一話①
「え……ムリ……」
「無理じゃない。もう決まった事だ」
「う、うう嘘でしょう、お父様? み、見合いって? 誰と、誰が?」
「相手はヴァンデライト家の長男。スヴェン君だ。昔の同級生だったのだから、覚えているだろう?」
リーヴロ家の屋敷で引きこもっていた令嬢、ソフィー・リーヴロは声を震わせる。
それもそうだった。
彼女宛に見合い話が舞い込んで来たのだ。
相手の名は、スヴェン・ヴァンデライト。
かつて通っていた貴族の名門学院、その同級生。
確かに何度か話したことはあるが、それだけだ。
見合いがどうこう、なんて話が持ち上がる程の関係はない。
そもそも仲の良い同級生などいなかったが、問題はそれだけではない。
「お、覚えてはいるけど……。もも、もしかして……私が行かなくなった後に……?」
「そうだな……確か学院で暴力沙汰を起こしたとか……」
「えええ!? お父様、わわわ私に死ねって言ってるの!?」
「そんな訳がないだろう?」
「私が引きこもりだから!? 何の役にも立たないから!? そ、そうよね……! どうせ、私なんて……!」
「そ、ソフィー……! 落ち着いて、聞いてくれ……!」
ソフィーの父が、彼女の両肩を抑える。
その視線は実の娘を案じる思いで満ちていた。
「今回の見合いは、私が依頼した訳ではない。スヴェン君たっての申し出だったんだよ」
「へ?」
「血判状も頂いている。ソフィーの身に危害を加えないという、絶対の誓いが此処に記されているんだ。血判状の反故は、一族にとって致命的。そんなモノをわざわざ出してきたという事は、ソフィーの安全はヴァンデライト家が、全て保証したという意味になる」
「だ、だから大丈夫だって……? 私に、屋敷の外へ出ろって……?」
「……父さんも、母さんも、お前が心配なんだよ。このままずっと屋敷にこもってばかりでは、いずれ限界が来る。今は大丈夫でも、私達にも老いは来るんだ。その時に、他の姉弟達に頼る訳にも行かないだろう?」
「……」
「少しで良い。嫌になったら、直ぐに打ち切っても良いとも書いてある。だから一度、彼と会ってはくれないか?」
父の思いを、ソフィーは拒絶できなかった。
登校を止めて数年。
本来ならば名門学院を卒業し、華々しい貴族街道を歩む筈だった。
しかし今の彼女が出歩くのは、リーヴロ家の屋敷のみ。
最近では家族と顔を合わせるのも気まずくなり、部屋から出なくなる有様だ。
こんな事は駄目だと、頭の中では理解している。
だが理解した所で、抗えないものもある。
彼女はヴァンデライト家からの血判状を受け取り、自室に舞い戻る。
頭を抱えたくなる気持ちを堪えると、不意に以前の記憶が甦る。
(皆さん、見て御覧なさい! この幼稚な刺繍を!)
(お芝居の中でも、お目に掛かれない幼稚さですわね!)
ソフィーは目を瞑り、両耳を抑えた。
そして何故、私に構うのだろうと考えた。
あれからもう、身内以外には誰も会っていない。
忘れ去られていても不思議ではないのに、今更何の用なのか。
分からない。
外がどうなっているのかも、引きこもっていた彼女には分からない。
行きたくはない。
しかしヴァンデライト家は、リーヴロ家よりも明確に立場が上の貴族。
血判状を反故にすれば、それこそ父だけでなく家族全員の顔に泥を塗ってしまう。
行かざるを得なかった。
恐怖を抑え、どうにかソフィーは動き出す。
父は、嫌になったら帰ればいいと言っていた。
そう帰ればいいのだ。
ずっと留まる訳ではなく、居たとしても数日だけの話。
何の問題もない。
「嫌になったら帰る……! 嫌になったら帰る……!」
一週間後、ソフィーは馬車に乗せられていた。
酷く久しぶりな衣装と、格式ばった艶やかさが、より一層窮屈さを感じさせる。
向かう場所は、ヴァンデライト家の屋敷。
従者はお互いに数人だけ、傍に置くことが許されている。
加えて色眼鏡を持つ親の同席はないとのことだ。
冷や汗すら流しかねない状況だったが、何度も深呼吸を繰り返して落ち着かせる。
大丈夫だ。
場所はあの学び舎ではなく、全く知らない相手でもない。
