絶望編・結末
――何十時間……いや、何日間走り続けただろうか。何しろ、進む道以外の全てが真っ暗な世界だ。時間の感覚なんて、とっくの昔に失われた。
「……」
走れども走れども、一向に息切れしない体。倦怠感どころか、空腹感すらもまったく起こらない。……時間が経てば経つほどに、自分がもう真っ当な人間とはかけ離れた存在になっている事を否応なく自覚させられた。
「……」
いつの間にか走りは早歩きに変わり、いつの間にか早歩きは歩みに変わり、いつの間にか歩みは、あの女性のような重い足取りに変わっていた。疲れなど無いのに。
「……」
認めたくなかった。考えたくなかった。……でも、分かってしまう。女性が言ったとおり、「僕」は既に死人だという事を。そうでなければ、寝ても覚めても永遠に変わることのない景色などある訳が無いだろう。
「僕は、何をしているんだろう……」
思わず零れた独り言。絶望を紛らわすために心の中で燃えていた、たった一つの‟願い”も気付けば希薄になっていた。女性によれば、今の「僕」は肉体を離れた魂だけの存在らしいが、本当に抜け殻になった気分だ。
夢ならば、どれほどよかっただろうか――ちょっとだけ知っている某有名歌曲の一節を思い出した。まさか、作曲者もこんな状況を想定して歌詞を作った訳では無いだろうけど。
しょうもない事ばっかり考えるようになってきた……このまま、「僕」もあの女性と同じように、どことも知れない世界を永遠に彷徨い続けるのだろうか。いっそのこと、この世界を構成する暗闇に身を投げてしまった方が、楽になれるかもしれない。
希望も行くアテもなく、虚ろな体と魂を引き連れ、「僕」はもう何千個面かという廊下の角を曲がった――その時。
「――ッ!!」
どこまでも続く廊下の壁に、一筋の光が差していた。明かりという点では天井の電灯もそうだけど、そんなの比じゃないくらいに眩しい光だった。間違いない、頼もしい人工の光!
「あ、あぁ……っ!!」
普段の生活で明かりを見ただけで感動する者は居ない。でも今だけは違う。光を見た途端、「僕」の心にみるみる活力が戻ってきた。高3男子にあるまじき嗚咽混じりの声を漏らし、零れ落ちる涙は止まらない。それぐらい、嬉しさでたまらなかった。
「帰れる、やっと帰れる!!」
確証なんてなかった。でも、今までとは何かが違うという確信があった。まるで夜虫が街灯の光に群がるかの如く、「僕」はふらふらと廊下の壁に当たっている光の発生源があると思わしき角を曲がる。そして、次に「僕」が目にしたものは――
「あ、あれは!?」
構造的には、これまでの廊下にも幾つかあったエレベーターホールと同じような場所だった。唯一違うのは、何も無いと思っていた廊下の突き当たりで目の眩むような光を放っている――エレベーターだ! エレベーターがドアを開けて「僕」の前にあった!
最初にこの世界へ迷い込んで以来、一度たりとも目にしなかった他のエレベーター……まさかこんな所にあるなんて! 偶然なのか必然なのかは分からないけど、何という幸運だろう!?
やっぱりあの女性が言っていた事は出鱈目だった。やっぱり「僕」は死んでなんていない。だってもし死んでるなら、死後の世界にエレベーターなんてモロ文明の産物が存在する訳が無い!
「はっ、はっ、はっ……!」
帰れる、これで帰れる! 「僕」は何一つ不自由を感じなくった体を全力で動かし、頼もしさを越していっそ神々しさすら感じる光を放つエレベーターの中へ駆け込もうとして――
バチッ!!
