三話②
「何かあったんですか?」
「い、いいえ! 何もございません! ソフィーさまは、思うままに縫って下されば!」
ソフィーの問いに、ロゼッタは慌てて否定する。
リーヴロ家の屋敷、その長女の自室に彼女達は集まっていた。
集まる理由は一つ、彼女が施した刺繍の程を鑑みるためだ。
周りの詮索を知らせに来た訳ではない。
誤魔化すロゼッタは、ソフィーが仕上げた刺繍を観た。
窓の外から差し込む日光を受けて、白地のカーテンに描かれた紋様が色彩を放つ。
明らかに技術が向上している。
自ら捨てた刺繍を再起させ、市場に上がる様々な刺繍の知識を吸収したためだ。
既に遠方では、偽名であるエリーゼの名が有名になっている。
ロゼッタの店にすら、探りを入れてくる者がいる位だ。
当の本人はそこまで理解していない。
今はただ気ままに縫っているばかりで、周囲の声は両親からの意向で耳に入らないようになっている。
幸か不幸か、そのために彼女は未だに自身の才を信じ切れていなかった。
傍から見れば素晴らしい出来であっても、何処か不思議そうな表情すら浮かべる。
「それなりに縫ってきたけれど……本当に返品は一度もないんです?」
「勿論です! そのような無礼をする者は一人もいません! 奥様方も、そう仰っていましたでしょう?」
「何だか、信じられなくて……」
ソフィーは嬉しさ半分、戸惑い半分の様子だった。
一度は衆目の前で馬鹿にされ、否定すらされた技術。
刺繍道具すら投げ出し、関わりすら絶ったものだ。
再度そこから立ち上がるのがどれだけ大変か、仕立て屋であるロゼッタにも理解できた。
そしてそれを理解するのは、彼女だけではない。
傍で観ていたもう一人の少女、カトレアが問い掛ける。
「姉さまは、エリーゼを名乗り続けるおつもりですか?」
「えっ? そ、そうだね?」
「名を明かせば、周りの目も変わると思いますよ」
「え……早くない……?」
「寧ろ、遅い方だと思いますけど」
「う、うーん……でもやっぱり、今はこのままで良いかな、って……?」
「そう、ですか。姉さまがそう仰るなら、私も黙っておきます」
「ごめんね、カトレア。あ、ブローチ解れてない? 縫い直そうか?」
「そんなに簡単には解れませんよ。気持ちだけ受け取っておきます」
ソフィーとカトレアは、互いに微笑む。
以前のような、義務感だけで交わされる会話ではない。
深い溝になっていた繋がりが、埋まっていくような温かさがあった。
これは姉妹間の仲が解消された、単純な話ではない。
仲違いをしたまま、仮にソフィーが刺繍への再起を図ったとしても、いつかは自身に疑問を抱いていただろう。
昔の姉妹を知るロゼッタは、思わず声を震わせた。
「ううっ……! 再びお二人が仲睦まじくあれて、私は感無量でございます!」
「相変わらず大袈裟な……」
「大袈裟ではありません! メイド達も同じような思いなのですから!」
「ありがとう、ロゼッタ。でも、私一人じゃ何も出来なかったと思うんです。きっとこれは、連れ出してくれた、あの人のお陰」
ソフィーは恥ずかしそうに目を伏せる。
当然だが、二人が歩み寄れたことには切っ掛けがあった。
塞ぎ込んでいた彼女を連れ出したヴァンデライト家の次期当主。
学院時代には問題児と呼ばれていた貴族令息が発端だった。
当初その話を聞いた時は、ロゼッタも大丈夫なのかと案じていた。
しかしそんな前評判は何だったのか。
彼はソフィーを屋敷の外へと導き、険悪になりかけていたカトレアとの仲を取り持った。
特に最終日の一連の動きは、簡単に出来るものではなかった。
恩人という認識も間違いではないだろう。
そして彼女が口にした言葉には、恩人以上の響きが込められていた。
「それで? 例の恩人さんとは、何処まで進んだんです?」
横からカトレアが口を挟む。
既に彼女は、姉の思いに気付いている。
だからこそ、あれだけの事があってからの、進展を聞きたいようだった。