問題児と言っても、血判状のために取って食われることはない。
そして相手も、周囲から疎まれている状況は同じ筈だ。
下手な所作をしない限り、何も起きない。
何も起こさずに、帰ればいい。
そう思いつつ、ソフィーはぎこちない動きで見合い相手の屋敷に辿り着いた。
「お待ちしておりました。ソフィー・リーヴロ様。どうぞ、こちらへ」
「あ……はい……! よろしく……お、お願いします……!」
どうにか言葉を振り絞る。
鏡は見ていないがかなり青ざめていたらしく、お付きの従者だけでなく、相手方の従者も気遣う様子を見せていた。
申し訳ない限りだと、ソフィーは自責の念に駆られる。
そうして促された先は、屋敷の中の応接間。
煌びやかな室内に通されると、そこにいたのは大柄な体格の茶髪青年。
スヴェン・ヴァンデライトが、にこやかな笑みを浮かべていた。
「お久しぶりですね、ソフィーさん」
「え……? は、はい! お久しぶりで、ございます……!」
「どうぞ、そちらにお掛け下さい」
虚を突かれつつも、ソフィーはどうにか歩き出し、対面のソファーに座る。
そしてもう一度、見合い相手の姿を見た。
同級生だった頃よりも、更に体格が良くなっている気がする。
ただ、今も見せている取り繕った笑顔は、以前とは異なる。
そこだけは記憶と一致していない。
「こうしてお会いするのは、在学以来ですか。あれ以来、貴方の姿を見かけなくなったので、心配していたのですが……お元気そうで何よりです」
「え、えぇ……何とか……。スヴェンさんは、その……随分、変わりましたね……?」
「そう、でしょうか? すみません、学生時代の頃はもっと砕けていましたか?」
「そ、そうですね……確か……」
スヴェンはこんな人だっただろうか。
そればかりが気になって、会話が続かない。
まるで仮面を被った知らない者と相対しているようだ。
知らない人、知らない目。
大丈夫かと思われていた不安が、一気に押し寄せる。
あぁ、やっぱり駄目だ。
自分は変わらないまま、周りに取り残されてしまったのだ。
薄暗い気持ちになりかけた直後、背後の扉がゆっくりと開かれる。
ソフィーが来た場所を振り返ると、そこには幼い少年が顔を覗かせていた。
「兄さま~、しつれ~します~」
「ん? アルベルト?」
「バッチ、わすれてます~」
スヴェンを兄と呼んだ貴族風の少年が、トコトコと二人の元にやって来る。
手にしていたのは、勲章のようなバッチだった。
詳しくは分からないが、恐らく彼の持ち物であり権威の象徴なのだろう。
スヴェンはその場から立ち上がり、ソフィーもそれを目で追っていく。
だが受け取るよりも先に。
少年は目の前で転んだ。
「あ」
「えっ」
何の前触れもなく転んだので、彼女達は声を上げるだけだった。
周りにいた従者達も、ああっと言わんばかりに動揺する。
室内の床は絨毯が敷かれている。
転んでも怪我は負わないと言っても、ものの見事に頭から突っ込んだのだ。
バッチが転がり落ちると共に少年、アルベルトは突っ伏した顔を上げる。
「う……うぅ……」
見る見るうちに、悲しそうな顔になっていく。
思わず立ち上がりかけたソフィーだが、それよりも先にスヴェンが歩み寄った。
その様子には、見覚えがあった。
「アル、大丈夫か? 怪我してないだろうな?」
「ご……ごめんなさい……」
「ったく、仕方ねぇな。ほら、一回立つんだ。ん~、大丈夫そうだな」
先程の敬語とは打って変わって、かなり崩れた言葉が室内に行き渡る。
しかし、威圧感はない。
転んだ弟を大きな手で起こしつつ、あくまで気遣う態度だけが見て取れる。
それはかつて在学だった頃のスヴェン・ヴァンデライトに相違なかった。
謝る弟を励ましつつ、無骨な笑みを見せる彼に、ソフィーは自分から声を掛けた。
「スヴェン、さん……? その……?」
「あ……あ~、そうだなぁ……」
仮面は剥がれた。
ようやく彼は自分の素振りに気付く。
スヴェン側の従者も、やってしまったと言わんばかりの顔をしている。
何とも微妙な空気ばかりが、場を満たしていった。
そうして暫くして。
「……やっちまったか」
ただ彼は、バツが悪そうな顔をした。