「うわっ!?」
見えない何かにぶつかるような衝撃と共に、後ろへ弾き飛ばされた。かなり強く転んだけど、痛みはまったくない。ただ、それ以上の精神的衝撃が「僕」の心に走った。
「な、何で!? 何で近付けない!?」
その後も、そっと手を触れるような動作でエレベーターに近付くが、軽い衝撃と共に後ろへ弾かれる。ならば強行突破、と痛みを感じない体で何回も何回も‟壁”に当たっては弾き返されるを繰り返す。それでも、
「はぁ、はぁ……何でだよぉ……!」
エレベーターに駆け込むことは叶わない。不意に、顔を上げた「僕」はそこで気が付いた。眼前のエレベーターのには、壁に大きな鏡が設置されていた。だがその鏡は風呂場のように酷く曇っており、「僕」の姿は……「こちら側」はまったく映っていなかった。
「僕が映ってない……死者は、死者の世界は、現実世界には見えない……」
知識なんて無いけど、あの女性から聞いた話と、此処に至るまでの経験で、何となく「僕」は察してしまった。考えようにしていたけど、遂に「僕」は自分を死者であると認めてしまった――その時。
チーン――その音は、本当の意味で「僕」にとっての死の宣告だった。自分を死者だと認識した「僕」の希望を摘むように、重い音を立ててエレベーターのドアがゆっくり閉まり始めたのだ。
「お、おい!? 行くなッ!? い、行かないでくれぇぇ――ッ!!」
死者の願いは届かない。「僕」の嘆願虚しく、ドアが完全に閉まったエレベーターは、音もなく‟上”へと消えていった。次の瞬間、ホール内を照らしていた眩い光は失われ、薄ら寒さが漂う元の暗闇が戻ってきた。
「うっ、あぁ、あ……」
何もなくなった‟壁”の前で、「僕」は両膝両手を床に付いて静かな嗚咽を漏らす。何かが変わるという確信はあった。でもそれは、希望に満ちたものなんかじゃなく、更なる絶望への落とし穴だった。
「帰りたい……帰りたい……ッ!!」
一度は希望が蘇ったことで、心の奥底に沈んでいた一つの願いが再び浮かび上がってきた。そうだ、「僕」は帰りたい。帰って家族の顔を見たい。……でも! それを叶える手段はまったく見つからない。何故か現れたエレベーターも、「僕」に何一つ残すことなく消えていった。
「諦めて。今のあなたが、『門』を通ることは出来ない」
「――ッ!? あ、あなたは……!」
直後、聞き覚えのある声が背中に浴びせられた。涙を床に落とす首だけを回して振り返ると、其処にはあの白いワンピース姿の女性が「僕」を見下ろしていた。下から見上げたことによって、長い黒髪の裏に隠れた女性と「僕」の視線が交錯する。意外にも女性は、日本人らしい綺麗な黒色の瞳をしていた。
「ど、どうして此処に……」
「ずっと、あなたを探していた。あなたはどんどん逃げるから、追いつくのに時間がかかった」
女性は前に会った時のような途切れ途切れの喋りではなく、声量は小さいけどはっきり喋るようになっていた。この短い間にどういう変化があったのか。
「何でですか!? 何で僕は、アレを通れないんだ!?」
「あなたも、薄々分かっている筈。一度死したあなたが、『あちら側』へ続く『門』を通ることは、出来ない。生と死は不可逆、死んだ人間が蘇ることは、絶対に出来ない」
「!?」
「僕」の質問に、女性は事務的な感情のまったく籠っていない声音で答えた。あぁ、そうだった。この女性は聞かれた事に対しては正直に答える。けれど、その真実が「僕」にとってプラスになるかは考慮していない。真実は時として希望にも絶望にも変わる。そして、この女性が希望となる真実を話したことは、無い。
「あ、あぁ……あぁああああああああああああああああ――ッッ!!!」
こんな話、聞くんじゃなかった。暗き絶望に叩き落された断末魔と共に、「僕」の中で‟何か”が壊れる音がした。これまで辛うじて「僕」の心を繋ぎとめていた‟何か”が、この瞬間、決定的に壊れた。
「……残念。まだ、手はあったのに。あなたはそれを拒んだ……」
女性が何かを呟いたような気がしたが、詳しく聞き取れなかった。というか、もうどうでもよくなった。「僕」の願いは帰りたい、その一つだけ。それが達成されないようではまったく意味が無い。
「こうなった以上、あなたがとれる選択肢は2つだけ。1つは、考えることを止めてこの世界を構成する暗闇に自ら身を投げる事。今まで迷い込んできた人と同じように。私の予想では、暗闇の飲まれた人の魂は死を迎えると思うけれど、実際どうなるかは分からない」
「……」
それは、一度考えたことだ。このまま現実世界に帰ることなく永遠にこの世界を彷徨うよりかは、いっそのこと全て諦めた方が遥かにマシかもしれない。ただ、どうなるか分からない以上、そこまで気乗りはしないというのが本音だった。
「そして、2つ目……現実世界に住まう人々を守るため、私に協力する事」
「……え?」
予想だにしなかった女性からの提案に、「僕」は俯いた顔を上げて女性を見た。黒髪の裏に隠れた女性の異常なくらい真っ白な表情は詳しく見取れなかったけど、どこか決意したような生気を「僕」に感じさせた。
「どういう、事、ですか……?」
「あなたと同じように、知らずのうちに『門』を通り、『こちら側』に迷い込んでしまう人が、世界には大勢居る。でも、あなたが働きかけることで、『あちら側』の人々を守ることが出来るかもしれない」
「そ、そんな事が出来るんですか……?」
「そのための方法は私が教える。考えてみて。あなたが頭の中に思い浮かべる大切な人達に、こんな辛い思いをさせて良いと思う?」
脳裏に浮かぶ「僕」の大切な人達――高校の友達、受験が終わったら遊ぶと決めていた中学の友達、そして、大切な家族の姿……
――駄目だ。そんなのは絶対に駄目だ。もう全てが手遅れだというのなら、こんな目に遭うのは「僕」一人だけで良い。友達には、願わくば「僕」の事を長く覚えておいてほしい。家族には、みんなを差し置いて先立つ不幸を許してほしい。決めた。「僕」のような絶望をみんなに味わわせないようにするためにも、「僕」は……!
