希望編・帰還
時間にしてみれば、2日は歩き続けているだろう。天井の電灯だけが唯一の光源の、不気味さを感じさせる薄暗闇がどこまでも支配する廊下を、「僕」と女性――幽子さんは横並びに歩く。死んだお陰(?)で、体力の心配は無い。
幽子さんは「門」が閉じてしまう前に急がなければならないとは言っていたけど、どうやら走りながらでは「門」の正確な位置を割り出せないらしい。
視界の邪魔ということで滝のように垂れ下がった黒髪を左右に分けた幽子さんは、本当に美人だった。年齢は「僕」より少し上程度だろう、いささか色白だけど端正な顔つきだ。こんな状況にも関わらず、ガラにもなく少しだけドキッとしまった。
道すがら、「僕」は幽子さんに色々な事を教えてもらった。この世界の事、「こちら側」――つまりあの世の存在、其処に迷い込んだ人間がどのような運命を辿るか……恐らく死して初めて認識出来る世界の存在を、先取りで教わることになった。
「え? アメリカの新しい大統領、あの人になったの?」
「そうですよ。まぁ、投票でもかなりのゴタゴタがあったみたいですけどね」
それに対し、「僕」の方からも現実世界についての情報や出来事を教えることもあった。ここで不思議だったのが、「僕」と幽子さんとの間には、意外と情報の差異がなかった。ほんの1、2年前の出来事も普通に覚えている様子だった。
この人は、一体何者なのだろうか? これまでの態度や語る内容から推察するに、「僕」より前にこの世界に迷い込んでしまった人間だとは思う。けれど、それにしてはこの世界について熟知し過ぎている。情報も何も無い世界で、どうやって知ったのだろう?
「幽子さんは、何でそんなに詳しいですか? というより、この世界に迷い込んでから、どれぐらい経っているんですか?」
「……分からない。年月なんて、とっくの昔に数えるのを止めた。今の私は、無限に続く世界を永劫に彷徨う亡霊に過ぎない、から」
最初は途切れ途切れの喋りだったけど、「僕」と会話を重ねていく度に幽子さんは普通に喋れるようになっていく。鈴を転がすような、トーンが高めの美声だ。
「え? で、でも、それにしてはこっちの出来事について結構詳しいですよね? それに、格好だって季節感をガン無視してるのを除けば普通ですし……」
この暗闇を長く彷徨っていれば、時間の感覚がなくなるのも無理はない。けど、幽子さんが着ている清涼感漂う白いワンピースは、生地からしても最近のファッションだ。幽子さんはどう見ても「僕」と同じ現代人の筈だ。
でも、幽子さんの綺麗だけど感情が抜け落ちたような口ぶりは、1、2年なんて目じゃ無い、もっと長い長い年月を生きているような――外見では「僕」と大差無い筈なのに、実際の年齢差は天と地ほどの差があるような――
「そう、向こうは今、冬なのね……『あちら側』の事は、時々この世界に迷い込んでくる人から情報を仕入れてる。それに、『こちら側』を流れる時間は、『あちら側』と比べて非常に緩やか。だから、『あちら側』ではたった数年の月日でも……『こちら側』ではもう100年以上は経っていたって、おかしくはない」
「……ッ!」
100年以上……人間が過ごすにはあまりにも長い年月の重みに、「僕」は言葉を失った。人の平均的な一生を優に超える年月を、幽子さんはこのまったく代り映えの無い暗闇の世界を彷徨い続けてきたと言うのか。
そんなの、「僕」には絶対に耐えられない。間違いなく心が持たない。同時に、幽子さんが何故この世界について詳しいのかも分かった。それもそうだろう、それだけの年月を積み重ねていれば、嫌でも頭が理解してしまう。この人なりに試したりした経験もあるのだろうけど、「僕」なんかとは比べ物にならない程の理解があるんだ。
「えっと……ご家族や、現実世界での記憶って……」
「昔の事は、もう殆ど忘れた。覚えているのは、自分がどうしてこの世界に迷い込んだのか、自分はこの世界で何をするべきなのか、たったそれだけ。……でも、あなたのように、この世界に迷い込んだ頃の事は、今でも鮮明に覚えてる」
廊下を歩きながら、幽子さんは辛うじて残っていた記憶を掘り起こして静かに語る。
