三話③
それから週をまたいだ、ある日。
ソフィーは再び、ヴァンデライト家の領地に赴いていた。
馬車に揺られながら、近づいてきた目的の屋敷を眺める。
始めの頃は、嫌になったら帰るという気持ちばかりだったが、今は違う。
僅かな緊張と共に、深呼吸を繰り返した。
「迷惑にならないように……。うん、大丈夫……」
自分に言い聞かせつつ、ソフィーは例の手紙をもう一度取り出した。
先手を打たれたヴァンデライト家からの便り。
相手はスヴェンではなく、弟のアルベルトからだった。
妙に字が達者なその文面には、挨拶の頭語に続いてこう書かれてあった。
『兄のスヴェンに一大事が起きたので、是非とも会って頂きたいのです』
そんなものを受け取ってしまえば、応じざるを得ない。
ソフィーは両親に許可をもらい、会いに行くことにしたのだ。
一大事とは何なのか。
手紙には一切その情報が載っていなかったので、会って話すのだろう。
直接でなければ話せないような、深刻な問題かもしれない。
もしや、彼の身に何かがあったのではないか。
割と後ろ向きなソフィーが、緊迫した雰囲気を纏うのも仕方ない事だった。
「アルベルトって、あの子だよね? まるで大人が書いたような文章だけど……何が起きてるんだろう?」
近づく屋敷を視界に入れながら、彼女は様々な予測を立てていく。
それでも、わざわざ呼び出す理由が見つからなかった。
悪い話でなければいいのだが。
モヤモヤとした思考を抱きつつ、馬車は屋敷まで辿り着き、降りると執事が出迎えた。
以前にも彼女を出迎えた人物だ。
しかしその表情は、僅かな焦りが垣間見えていた。
「お待ちしておりました。ですが申し訳ありません。お部屋に案内いたしますので、少々お待ち頂いても宜しいでしょうか」
「何かあったんですか?」
「それが、その……何と申し上げるべきか……」
問いを投げ掛けても、はぐらかされてしまう。
隠している訳ではなく、本当に何と言えばいいか困っている様子だった。
増々、状況が分からない。
スヴェンだけでなく、送り主のアルベルトの姿も見当たらない。
客室に案内され、仕方なくソフィーは以前と同じように、従者と共に荷を下ろした。
さて、どうしたものか。
ソフィーは不意に客室の窓から、外の光景を見る。
妙ではあるが、不穏な気配は感じない。
緑豊かな庭園植物と、色鮮やかな花々が落ち着いた雰囲気を放っている。
そして、待っているようにと指示を受けたが、部屋の外に出てはいけないとは言われていない事を思い出す。
ソフィーは先程の執事に許可を取り、屋敷の庭園へと向かう事にした。
流石に部屋で刺繍をする気分にはなれない。
気を落ち着かせる為にも、かつて訪れた時と同じように庭園を周ってみる。
相変わらず、日差しは眩しい。
「もしかして、忙しいのかな……って、あれ?」
懐かしむように歩いていくと、庭園内に備えられた東屋で、長椅子に座っている人物がいた。
従者とは異なる整った服装、栗色の巻き髪が目を引く美麗な女性だ。
ただ、視線は何処か虚ろだった。
近づいてきたソフィーに気付いているのかいないのか、屋内から真っ直ぐに庭園の花々を見つめている。
周りに一羽の蝶も舞っているが、それすら気に留めていないようだった。
心あらずな様子に、ソフィーは覚えがあった。
そして今更引き返す訳にもいかず、取り敢えず挨拶をしようと近づいていくと、不意に女性が口を開いた。
「貴方も物好きね」
「えっ」
「お互いの関係について、とやかく言うつもりはないわ。でも一つだけ忠告するわね」
急に女性は長椅子から立ち上がり、近づいたソフィーの方へと向かい合った。
背丈は頭一つ分ほど高く、舞っていた蝶が二人の真横を過ぎ去る。
「この家の者に、感情を預けない方が良い」
「ど、どういう……?」
「きっと、後悔することになるから」
警告ではなく忠告。
声にも、不思議と威圧感はなかった。
訳が分からず返答に迷っていると、女性はそのままソフィーとすれ違い、屋敷へと戻っていく。
答えを聞くつもりはないらしい。
「男と違って、女って本当に不自由。貴方もそう思うでしょう?」
最後に意味深な言葉を放つだけで、女性は庭園から姿を消してしまった。
結局、挨拶一つ出来なかった。
ソフィーは目で追うしかなかった視線を元に戻す。
今の女性の素性に、心当たりがない訳ではない。
仮に全く知らなかったとしても、この屋敷を出入りしている時点で候補は絞られてくる。
「挨拶できなかったけど、今の人は確か……」
と、そこまで考えてソフィーは辺りを見回した。
視線を感じる。
先程の女性ではない、小さな気配だ。
既視感を覚えていると、目当ての居所は直ぐに分かった。
庭園植物の間から心配そうに窺う幼い少年を見つける。
(じ~)
「……?」
(じ~)
「あの?」
「わっ! ごめんなさい! 隠れるつもりはなかったんです!」
