?」
「……きっとそれは、偶然ではなかったのでしょう」
「どういう、事ですか?」
「元々、私は学院が好きではなかったので」
スヴェンは訳を話すことなく、小さく笑う。
「ご自身を卑下なさらず。そうすれば、貴方の本当の美しさに気付く方々が、必ず現れるでしょう」
本当に酔っている自覚はあるのだろうか。
再びソフィーの胸の鼓動が早まる。
普段の彼は、面と向かってこんな事は言わない。
此処まで来ると、お世辞も入っているのか。
それとも普段から、そう思っているのか。
いや、もしくは。
直球過ぎる言葉の数々に、堂々巡りの思考が続き、ソフィーは頭まで沸騰してしまいそうだった。
「……やっぱり、酔っていますね?」
「そうですね。もうじき、醒める頃合いだとは思いますが」
「……」
「ソフィー様?」
「何だか……私ばっかりじゃないですか……」
「何か失礼がありましたか? 仰って頂ければ、直ちに謝罪を……」
「い、いいえ。早く元に戻って下さいね?」
これ以上は追及しても負け続けるだけな気がしたので、ソフィーは紅茶で喉を潤した。
最早、顔が熱いのか紅茶が熱いのかも分からない。
酔いが醒めるまでに、自分も熱を冷まさなければ。
何にせよ、スヴェンの意識が元の状態に戻ることを祈るばかりだった。
それから更に時間が経ち。
屋敷や庭園が夕日に照らされ、辺りを紅く染めていく。
屋敷の応接間に戻っていた二人は、沈黙の中で向かい合っていた。
既に頃合いは過ぎ去っている。
凛とした様子のままのソフィーに対し、スヴェンは気まずそうな顔をしていた。
「……」
「……」
「もし……」
「ソフィー様」
「?」
「ソフィー様、って言って下さい」
「くっ……!?」
スヴェンは思い切り言葉に詰まった。
別に素直に従う理由はない。
しかし彼は罪悪感を抱いていたので、首を振ることはなかった。
他人から願われてするとなると、やはり気恥ずかしいのか。
何事にも動じなかった表情が、少し強張った笑みを作る。
「お、お帰りなさいませ。ソフィー様」
先程と何も変わらない筈なのだが、ぎこちない様子が伝わってくる。
まぁ、帰ってきたのはスヴェンの方なのだが。
その様子を見届けたソフィーは改めて頷いた。
「ありがとうございます」
「何だこれ? 酔ってた手前、改めてやるとすげぇ恥ずかしいんだけど?」
「良いじゃないですか。これでお相子です」
「なぁ、本当に迷惑じゃなかったんだよな? そこだけが気になる……って、なんで顔赤くなってるんだ? 赤くなりたいのは、寧ろ俺だろ?」
「べ、別に何でもありません。それに安心してください。これは少しだけの、仕返しですから」
「何だか納得いくような、いかねぇような……」
「それより、具合は大丈夫ですか?」
「ん? あぁ……そこは問題ないな……」
「記憶もあるんですよね? その……さっきの……」
「さっき、ってどれの事だ?」
「い、いえ……何でも」
ソフィーはあくまで落ち着いた雰囲気を保つ。
掘り返されて、からかわれては困る。
それにお互いが慌てていると、余計に収拾がつかなくなってしまう。
彼女はスヴェンの身を案じた。
酒に酔っていた彼に、気分の悪い様子はない。
悪酔いしていた訳でもないので、態度が戻った以外に変化はない。
前々から遠目で従者達も見守っていたが、彼らが割って入るような事態にはならなかった。
一件落着と言うべきだろう。
スヴェンも今までの事は分かっているのか。
事情を把握し、申し訳なさそうに項垂れる。
しかし何か。
何かを忘れているような、とソフィーは首を傾げる。
「それにしても、やってくれたよ。まさか、アルが手紙を出すなんてな。俺は気にする事でもねぇって、言っておいたんだが……」
「あぁっ!」
「ん?」
「そ、そうです! それです!」
ハッとしてその場から立ち上がる。
色々あり過ぎて忘れかけていたが、本来の目的はコレではない。
スヴェンに何かがあったからこそ、本家に訪れたのだ。
目を丸くする彼に、結局慌てた様子で彼女は問い掛ける。
「取り敢えず、そろそろ教えて下さい。一体、何があったんですか?」
「そうだな……先ずは何から説明すれば良いやら……」
流石にソフィーが訪れた時点で、隠すつもりはないようだ。
仕方がないといった様子で、ようやく件の一大事を話し始めた。