「……教えてください。どうすれば、みんなを守れますか?」
幾度となく絶望し、虚ろとなった心に小さな意志の火が灯る。涙を拭い、うずくまった体勢から立ち直り、女性に面と向かって相対する。「僕」は、この人の誘いに乗った。そんな「僕」の姿に、女性は心なしか口元に薄い笑みを浮かべ、
「それは――」
◆◇◆◇◆◇
それは、暑い夏の出来事だった。その日は大学の友達と夜遅くまで遊んでて、帰りは深夜を回った頃だった。お酒も結構な量飲み、夏の夜の少しだけ涼しい風で酔いを覚ましながら、私は家路についていた。
「うぅ……ちょっと飲み過ぎちゃった。早く帰って、シャワー浴びて寝よ……」
そうこうしているうちに、私は沿道沿いに建つ1軒のマンションに辿り着いた。此処の一室が私の家であり、両親が夫婦で旅行に行っているので、今住んでいるのは私1人だ。
玄関口のセキュリティーに暗証番号を入力し、他に人が入って来ないのを確認して、ロックが解除され扉を抜けてマンションの中に入る。日中、此処のエントランスには軽い冷房が入っているのだが、この時間帯ではとっくに切れて外と殆ど変わらない暑さになっている。
エレベーターの呼び出しボタンを押し、エントランスの端に設置された長椅子に座りながら、上からエレベーターが降りてくるのを待つ。
――実は、1年と少し前、このマンションのエレベーターの中で、住人の男子高校生が遺体で発見されるという事件があった。外傷は一切無し、薬物の反応も検出されなかった。持病の類もなく、いたって普通の健康体……遺体の死亡原因は判明しなかった。事件性は無しとして、警察は突然死としてこの事件は幕を閉じた。
そういう奇妙な事件があってから、このエレベーターを利用する人はかなり減ったように思う。かくいう私も普段は階段を使うタイプ……なのだけれど、この酔っ払った状態で6階まで昇るのは流石に御免被りたい。私はエレベーターを使うことにした。
チーン、という軽やかな電子音と同時に降りてきたエレベーターのドアが開き、私はさっさと乗り込んだ。そして、地下1階から10階までのうち、6階のボタンを押した。
がらんがらん、と重い音を立ててガラス窓のついたドアが完全に閉まる。密閉空間に加え外気から遮断されたことで、軽い冷房が効いたエレベーターの中はそこそこ涼しく、狭い空間に1人となった私は気の抜けた大きな溜め息を吐いた。
「こういう時、此処のエレベーターの遅さってイライラするんだよね」
このマンションに引っ越して来てもう長い。慣れたことではあるが、この古いエレベーターの速さはかなり遅い。6階ともなればそこそこ時間が掛かってしまうだろう。
昔ながらの重苦しい駆動音を鳴らし、私を乗せたエレベーターはゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていき――
チーン
「え?」
電光表示が2階を示したところで停まった。誰かが外からエレベーターを呼び止めたのだ。こんな遅い時間に人が乗ってくるとは珍しい。一体誰だろうと、ドアが開いた先に広がるエレベーターホールには……不思議なことに、誰も居なかった。
「誰か、乗る人は居ませんかー?」
念のため周囲へ呼びかけるも……返事は無い。まぁ、だったら留まる理由も無いし、私はエレベーターの閉じるボタンを押した。その指示に従い、重い音を立ててドアが閉まろうとする――その時。
「――ひっ!?」
心臓が飛び出るかと思った。恐怖と驚愕で引き攣った悲鳴が漏れた。何故なら、私から見て右側、左側廊下このホールを繋ぐ右側廊下から、奇妙な格好をした一人の男性が音もなく現れたからだ。
季節感をガン無視した服装だった。いくら夜とはいえ、まだまだ蒸し暑いこの夏には厚着過ぎる黒色のコート、首に巻かれたこれまた暑そうなマフラー……まるで真冬の服装だ。背中には学生鞄らしき物を背負っている。
顔がすっぽり隠れるほどに伸びた黒髪で、顔は殆ど見えない。体つきは細く、口元から滝のように伸びた長い髭がなければ、女性だと思ったかもしれない。そんな奇妙さと不気味さを併せ持った人が、其処に居た。
「……」
男性は私を一瞥すらすることなく私の目の前を通り過ぎ、左側廊下に消えていく。 エレベーターのドアが閉まった。
「な、何だったの、あの人は……」
初対面の人に不気味などという印象を持ってしまったのは失礼だと思うけど、そう思われても仕方の無い格好だったと思う。だって、明らかにおかしいだろう。
あんな奇妙な住人が居れば、直ぐに周囲へ知れ渡る筈だ。けれど、これまでそんな話など聞いたことが無い。最近引っ越して来た人なのだろうか。それでもヤバい格好だと思うけど。
「見たくないモノを見た気分だわ……」
背筋に冷たい感覚が走るのを覚えつつ、私を乗せたエレベーターはゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていき――
チーン――停まった。