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絶望編・異変

 

 それは、大学受験を間近に控えた冬のある日、予備校からの帰りの事だった。いつものように夜遅くまで自習室に残って勉強していた僕は、夜の9時過ぎくらいの電車に乗って家路につく。家へ帰る頃にはもう10時だ。


「……はぁ……」


 学生鞄を背負った足取りは重く、マフラーで半分埋まった口からはひっきりなしに白い息が出る。この日は特に気温が低く、学生服の上に厚手のコートを着た上からも肌を突き刺すような夜風が、確実に僕の体力を奪っていく。


 でも、こんな生活もいずれ終わりだ。受験が上手くいくかはどうかはまだ分からないけど、少なくとも後数ヶ月でこんなクソしんどい生活も終わる。そう考えると、疲れきった足取りも少しは軽くなってくる。


「――ふぅ……着いた着いた」


 ポケットに入れたスマホでアニソンを聞きながら、受験勉強が終わったら何をしようかと考えているうちに、僕は沿道沿いに建つ1軒のマンションに辿り着いた。此処の一室が僕の家で、父・母・妹の4人で暮らしている。


 玄関口のセキュリティーに暗証番号を入力し、他に人が入って来ないのを確認して、ロックが解除され扉を抜けてマンションの中に入る。日中、此処のエントランスには軽い暖房が入っているのだが、この時間帯ではとっくに切れて外と殆ど変わらない寒さになっている。


 エレベーターの呼び出しボタンを押し、かじかんだ両手に息を吹きかけてエレベーターが降りてくるのを待つ。仕事帰りの父はとっくにベッドへ入っているだろうし、中学生の妹もお眠だろう。家では母が僕の夕食を作って帰りを待っている筈だ。


 チーン、という軽やかな電子音と同時に降りてきたエレベーターのドアが開き、僕はもう少しで温かい家に帰れると浮足立ちながらその中に入る。そしてすぐさま、地下1階から10階までのうち8階のボタンを押した。


 がらんがらん、と重い音を立ててガラス窓のついたドアが完全に閉まる。密閉空間に加え外気から遮断されたことで、エレベーターの中はそこそこ温かく、狭い空間に1人となった僕は気の抜けた大きな溜め息を吐いた。


「こういう時、此処のエレベーターの遅さってイライラするんだよなぁ」


 もう慣れたことではあるが、この古いエレベーターの速さはかなり遅い。8階ともなれば2分はかかるだろう。まぁ、流石にこの疲労で階段を昇る気にはなれない。アニソンでも聞きつつ気長に待つとしよう。


 昔ながらの重苦しい高めの駆動音と共に、僕を乗せたエレベーターはゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていき――


 チーン


「え?」


 上部の電光表示が2階を示したところで動きを止めた。誰かが外からエレベーターを呼び停めたのだ。こんな遅い時間に人が乗ってくるとは珍しい。一体誰だろうとドアが開いた先には……不思議なことに、誰も居なかった。


「うぅ、寒……どうなってるんだ?」


 廊下から流れてきて、ドアから入り込む寒風が僕の体温を奪う。子供のいたずらか? いやでも、子供が出歩くにはもう遅過ぎる時間……考えても仕方ない。エレベーターの不具合と片付けて、僕が閉じるボタンを押した――その直後、


「うっ……!!」


 心臓が飛び出るかと思った。恐怖のあまりくぐもった声しか出なかった。何故なら、エレベーターホールから伸びる右廊下、僕の視界の右端から……不気味な格好をした人が音もなく現れたからだ。


 細い体つきからして女性だろう。この真冬だというのに夏服のような半袖の白いワンピース、顔がすっかり隠れてしまう程の背中まで伸びた黒髪。何と靴は履いていない。あまり詳しくは無いが……有り体に言えば、テレビから這い出てくるあの某怪異と酷似した姿だった。


「……」


 女性はまるで興味なしと僕の前をおぼつかない足取りで通り過ぎ、固まった僕が声をかける間もなく、外と中を結ぶドアが閉まっていく。一瞬の視界不良の後、ドアが完全に閉まる頃には、ガラス窓から覗く先に女性の姿は既になかった。


 そして、何事もなかったかのようにエレベーターは稼働を再開した。


「な、何だったんだ、あの人は……」


 初対面の女性に不気味などという印象を持ってしまったのは大変失礼だとは思うけど、そう思われても仕方の無い格好だったと思う。だって、明らかにおかしいだろう。


 このマンションに住み始めて約10年。あんな奇妙な住人が居れば、直ぐに周囲へ知れ渡る筈だ。だが、これまでそんな話など聞いたことが無い。最近引っ越して来た人なのだろうか。それでもヤバい格好だと思うけど。


「見たくもないモノを見てしまった気分だ……」


 この寒さの中でも嫌な汗が流れるのを感じつつ、僕を乗せたエレベーターはゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていき――