すると当のソフィーは、少しだけ気まずそうな顔をする。
どうしたのだろう。
ロゼッタは沈黙していると、暫くして思いもよらない返答があった。
「あれから一度も会っていない!?」
「か、カトレア……声、大きい……」
「す、すみません。ですが、声も大きくなりますよ? まさかとは思っていましたが、あれからずっと、ですか?」
ソフィーは力なく頷く。
これにはカトレアだけでなく、ロゼッタも驚いた。
あれから既に一月以上が経っているが、進展は一切ないようだった。
確かに互いに貴族という身分。
会いに行けるような機会は、簡単には作れないのは分かる。
とは言え、何かやりようがあった筈では。
そう思った所で、慌ててソフィーが首を振る。
「あ、会ってはいないけど、文通はしてるよ? でも、その……」
更に目が泳いでいく。
気まずいというより、気後れといった印象。
気ままに縫っていた刺繍の時と一転して、彼女はやっとの思いで口を開いた。
「これ以上、誘っても大丈夫なのかなって……」
「……」
「今までは、言ってしまえば社交辞令でしょう? 確かに、そんな中で私達のことを相談したのも、どうかなって気はするんだけど……。それのせいで、逆に距離感が掴めなくなって……。今までが近すぎたって言うか……この先は迷惑じゃないかなって思ったら、書けなくて……」
今にも額から汗を流しそうな、リーヴロ家長女。
これは、何と言えば良いのだろう。
思わずカトレアは視線を外して、ロゼッタの方を見る。
その視線は、僅かに困惑しているようだった。
「ロゼッタ」
「……はい」
「重症です」
「そう、かもしれませんね」
非常にもどかしい。
会話を見る限り、次に会う約束も取り付けていないように見える。
寧ろここは押す場面だ。
恋愛とは、適度な熱がなければ冷めていく。
文通できるだけの積極性が持てた事は前進なのだが、このまま距離を保ったままでは、離れていかないとも限らない。
縫っている場合ではないかもしれない。
ロゼッタはカトレアと共に頷き、おもむろに立ち上がった。
「ソフィーさま、一先ず今日は、刺繍をお休みにしましょう。代わりに持つべき物があります」
「えっ」
「紙とペンです」
そうしてロゼッタは動き出し、ある物を準備するよう促した。
ソフィーが所有している真っ新な手紙と、羽ペンである。
以前は誰かと文通をする事もなかった彼女に、新たに加わった人との繋がり。
確かにカーテンの刺繍は申し分ないのだが、そことは別に物申さなければならない。
恐る恐る机から目的の物を取り出したソフィーに対して、代わりにカトレアが言う。
「誘いの手紙を書きましょう。今日の姉さまの課題は、コレです」
「!!!???」
「どうして、そんな顔をするんですか」
「だ、だだ、だってそんないきなりっ!?」
「いきなりも何も、もう何通も書いているのでしょう?」
「そ、そうだけど……!」
正論を投げる妹に、ソフィーは言葉を詰まらせる。
僅かに頬が赤くなっているようにも見える。
目の前で異性への手紙を書けと言われたら、羞恥からそうなるのも仕方ない。
彼女の視線が、手紙とカトレアとを交互に見比べる。
緊張がこちらにまで伝わってきそうだった。
「か、カトレアだって、私が何枚も書き直しているの、知っているじゃない?」
「確かに最近、手紙の消費量が物凄く増えましたけど」
「一回書き上げるのに、何回も間違えるし……。間違えたら、毎回焼かないといけないし……」
「今更ですけど、わざわざ焼却処分する必要あります?」
「あります」
「妙な所で念入りですね……」
「だ、だからね? 今書けと言われても、書き上げられる訳が」
「……気持ちは分かります。ですが一つだけ、助言しても良いですか」
慌て続けるソフィーに、カトレアは神妙な面持ちで続ける。
別に茶化している訳ではない。
ヴァンデライトの令息とは、確かな繋がりが持てた。
それは今、ソフィーにとって重要な転機だ。
