パシン
頭上を覆う深紅の空。
大地に広がる暗緑色の森。
悠然と流れる血の大河。
ここは魔界。
魔のモノ達が住まう禁断の地。
その一角に聳える峨々たる岩山の頂には、白亜の城が築かれている。
その城の中では……
「よし。筋肉痛も治ったから、今日も元気に引きこもるぞ」
漆黒の服を身に纏った青年が、ダイニングチェアに腰掛け、両腕を伸ばして伸びをしていた。
赤銅色の長い髪。
陶器のようにきめの整った白い肌。
赤銅色の虹彩を持つ憂いを帯びた目。
側頭部から伸びる堅牢な角。
彼は魔王。
引きこもり体質の人見知りではあるが、魔のモノ達を統べる王だ。
魔王が上機嫌でいると、ダイニングテーブルを挟んだ向かいの席から、小さなため息が聞こえた。
「兄貴、今日は午後から、次のトビウオの夜に向けて、各地の領主と会議があるんだろ?」
ため息と声の主は、レースの襟をしたシャツに蝶ネクタイを締め、サスペンダーつきのバミューダパンツをはいた仔猫だった。
艶のあるサバトラ模様をしたフカフカの毛並み。
内側がほんのりとピンク色に染まった三角形の大きな耳。
空色の虹彩を持つアーモンド型の大きな目。
ピンク色の小さな鼻。
ピアノ線のようなヒゲが生えたフカフカの白い口元。
彼はシーマ十四世殿下。
キューティーでマジカルな仔猫ちゃんではあるが、魔王の補佐を務める優秀な王弟殿下だ。
シーマに尋ねられた魔王は、げんなりとした表情を浮かべて肩を落とした。
「そうなんだよな……皆、突拍子もないこと言い出すわけでもないんだから、決定事項を書面とかで事後報告してくれればいいのに」
魔王はそう言うと、深いため息を吐いた。そして、どこか遠い目をして、儚げな笑みを浮かべた。
「いっそのこと、バッタ仮面で会議に参加しちゃおうかな……」
魔王が力なく呟くと、シーマはヒゲと尻尾をダラリと垂らした。
「たのむから、これ以上魔界の重鎮達をバッタ仮面に巻き込むのはやめてくれよ」
シーマが脱力しながら釘を刺すと、魔王は意外そうな表情を浮かべた。
「なぜだ?ハーゲンティ局長も、ナベリウス館長も、喜んで協力してくれたぞ?」
魔王の問いかけに、シーマは片耳をパタパタと動かして気まずそうな表情を浮かべた。
「いや……何というか、登場されたときの脱力感が、半端じゃないんだよ。まあ、モロコシとかが側にいるときは、喜んでもらえるから、いいのかもしれないけれども……」
シーマの答えに、魔王は、そうか、と小さな声で呟いた。すると、キッチンスペースの方向から、ガラガラという音が近づいて来た。
「あれまぁよ、ヤギさんや。バッタ仮面さん、辞めちまうのかい?折角、格好良かったのにねぇ」
シーマと魔王が顔を向けると、クラシカルなメイド服を来た老女が、朝食を載せたワゴンを押して残念そうな表情を浮かべていた。
パーマのかかった白髪頭。
時代の流れを見つめ続けてきた黒く円らな目。
これまでの人生経験が刻んだ目元と口元の笑いじわ。
彼女は森山はつ江。
御年八十八ではあるが、元気いっぱいのハツラツ婆さんだ。
はつ江に声をかけられた魔王は、目を輝かせながらシーマに顔を向けた。
「ほら、シーマ。はつ江も、ああ言っていることだし」
嬉しそうな表情を浮かべる魔王に対して、シーマは尻尾の先をピコピコと動かした。
「まあ、はつ江がそう言うなら……でも、嫌がってるようだったら、無理に巻き込むなよ?」
シーマが渋々そう言うと、魔王は凜々しい表情で、分かった、と答えた。はつ江は二人のやり取りを見ると、ニッコリと笑って、コクコクと二回頷いた。
「正義の味方が辞めないでくれてよかっただぁよ!じゃあ、朝ご飯にしようかね」
はつ江の言葉に、シーマと魔王は声を合わせて、はーい、と返事をした。
そうして、一同は朝食を開始し、暫くは黙々と食事を進めていた。しかし、魔王が不意に、卵焼きを切る箸を止めてシーマに顔を向けた。
「そうだ、シーマ。昨日、魔界直翅目学会の会長からお礼の連絡があったぞ」
魔王に声をかけられたシーマは、納豆をかき混ぜる手を止めて顔を上げた。
「魔界直翅目学会の会長から?急に、なんでだ?」
シーマが尻尾の先をクニャリと曲げて尋ねると、魔王は薄く微笑んだ。
「なんでも、ウスベニクジャクバッタの画像に、とてつもなく感動したらしい。近いうちに、お礼の品を贈ってくれるそうだ。よかったな、シーマ」
「よかっただぁね!シマちゃん!学者さん達のお手伝いもできるなんて、お利口さんだねぇ」
魔王の答えに続いて、はつ江も大根の味噌汁が入った椀を手にして、ニコニコとしながらシーマに声をかけた。するとシーマは、尻尾をピンと立てながら、ふいっと顔を横に向けた。
「べ、別に、ちょっと画像を送ったくらいだし、大したことはしてないんだからな!」
シーマが分かりやすく照れ隠しをしていると、魔王は、ふぅむ、と声を漏らした。
「だが、シーマ、ウスベニクジャクバッタは、目撃数も僅かしかない珍しいバッタだからな。魔界直翅目学会は最新の画像が手に入ったうえに、ナベリウス館長が飼育していることまで分かって、狂喜乱舞しているらしいぞ」