 チーン


「また、止まった……?」


 電光表示が3階を示したところで動きを止めた。軽い重力が頭にのしかかり、重い音を立ててドアが開いたその先には……また誰も居ない。2階と同じような造りの狭いエレベーターホールがあるだけだ。図ったように吹き込む寒風が実に嫌らしい。


「マジで何なんだよ!?」


 いたずらにしては質が悪過ぎる。しかも今度はどういう訳か、1階で押した階数ボタンの光も消えていた。こうなれば、いよいよ本格的にエレベーターの故障を疑うところだ。


「ったく……」


 一刻も早く帰りたいという思いで苛立ちはするが、階段を上る気力なんて無い。仕方なく、僕はもう一度8階のボタンを押した。すると、ドアは素直に閉まっていき――完全に閉まりきる直前、


「げっ!?」


 今度は恐怖よりも驚きが勝り、大きな声が出てしまった。つい先程の光景を思い出すような状況、右側廊下から音もなくエレベーターホールに現れた人影――それは、2階で僕の目の前を通り過ぎた謎の女性だった。


 痩せ細った華奢な体つき、季節感をガン無視した白いワンピース、顔が全部隠れるほどに伸びきった黒髪……やはり不気味という言葉以外にこの女性を表す言葉はなかった。本当に〇子みたいだ。


 さっきよりも早いタイミングでドアが閉じられたので、多分僕の間抜けな声は聞こえなかっただろう。女性の姿が左側廊下に消えていったのを最後に、僕を乗せたエレベーターはゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていく。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 何故だろう。あの女性を見てると変な動悸がするようになってきた。常識の外にある冒涜的存在を見た者は、きっとこういう気分なのだろう。普段は意識すらしなかった自身の正気がガリガリと削られていくのを感じる。


「はぁ、はぁ……もう会わない、よな?」


 ちょっと止まって心を落ち着けたいという僕の思いとは無関係に、鉄の箱は上の階へと昇っていき――


 チーン――まぁ、悪い予感とは往々にして当たるというべきか。それが当たり前であるかのように4階で停まったエレベーターは、それを望んだ者も居ないというのに無人のエレベーターホールでドアを開く。またボタンの光が消えた。


「やっぱりかよ!!」


 早く帰りたいが故に、僕はさっきよりも早く飛びつくようにして8階のボタンを押した。それに応じて閉じていくドア。そして……再三音もなく現れ、僕の前を通り過ぎていく謎の女性。今までとまったく同じ構図だった。


 女性は相変わらず僕に興味を示すことなく廊下の角に消えていき、僕らを隔てるドアが閉まっていく。この至近距離で何度も会っておきながら、僕らは一言も交わさないまま、エレベーターはゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていき――


 チーン――やはりエレベーターは5階で停まった。心なしか、ドアが開いた先のホールに灯る電気は下の階と比べても暗く、ホールを支配する不気味な薄暗闇が、明るいエレベーターの中とは対照的な空間を生み出していた。


「クソッ!!」


 もう何が何だか分からない。頼むから言う事を聞いてくれ。僕はただ早く帰りたいだけだというのに、何故こうして悉く僕の邪魔をするのか。この苛立ちをぶつけるモノが無い事に舌打ちし、僕はすぐさま8階のボタンを荒っぽく押した。


 異常だらけなエレベーターだが、このボタンだけはちゃんと言う事を聞いてくれる。ドアが閉まる直前――やはり現れた、〇子風味な謎の女性。ホールの薄暗さも相まって、殊更不気味な雰囲気を放っている。


 こうまで何度も出くわすと、とても偶然とは思えない。作為的に僕を追い立てているのかと思ってしまう。だが、それを確かめようにも、既にドアは閉まりきった後だった。そして、僕を乗せたエレベーターはゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていき――


 チーン――最早、何も言うまい。エレベーターが停まった先に広がる6階のホールは、5階と比べても明らかに暗かった。天井の電灯はかなりの頻度で明滅を繰り返し、ホール内が一瞬、完全な暗闇に包まれる時がある。


 ドアを開けたまま、さっきよりも数段寒くなった風に晒されながら僕が暫く待つこと10秒――ほら来た。漆黒が尾を引く純白の装い、真っ暗闇の中からまた謎の女性が音もなく現れた。


 電灯が明滅する廊下に立つ〇子風味の女性……本当にホラー映画のワンシーンのようだ。


「おい! さっきから何なんだアンタは!? 何がしたいんだ!?」


 とうとう不快感に耐えきれなくなった僕は、女性に向けて怒声を浴びせた。だが、女性は僕の声がまるで聞こえていないかのように、まったく反応を示すことなく左側の廊下へと消えていった。


「お、おい! ……ったく、マジで何なんだ……」


 声が聞こえていないというより、女性には僕の姿そのものが見えていないのかもしれない。だったら、肩を掴んだりしてでも女性に僕の存在を認識させるしかない。


 どうせ次の階でも出くわすのだろう。そんな予感があった。次の階でこそ、あんなふざけた真似をやっている理由を問い詰めてやると、僕は怒気と苛立ちを込めて8階のボタンを力強く押した。