「最初は、本当に私一人だけだった。永遠に続く暗闇、永遠に続く廊下、人も物も何もなくて、何度発狂したか分からない……それすらも、さらに月日を重ねる頃には、何も感じなくなってた。自我を守るため、私の精神は外の世界への認識を全て絶った。後はずっと、闇に閉ざされた意識の中で、惰性で毎日を過ごしてた」
「……」
当然だろう。こんな何も無い世界でなんか、1年過ごすだけでもかなり参ってしまう。それを少なくとも100倍以上の月日を過ごしたら、精神が崩壊するのは必至。
死して魂だけとなったが故に体は滅びたくても滅びれない。自らの心を保つために、幽子さんは様々なモノを心から切り落とした。「僕」と出会った時に話し方が変だったのは、その影響なのだろう。そんな歪みを幾つも積み重ね、「僕」の隣を歩く女性を構成しているんだ。
「無感情に、意味もなくこの世界を彷徨っていた時……私は1つだけ決めたの。理不尽な理由で現世を去り、こんなに苦しい思いをし続けるような人間は、私だけで十分だと。これ以上の犠牲者を増やさないために、私は‟門番”になろうと決めた」
「門番?」
「『こちら側』への『門』は、『あちら側』の世界で様々な形で不定期に開き続ける。このままでは、知らず知らずのうちに私と同じような目に遭う人が増えてしまう。だから私は、辛うじて二つの世界が交わる『門』の前でこの姿を不気味な晒すことで、『門』の前に居る人に忌避感を与えて『門』を通ることを避けさせようとしたの」
「……あっ!」
「僕」は直ぐに察した。エレベーター前で幽子さんがとっていた奇妙な行動……あれは嫌がらせなんかじゃなかった。この人は、自分なりに生者である「僕」や他の人がこの世界に迷い込むのを未然に防ごうとしていたんだ。
なるほど、初対面であんな姿を見れば、誰だって怖がってわざわざ近付いたりはしないだろう。多分、「こちら側」の声は向こうには聞こえないだろうから、方法としては理にかなっている。ただ――
「それでも、あなたのように迷い込んでくる人は居る。私も、全ての『門』の位置を把握出来る訳じゃないから。あなたはきっと、私の近くにありながら私が認識出来ない場所にある『門』から迷い込んだんだと思う」
「これまでにも、そういう人はやっぱり居たんですか?」
「……うん。私が認識出来ない『門』を知らずに通り、『こちら側』に迷い込んできた人は、これまでにも沢山居た」
幽子さんの口ぶりからすると、「僕」はこの世界ではそう珍しい存在でも無いらしい。もしかしたら、世で起こる不可解な行方不明や失踪事件、不自然死なんかは、案外このような怪異が関係しているのかもしれない。
「元の世界へ戻れるよう、私は彼らに出来る限りの説明をした……けれど、誰も私の話を妄言だと切り捨てて最後まで聞き入れてはくれなかった。みんな恐怖で錯乱し、貴重な時間を浪費して元の世界に帰れなくなった。挙句の果てに、正気を失って暗闇へ身を投げた人も……結局、私は誰1人として、助けることが出来なかった」
「……」
その人達の事を情けない、とは言えない。今は幽子さんが居るから少しは安心していられるけど、「僕」だって一歩間違えれば自分は死んだという現実に耐え切れず、その人達の二の舞いになっていたかもしれないからだ。
こういう未知の状況においても焦ることなく、落ち着いて行動する……高校の避難訓練で先生が口を酸っぱくして言っていた言葉だけど、それをまさかこんな状況で学ぶことになるとは。
「でも今日……あなたとこうして出会ったことで、私はようやく自身に課した決意の意味を果たすことが出来た」
「え?」
そうこう話しているうちに、「僕」と幽子さんが差し掛かった角を右に曲がった――その時。
「あなたを此処へ導くために、今日までの私という存在は在ったのかもしれない」
「あ、あれは!?」
相変わらず無限に伸び続ける薄暗闇の廊下――その壁に、何と一条の光が差していた! 天井の電灯の明かりなんて比じゃない、この世界においては信じられないくらい眩しく頼もしい光。間違いない、現実世界で当たり前のように目にする人工の光だ!!