進み続けるのは怖いに決まっている。
それでも臆したままでは、折角のチャンスを逃してしまうかもしれない。
だからこそ一歩踏み出した姉の背を、カトレアはゆっくりと押していく。
「色々な意味で、ああいう人は滅多にいませんよ。それこそ他のご令嬢が放っておかない位には」
「……!」
「あの人の内面を知っているのは、今は姉さまだけ。リードしている状態なんです。だからもう少し押していかないと、ですよ」
ヴァンデライト家、もといスヴェン・ヴァンデライトは、未だに一部の貴族から敬遠されている。
学院の頃の噂がある事ない事広まり、殆どの者がその内面を知らない。
こう言ってしまうと、はしたないと思われるだろうか。
しかし意中の人と仲を深めるには、待っているだけでは始まらない。
積極的になる事が、悪い筈もない。
少なくとも、スヴェンはソフィーの事を気に掛けてくれているのだ。
ハッとしたソフィーは真っ新な手紙を見て、深く頷いた。
「そ、そうだよね。わ、分かった……! やってみるわ……!」
始めから無理だと決めつける必要もない。
今は自分の思いを伝える事が大事なのだと、ペンを持って机に向かい始める。
その表情には、刺繍に向かう時以上の気迫が感じられた。
彼女が手放していた、かつての面影が垣間見える。
懐かしさを覚えるカトレアに対し、ロゼッタもホッと安堵した。
はずだった。
「は……ぐっ!?」
「ソフィーさま!?」
「な、何ですか、今の音は……?」
少し時間が経って、ソフィーから呻き声が上がる。
絞り出したような声だった。
続いて机に突っ伏してしまう。
思わず駆け寄るロゼッタだったが、ソフィーは目がグルグル回りそうな勢いだった。
手紙は一枚目の三分の一程度で止まっている。
「ここから、何を書けばいいのか……。き、緊張して……」
「取り敢えず、普通に誘えば良いんじゃないんですか?」
「ふ、普通って何? もしかしてカトレアは、こういうの書き慣れてるの?」
「わ、私ですか?」
普通とは何か。
誘い方を問われ、カトレアは動揺する。
彼女は学院の中でも優秀な生徒だ。
同級生だけでなく、関係者と手紙を交わす経験は何度もある。
しかしそれは、あくまで事務的なもの。
個人的な話を踏まえた誘いは無いとは言えないが、今回の件に当てはまるかは微妙な所だった。
「まぁ、多少は……」
「す、凄い!」
「ですが姉さまの思っているような、男性とのやり取りがある訳では……」
「お願い、カトレア! 私に力を貸して!」
「えっ?」
「お願い……!」
「う……。ね、姉さまがそう仰るなら……」
藁にも縋る思い。
困り切った姉に対し、バッサリ否定は出来なかった。
自分が背中を押したこともあって、気迫に圧されてカトレアは頷いてしまう。
二人で考えるつもりなのだろうか。
顔を突き合わせて、書きかけの手紙に向かって頭を悩ませ始める。
(これは、口を挟むべきかしら)
異性に出す手紙の参考書なら、書庫にありそうなものだが。
内心ロゼッタが指摘すべきか迷っていると、不意に部屋の扉から気配を感じる。
扉を開けてみると屋敷のメイドが待っており、かつてのチーフに頭を下げる。
何やら渡したいものがあるらしく、印のついた書簡を差し出してきた。
受け取ったロゼッタは、差出人を見て目を見開いた。
そして、こういった書き出しはどうか、と言い合う二人の元へと歩み寄る。
「ソフィーさま、宜しいでしょうか?」
「ロゼッタ?」
「もしかして、良い手紙の文面が思いついたんですか?」
「いえ、そうではなく……ヴァンデライト家からお手紙が届きましたよ」
ロゼッタはそう言って、ソフィーに書簡を渡す。
手紙を出そうと張り切っていた彼女達は、先手を取られたと思って、顔を見合わせる。
だが、差出人は想定の人物とは異なっていた。
手にした書簡の名を見て、ソフィーは不思議そうに首を傾げる。
そこにはかなり達筆な文字で、アルベルト・ヴァンデライトと書かれていた。