「ほうほう、そうなのかい。そんなら、今日も珍しいバッタさんに会えるといいねぇ」
魔王の言葉に、はつ江がシミジミと声を漏らした。すると、シーマは尻尾の先をピコピコと動かしながら、眉間に浅くしわを寄せた。
「うーん、でも、今日の仕事は、バッタにあんまり関係ない仕事だからなぁ……」
シーマの言葉を受けて、はつ江はキョトンとした表情で首を傾げた。
「そうなのかい?じゃあ、今日のお仕事は、どんなお手伝いなんだい?」
はつ江が尋ねると、シーマは片耳をパタパタと動かして、えーと、と声を漏らした。
「今日の仕事は、森の中にある廃屋の幽霊をどうにかして欲しい、っていう依頼だな」
シーマが答えると、はつ江は目を見開いた。
「あれまぁよ!こっちには、お化けが出るのかい!?」
はつ江が驚きながら尋ねると、シーマはコクリと頷いた。
「ああ。普通は亡くなった人の魂は空に昇って、トビウオの夜に別の世界に運ばれていくんだけど、たまに魂だけになっても、こっちに残り続けちゃう人もいるんだよ」
「まあ、それでも構わないんだが……肉体がないのに魂だけ残ってしまうと、色々と問題があったりするからな」
シーマの説明に魔王が言葉を続けると、はつ江は、ほうほう、と言いながら感心した表情で頷いた。しかし、すぐにハッとした表情を浮かべると、隣に座るシーマを見つめた。
「ん?どうしたんだ?はつ江」
シーマがキョトンとした表情で尋ねると、はつ江は心配そうな表情を浮かべた。
「シマちゃんや、お化けは怖くないのかね?」
はつ江がそう尋ねると、シーマは耳を後ろに反らして、尻尾をパシンと大きく縦に振った。
「怖くなんかない!子供扱いするなって、いつも言ってるだろ!」
シーマは鼻の下を膨らませて、尻尾をパシパシと振りながら抗議した。すると、はつ江はカラカラと笑いながら、シーマの頭をポフポフとなでた。
「わはははは!悪かっただぁね、シマちゃん!」
はつ江の言葉に、シーマは、もー、と呟いて、尻尾をゆらゆらと横に振った。二人のやり取りを見た魔王は、うむ、と呟くと、コクリと頷いた。
「シーマも昔は、幽霊が出てくる絵本を読む度に、私やリッチーのズボンの裾にしがみついて離れなかったし、一人じゃ眠れなくなってベッドに潜り込んできたりもした。しかし、今は、ちょっと淋しいが、そんなこともないからな。だから、はつ江も安心してくれ」
魔王が自信に満ちた表情でそう言うと、シーマは再び尻尾をパシンと縦に大きく振った。
「む、昔のことをバラすなよ!この、バカ兄貴!」
シーマに大声で叱られた魔王は、ビクッと身を震わせた。そして、シュンとした表情を浮かべて、ガックリと肩を落とした。
「そうか……シーマ、すまなかった」
意気消沈の魔王の姿を見て、シーマは、気をつけろよ、と口にしてそっぽを向いた。すると、はつ江は、シーマの頭をポフポフとなでた。
「シマちゃんが怖くないなら、よかっただぁよ!シマちゃんと一緒なら、お化け屋敷でも安心だぁね!」
はつ江がカラカラと笑いながらそう言うと、シーマは耳と尻尾をピンと立てながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「べ、別にはつ江が怖いようだったら、手ぐらいは繋いでてやるから安心しろよ!」
そう言うシーマの尻尾は、心なしかいつもより毛羽立っているように見えた。はつ江はシーマの尻尾に目を向けると、ニッコリと笑って再びポフポフと頭をなでた。
「そうかい、それはありがたいだぁよ。じゃあ、シマちゃん、今日は手を握ってておくれ」
はつ江の言葉に、シーマは得意げな表情で、フフンと鼻を鳴らした。
「ああ!任せておけ!ボクと一緒なら、幽霊なんて全然怖くないんだからな!」
シーマは自信たっぷりにそう言い放ったが、尻尾は相変わらずかすかに毛羽立っていた。魔王は心配そうにシーマを見つめていたが、はたと何かを思い着いた表情を浮かべた。
「二人とも安心してくれ、魔界ではな……」
魔王がそこで言葉を止めると、シーマとはつ江はキョトンとした表情を向けた。すると、魔王は不敵な笑みを浮かべてから、口を開き……
「幽霊が、実はもの凄くいい奴だった、と言う例も、多数報告されているからな!」
胸元で端を握りしめて、高らかにそう叫んだ。
「……」
「……」
「……」
途端に、三人の元に気まずい沈黙が訪れる。
「まあ、その、なんだ……元気づけてくれて、ありがとうな、兄貴」
沈黙を打ち破ったのは、ヒゲと尻尾をダラリと垂らした、シーマの力ない声だった。
「いや……何かすまなかったな……」
シーマの言葉を受けて、魔王はポツリとそう言うと、頬を赤らめてうつむいてしまった。
「わははは!ヤギさんの洒落のおかげで、お化けなんて全然怖くなくなっちまっただぁよ!」
うつむく魔王に対して、はつ江はカラカラと笑いながらフォローを入れた。すると、魔王はうつむいたまま、そうか、と力なく呟いた。
かくして、若干気まずい空気が漂いながらも、仔猫殿下とはつ江ばあさんのお化け退治大作戦が幕を開けるのだった。