 ……エレベーターが次の階へと昇っている最中、僕はふと思った。そうだ、何故今まで思いつかなかったのだろう。エレベーターを途中の階で止めるなんて真似、小学生のクソガキくらいしかやらないものだと思っていた。


「もしかして、このエレベーターの異常も、全てあの人がやってるんじゃ……」


 僕を心から怖がらせようという魂胆なのか。わざわざ廊下の明かりを消してエレベーターを途中で停め、不気味な格好で僕の前に現れる。何とも律儀な事だ。とはいえ、これ以上は付き合ってやる道理も無い。


 それが事実にせよそうでないにせよ、あんな怪しい人を放置しておくのもマンションの住人として見過ごせない。それに、もし僕の目的地である8階でも出くわしてしまったら、女性にどんな反応をすれば良いのか分からなくなる。


 よし。今まで起こった事の是非を確かめるためにも、後顧の憂いを断つためにも、今度こそエレベーターがら降りて女性に声をかけてみよう。そう決意する僕を乗せたエレベーターは、ゆっくりと上へ上へ徐々に昇っていき――


 チーン――言うまでもなく、ボタンを押した訳でもないのにエレベーターは7階で停まった。立ち止まっている暇は無い。こうなったら、女性がまたホールを通る前に先回りしてしまおう。


「行くぞ――ッ!?」


 ドアが完全に開いた瞬間、僕はホール内に踏み出そうとして……直後、足が止まった。目の前の、ドアの先に広がる景色が、明らかにおかしかったからだ。


「ど、どうなってるんだ?」


 はたして、7階はこんな構造をしていただろうか。エレベーターホールの造り自体は変わっていない。だが、ホールから廊下までは、不自然な長い通路が一直線に伸びており、通路の奥は視認出来るかというぐらいやけに暗い。というか真っ暗だ。


 廊下の電灯が一つもついていない。停電……いや、動作に異常はあるけど、エレベーターはきっちり稼働しているようだし、中は場違いなように明るい。今までの階を見てきた限りでも、停電とは考えられない。この7階だけが際立って暗いのだ。 


 風が吹いている訳でも無いのに、エレベーター内へ流れる寒気は凍えるように冷たく、気温がさらに2、3、度下がったような感覚だ。このあまりに異常で不気味な階層を無視し、僕は大人しく8階に昇ろうとする――その時。


「……!」


 居た。真っ暗闇で大まかな輪郭しか見えなかったが、長い通路の奥に伸びる廊下を、確かに白い人影が横切るのが見えた。間違いない、あの女性だ。


 マンションの構造が変わるなどいくら何でも出来過ぎだ。そして、やはりあの人は何かを知っている。女性へ接触するのに躍起になっていた僕は、ホールどころかマンションそのものの異変をそこまで気に留める間もなく、


「ちょ、ちょっと待てよ!!」


 初めて僕は、停まり続けるエレベーターから降りた。エレベーターから降りると不思議と体は軽くなり、廊下に消えていった女性を走って追いかける。だが、


「……は?」


 左の角を曲がった先に――女性の姿は何処にもなかった。それだけではない。


 エレベーターホールから廊下に出れば、其処からは住人の部屋がずらりと並んでいる筈なのだが、一直線に伸びる廊下には明かりが、生活の温かい光がまったくない。あるのは等間隔で明滅を繰り返す天井の暗い電灯だけだ。


「何なんだマジで……もう知らんわ!!」


 さっきから意味不明な事ばっかりだ。もうやっていられない。ああいう手合いの相手をしていても無意味だっていうのは、こういう事を指すのだろう。怒りを通り越して呆れ返った「僕」は、踵を返してエレベーターに戻ろうとするが、


「あれ? ドアが閉まってる……」


 階層ボタンを押さなければ閉じなかったこのドアは、本来なら時間経過で自動的に閉じる仕様だった筈だ。このタイミングで不具合が直ったのだろうか。


「ん?」


 ふと、「僕」は自分がエレベーターに違和感を覚えた。外見に大きな変化は特に見られない。ただ、そこにあるべき大事な物が無いような……そして、意外にもそれは早く見つかった。


「ボタンが、無い!?」


 この階のエレベーターには、上下の階を指す2つの呼び出しボタンがなかったのだ。壊れているとかそういうのではなく、初めから機能としてボタンなんて物がなかったように、影も形もなかった。


「修理中? いやいや、流石におかしいだろ。そんな話聞いてないし、ボタンが無いなんて事があるのか……?」


 この階に来るまでおかしな事だらけだったが、いまいち言葉で説明出来ないような曖昧なものだった。けど、これは違う。現在進行形で「僕」に降りかかっている異変が、遂に明確な形として現れた。


 ――思い返せば、もっと早く気付くべきだったのかもしれない。ここに至り「僕」は、自分が何らかの事件や怪奇現象に巻き込まれている事をようやく自覚した。 


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