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仔猫殿下と、はつ江ばあさん  作者: 鯨井イルカ
第一章 シマシマな日常
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フーン

 湖のほとりに位置する魔界水道局中央本部の応接室にて、シーマ14世殿下とはつ江ばあさんは、本日の依頼について説明を受けていた。しかし、依頼主の魔界水道局中央本部局長を務める有翼の雌牛ハーゲンティと、その部下のお下げ頭の河童緑川蘭子が、なにやらイザコザを始めてしまった。


「局長!急にそんなことおっしゃいましても、困ります!」


 慌てた表情で声を荒げる蘭子に対して、ハーゲンティは動じることなく湯飲みを手に取り、緑茶を一口飲んだ。


「あら、どうしてかしら?蘭子」


「えーと……その……」


 ゆったりとした口調でハーゲンティが尋ねると、蘭子は口ごもった。しかし、ハーゲンティは微笑みを浮かべて蘭子を見つめたまま、視線を動かそうとしない。

 それからしばらくの間を置いて、蘭子は観念したように小さくため息を漏らした。


「……魔王城のキューティーマジカル仔猫ちゃんの異名を持つ殿下と、異界からのお客様とご一緒だなんて、私には荷が勝ちすぎています。もしも、何か失礼があったらと思うと、恐ろしくて……」


 うな垂れながら答える蘭子の言葉に、温かい麦茶を飲んでいたシーマは思わずむせ返りそうになった。しかし、何とか堪えると、片耳をパタパタと動かして脱力した表情を浮かべた。


「その異名、やっぱり広がってるんだな……」


 落胆するシーマの隣で、緑茶の入った湯飲みを手にしたはつ江がカラカラと笑った。


「わははは、シマちゃんは可愛いんだからねぇ!」


「別に可愛くない!」


 シーマは耳を反らせてムッとした表情を浮かべ、はつ江の言葉を否定した。そして、湯飲みに入った麦茶をフーフーと吹いて冷ましてから、一口飲み込んだ。


「ともかく、ボク達は全く構わないぞ。むしろ、水道局の依頼ははじめてだから、局員が一緒に来てくれた方が助かる」


 シーマが蘭子にそう告げると、隣ではつ江もニッコリと笑いながら頷いた。


「カッパさんと一緒にお仕事ができるなんて、返ったらひ孫に自慢できるだぁよ!」


 しかし、蘭子はたじたじとしながら、でも、と呟いて俯いてしまった。

 ハーゲンティはそんな蘭子に向かって、うふふ、と笑いかけると、頭の皿に触らないように注意しながら、後頭部を優しく撫でた。


「ほら、お二人もああおっしゃっているのだから、自信を持ちなさい、蘭子。貴女は、いつもよくやっているのだからね」


「局長……ありがとうございます。そうおっしゃっていただけるなら、私、頑張ります……」


 ハーゲンティが穏やかな笑顔で優しく語りかけると、蘭子は目を潤ませながら小さく頷いた。その様子を見て、シーマとはつ江も安心したように微笑んだ。しかし……


「それに、今日の調査で人手が足りないのは……貴女が先週の飲み会で、水源管理科の面々を何人か病院送りにしたからなんですから」


 ハーゲンティが笑顔を崩さずそう言うと、隣に座った蘭子はショックを受けた表情で固まり、向かいの席に座ったシーマとはつ江は目を見開いた。


「あれまぁよ!?」


「ほ……本当なのか……?」


 はつ江が目を丸くして驚き、シーマが耳を伏せて警戒しながら声を掛けると、蘭子は胸元で手を振りながら首を左右にブンブンと振った。


「ち、違いま……いえ、確かに事実ですが!あ、あれには、訳があったんです!!」


 慌てふためく蘭子の様子を見て、隣に座ったハーゲンティは口元に指を当てて、うふふ、と穏やかに笑った。


「そうね。あれは、相手の方にも非があったし、本当に久しぶりに痛快な立ち回りを見られたから、楽しかったわ。だから、正式な処分は下さなかったけど、仕事の穴は埋めてもらわないとね?」


 ハーゲンティの言葉に、蘭子はうな垂れながら、はい、と小さく返事をした。


「えーと……じゃあ、よろしく頼むよ。緑川さん」


「今日はよろしくね!蘭子ちゃん!」


 耳を伏せがちにしたシーマがペコリとお辞儀をし、はつ江がニッコリと笑いかけると、蘭子もペコリと頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします……」


 ハーゲンティは三人の様子を見て、うふふ、と笑うと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


「では、私は水質調査に必要なものを持ってまいりますわ。蘭子、説明資料はそこにあるから、お二人に調査の内容をご説明して差し上げて」


「は、はい!かしこまりました!」


 緊張した面持ちで返事をする蘭子に向かって、おねがいね、と声を掛けて、ハーゲンティは応接室を後にした。

ハーゲンティが応接室の扉をしめると、蘭子はコホンと咳払いをしてからお辞儀をし、紫檀のテーブルに置かれた資料を手に取った。


「では、僭越ではございますが、私がご説明いたします。まず、お手元の資料の8ページ目をお開き下さい」


 蘭子の言葉を受け、シーマとはつ江は資料を手に取り、指示されたページを開いた。

 それから、蘭子は水質調査の調査項目、調査方法、記録の残し方について資料を元に説明した。シーマとはつ江は、ふんふん、と頷きながら、資料に目を通した。


「……以上が、水質調査の説明です。機材および薬品の使用方法は、現地に着いたらご説明いたします。なお、今回は井戸の調査ですので、水質の項目の他に、水位と水量についても調査いたします」