「も、ももももしかして!?」
「そう。此処が、あなたの目的地」
「ほ、ほほ本当ですか!? あれが!」
声が震えまくる「僕」の問いに、幽子さんは首を縦に振って肯定する。それによって浮足立った「僕」は、幽子さんに先んじて駆け出した。壁に差し込んでいる光の源があるらしき角をさらに曲がった先には――
「これは……やっぱり!」
この世界に迷い込んだのは、「僕」が‟それ”から降りたからだ。ならば、帰る時も同じような手段で帰るのではないか……そこには、大方「僕」の想像通りの物があった。形はかなり違っているけど……間違いない、エレベーターだ!! エレベーターがドアを開けて眩しい光を放っている!!
「あ、あぁ……ッ!!」
光って、こんなにも尊くてかけがえのないものだったのか。疲れ切った心にみるみると活力が湧いてくる。目尻からは自然と溢れる涙が止まれない。
「さぁ、早く行って。もう時間はあまり残されていない」
「これに、入れば良いんですね?」
「ええ。『こちら側』は『あちら側』に比べて時間の流れが凄く緩やか。こちらでも数日も、向こうではほんの数分程度しか経ってないと思う。だから、肉体はまだ保存されている。あなたがこの『門』を通ることで、あなたの魂はその肉体に戻る……筈」
最後の最後で「筈」って……でも構わない。理屈も論理も無いけれど、「僕」の中の直感が告げているから。この眩き光の先を超えれば、「僕」は本当の居るべき場所に帰ることが出来ると。
「そうだ! 幽子さんもこれに乗れば、一緒に帰れるんじゃ――ッ!?」
思いつき様にそういった直後、「僕」は思わずはっ、とした。そして後悔した。けど、一度口にした言葉を取り消すことは出来ない。そんな「僕」の心中を察したか、幽子さんは色白の顔に苦笑を浮かべて首を横に振った。
「私は、もう駄目。私の魂は、完全に『こちら側』に囚われてしまっている。それに、魂が帰れたとしても、帰るべき肉体はとっくに失われている筈。だから、私は永遠に帰ることが出来ないの」
「……っ」
その通りだ。大体、「門」を通れるだけで帰れるなら、幽子さんはとっくに生き返っているだろう。……それに、初めから何となく分かっていた事じゃないか。幽子さんの雰囲気が、同じ死者である筈の「僕」のモノと比べても異質だと感じていた。この人はもう、完全な別世界の住人となってしまったんだ。
「……すいません。軽率な発言でした」
「良いの、これが私の役目だから。……それじゃあ、代わりと言ってはあれだけど……1つ約束してくれる? あなたが無事、元の世界に帰れたら、どんな形でも良い。この世界の事、『門』を通して広がる死の世界の事を、出来るだけ多くの人に伝えてほしい」
何て切ない願いなのだろうか。この人は、あまりにも報われない‟死後の生”を送っている。例え、「僕」を助けたとしても、見返りで自分が救われる訳では無い。何人もの迷い人を助けようと、自身が報われることは無い。
そんな理不尽、どうにかしなければならない……とは、言えない。所詮、「僕」はただの迷い人の1人、この世界においては何の力も無い。幽子さんに助けてもらわなければ、無力な存在だ。何も出来ない人間が何かを為すなど出来ない。だったら――
「分かりました。約束します!! 必ず伝えます、僕が必ず、あなたという人間を忘れさせない!! だから、どんな形であっても、あなたも頑張って生きてください!!」