申し訳なさそうに姿を現したのは、ヴァンデライト家の次男。
手紙の送り主、アルベルトである。
どうやらいつ出ていくべきか、タイミングを見計らっていたらしい。
早歩きでソフィーの元にやって来た彼は、視線を上げて真っ直ぐに目を合わせる。
子供らしい純粋で透き通った目が、そこにはあった。
「ようこそ、お出で下さいました! そ、そ……!」
「……」
「そふぃーさん!」
「はい。本日はお誘い頂き、ありがとうございます。アルベルトくん」
「あの! もしかして、あの方……なにか、失礼がありましたか?」
「いいえ、何もありません。少し挨拶をしただけ、ですね」
「そ、そうですか! 良かったです!」
アルベルトは彼女の答えを聞いて安堵する。
先程のやり取りを見てしまったからこそ、出て行きそびれたのかもしれない。
しかし、彼に追及する気はない。
元々そのために訪れた訳でもない。
微笑ましく、温和な態度で目線を合わせつつ、ソフィーは手紙の件を聞いてみた。
「あの手紙は、貴方が書いたんですか?」
「はい! がんばりました!」
「す、凄いですね! 大人のお兄さんみたいでしたよ?」
「えへへ! 執事の人と、いっぱい練習したんです!」
何と言う事だろう。
あの手紙は誰かに書いてもらったのではなく、自力で書き上げたものらしい。
カトレア達と一緒に悪戦苦闘していた自分とは、雲泥の差だ。
純粋に褒めると、アルベルトは屈託のない笑顔を向けた。
ソフィーからすれば、その眩しさは中々に堪える。
とは言え、幼い彼があれだけの手紙を出すのだ。
未だに姿を見せないスヴェンの様子を、手探り感覚に尋ねることにした。
「それでその、スヴェンさんの一大事、というのは?」
「あ……どうしよう……」
「?」
「その前に、ええと……ボクと一緒に来て下さいますか?」
少し迷った後、彼は同行するように願い出る。
口で伝えるよりも、実際に見てほしいのかもしれない。
ソフィーは二つ返事で頷く。
そうしてアルベルトは庭園を抜けて、屋敷の中へと舞い戻った。
客人であるソフィーを連れ、すれ違う従者に挨拶を交わしつつ、執務室までやって来る。
此処は以前、スヴェンが次期当主としての仕事をしていた場所だ。
物々しい扉の前に立つと、先導していたアルベルトが振り返る。
「兄さま、こんな時に間違えちゃったから、どうしようって思ったんですけど」
「間違える?」
「はい。あまり、ビックリしないで下さいね?」
妙に念を押してくる。
一体、何が待っているのか。
予測が付かなくて、ソフィーは少しだけ緊張する。
そんな中で彼は重い扉を両手で押し、ゆっくりと開けていった。
「よいしょ……失礼しまーす。兄さま、お連れしましたー」
開かれた扉を進む彼の後ろに続くと、大きな執務机に座る大柄な青年がいた。
渦中の人物、スヴェンである。
彼は弟の声を聞いて、ゆっくりと書類から顔を上げた。
見る限り、特に変わった印象は見られない。
リーヴロ家領でお世話になった頃と、風貌は全く同じだ。
一体、何を驚けばいいのだろう。
とにかく一先ずは挨拶をしなければと、彼女は慌てて頭を下げる。
「お、お久しぶりです、スヴェンさん。あの時は本当にお世話になってしまって……いつか、お礼をしなくちゃと思っていたんですが……」
「……」
「アルベルト君から話は聞きました。一体、何があったんですか?」
「……」
「……スヴェンさん?」
返答がない。
不思議に思ってゆっくりと視線を上げると、スヴェンは真っ直ぐにソフィーを見ていた。
視線に、明確な感情は窺えない。
何かを考えるよりも先に、彼が執務机から離れ、つかつかと二人に近づいてくる。
大柄な身体が影を落とし、その影が彼女の足元まで忍び寄る。
そんな意図が汲み取れず、そのまま見上げることしか出来なかった。
何か、迷惑を掛けてしまったのだろうか。
不安になるソフィーだったが、突如彼は彼女の前で片膝をついた。
「ソフィー様、お久しぶりで御座います」
「えっ?」
「あの時の事でしたら、気に病む必要はありません。全ては私が勝手に行った事。寧ろ失礼がなかったかと案じていた所です。またこうして貴方にお会いでき、本当に安心致しました。お礼と申されるなら、その言葉だけで私は十分で御座います」
スヴェンはまるで目上のご令嬢を相手にするような言葉遣いで、答えるだけだった。
少々乱暴だった話し方とは真逆。
これは所謂、仕事フェイスだ。
素の自分を覆い隠すために用意した、他人行儀な一面。
しかし、それをソフィーに対して向けるのは今更な話だ。
既に彼の内面の一部は知っているし、接待じみた応対をされる必要もない。
あまりの変わりように、ソフィーは自然とアルベルトの方へ視線を向けた。
「これは、一体……?」
「兄さま、間違えてお酒飲んじゃったんです」
ただ一言。
アルベルトは申し訳なさそうに、肩を落とすのだった。