 一通りの説明を終えると、蘭子はペコリと頭を下げた。


「では、ご質問等があれば、どうぞ」


 一呼吸置いてから問いかける蘭子に向かって、シーマがフカフカの手を軽く挙げて、資料から顔を上げた。


「では、殿下、何なりとどうぞ」

 

 蘭子が再び頭を下げると、シーマはコクリと頷いてから口を開いた。


「緑川さんのおかげで、調査の内容は大体分かったよ。でも、たしか、井戸の管理は水道局じゃなくて、井戸がある土地の所有者が行うんじゃなかったっけ?」


 片耳をパタパタと動かしながら首を傾げるシーマに向かって、蘭子はコクリと頷いた。


「はい。原則的には、殿下のおっしゃるとおりです。しかしながら、井戸に水質汚染や水位の変化があると、水道局で管理している近くの水源にも何らかの影響が出る可能性が高いため、半年に一度、定期的な調査を行なっております」


「ふーん。そうだったんだ……緑川さん達も、頑張っているんだな」


「本当だぁねぇ」


 シーマとはつ江が感心したように声を掛けると、蘭子は目を反らして頬を赤らめた。


「そ、そんな!滅相もございません!魔界の水源を管理し、人々の安全を守るのは当然のことですから!」


 照れる蘭子に向かって、シーマは誇らしげな表情を向けた。


「そんなに謙遜することないぞ!水道局にそう言った信念を持った局員がいるのは、魔王一族にとっても喜ばしいことなんだからな!」


「そうだぁよ!蘭子ちゃんは立派だぁよ!」


 シーマとはつ江の言葉に、蘭子はしどろもどろになりながら、ありがとうございます、と呟いて顔を伏せた。

その様子をニコニコと眺めていたはつ江だったが、不意に何かに気づいた表情を浮かべた。そして、皺と血管がめだつ手を勢いよく高々と挙げた。


「はーい!」


「はい、森山様。何なりとどうぞ」


 蘭子が声を掛けると、はつ江はニッコリと笑顔を浮かべた。しかし、次の瞬間いつになく真剣な表情になったため、シーマと蘭子は息を飲んだ。


「蘭子ちゃんや」


「は、はい。何でしょうか?」


 声を掛けられた蘭子がたじろいでいると、はつ江は息をすぅっと吸い込んでから口を開いた。


「やっぱり、カッパさんはキュウリが好きなのかね?」


「……」

「……」


 一同の間には、気まずい沈黙が訪れた。


「いきなり、何の話をしてるんだよ!?」


 沈黙を打ち破ったのは、シーマの抗議の叫びだった。耳を反らして尻尾をパシパシと縦に振るシーマに向かって、はつ江は頭を掻きながら、カラカラと笑った。


「わははは、悪かっただぁね。ただ、どうしても気になっちまってよぅ」


 二人のやり取りをキョトンとしながら眺めていた蘭子だったが、気まずそうに、えーと、と呟くと言葉を続けた。


「そうですね……私達河童族は水分が多い野菜や果物が好きなので、キュウリは好きですね。あと、私個人としてはドラゴンフルーツなんかも好きです」


「ほうほう、そうなのかい!蘭子ちゃんはハイカラさんだねぇ!」


 カラカラと笑うはつ江に向かって、シーマが脱力した表情を向け、蘭子が苦笑していると、応接室のドアがコンコンとノックされた。三人が顔を向けると、調査キットと記録用端末を手にしたハーゲンティが、微笑みを浮かべながら部屋の中に脚を勧めた。


「お二人とも、調査道具をお持ちいたしましたわ。蘭子、ご説明は終わったかしら?」


 ハーゲンティが首を傾げると、蘭子は椅子から立ち上がって頭を下げた。


「は、はい!つたないながらも、ご説明は完了いたしました!」


「ああ。とっても、分かりやすい説明だったな」


「おかげで助かっただぁよ!」


 緊張する蘭子に二人が声を掛けると、ハーゲンティは、うふふ、と笑ってから席に着いた。


「そう言っていただけると、私も誇らしいですわ。さて、こちらが本日使用する道具です……たしか、森山様は陛下から、探索用のポシェットを預かっていらしたのですよね?」


 ハーゲンティが問いかけると、はつ江はニッコリと笑って頷いた。


「そうだぁよ!この道具をポシェットに入れれば良いんだね?」


「ええ、お願いいたしますわ」


 ハーゲンティが微笑むと、はつ江はポッシェットの口を開いて、テーブルの上に置かれた機材を指さした。


「くさめ、くさめ」


「はつ江、それはクシャミの後のおまじないだろ……」


 シーマがそう言って脱力しているうちに、調査道具一式はぐにゃりと細長く引き伸ばされ、シュルシュルと音を立てながらポシェットに吸い込まれていった。調査道具一式が収まると、はつ江はポシェットの口を閉じて、ポンポンと叩いた。

 ハーゲンティはその様子を見ると、うふふ、と笑って、テーブルに置かれた資料を手に取った。


「さて、これで準備は整いましたね。調査対象となる井戸の一覧は、こちらの資料の末尾に添付しておりますので、殿下の転移魔法でおいでになって下さいませ」


 ハーゲンティの言葉に、シーマはコクリと頷いた。


「はい、分かりました。じゃあ、二人とも、今日はよろしくな!」


「頑張るだぁよ!」


「お、及ばずながら、尽力いたします!」


 シーマの呼びかけに対して、はつ江と蘭子は力強く返事をした。

 そして、三人揃って椅子から立ち上がると、ハーゲンティに一礼して、応接室を後にしたのだった。

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