その人を最期まで忘れない事。それが恩を受けて救われた者の、せめてもの役目だ。「僕」は、咄嗟に幽子さんの冷たい両手を同じく両手で取り、涙ながらに誓った。
「……ありがとう。さぁ、行って。『門』が閉じてしまう前に」
「……はい」
少しだけ笑ってくれた幽子さんに促され、「僕」は光差すエレベーターに乗り込んだ。外の薄ら寒い空間とは打って変わって暖かさに満ちた空間、その中には何もなかった……壁際に取り付けられた、たった1つの‟閉まる”ボタンを除いて。
「……それじゃあ、お元気で」
「うん。……あなたもね」
ボタンを押し、ドアが閉まるまでの間、互いに別れの挨拶も済ませた。やがて、その時は訪れる。左右から重い音を立ててエレベーターのドアが閉まっていく――その間際、幽子さんは、
「――さようなら」
出会って初めて、心からの満面の笑みを「僕」に向けた。その笑顔を最後に、「僕」と幽子さん、「あちら側」と「こちら側」、2つの世界を隔てる壁が閉じていく。
ドアが完全に閉まった瞬間、エレベーターごと浮き上がっていくような感覚と共に、「僕」の意識は薄れていき――
◆◇◆◇◆◇
――結論から言えば、僕は無事に元の世界へ帰ることが出来た。気付けばいつもの見慣れた光景……マンションのエレベーターの中で倒れていて、エレベーターは7階に着いたところで停まっていた。
時計を確認すると、時間は1階でエレベーターに乗り込んでから5分くらいしか経っていなかった。あまりの時間の解離に、まるで夢のような出来事に感じた……けれど、あの暗闇に満ちた世界を彷徨った数日間の事……そして、自分を助けれくれた女性の存在は、しっかりと覚えている。
また「門」を超えて「あちら側」に迷い込んでしまわないかとハラハラしながらエレベーターから降りると、幸いな事に何も起こらなかった。それに安心しつつ、僕はフラフラと覚束ない足取りで家へと帰り――家族と再会した。
家に着いて顔を見るなり突然泣き出した僕を、怪訝な表情で駆け寄ってきた家族は夢にも思わないだろう。妹なんかガチ泣きしてる僕を引き気味で見てたし。僕がこの5分間の間、生と死の狭間を彷徨っていた……いや、本当に死んでいたなんて。
あの日の事、あの世界の事は一先ず心の片隅に置いておき、僕はより一層勉強にまい進した。そして……無事に第1志望の大学に合格することが出来た。本来なら、学力的に足りなかった受験だった。でも、あの死の世界で過ごしたことによって身に着いた鋼の精神力が、僕の集中力を後押ししてくれたのかもしれない。
そんな訳で、夢にまで見たバラ色の大学生活……その実態は、少し想像と違うものになった。僕は大学に通う傍ら、まさか関わるとは思わなかったオカルト研究部なるサークルに入り、世界中の怪異やホラー関係について熱心に調べるようになったのは、また別のお話。
様々な出来事や思い出を経て、僕の‟時間”はどんどん過ぎていき……
――この日記を読んでいる君には、どうか知っていてほしい。この世界のすぐ隣には、死した魂が流れ着く死の世界が広がっている。それらは、ほんの些細な出来事で繋がってしまうものなのだと。
もし君がこの先の人生で、運悪く死の世界に迷い込んだとしても、慌てずに落ち着いて行動してほしい。そして、その世界の何処かに必ず居る1人の女性を見つけてほしい。きっと彼女なら、君を元の場所に帰してくれる筈だから。
故・有名ホラー作家が生前書いたとされる日記より一部抜粋
ラストが少し雑でしたかね?