ポーン
魔王城の玄関先で、襟と袖にフリルのついたシャツを着てサスペンダーつきの黒いバミューダパンツを穿いたサバトラ模様の仔猫が、猫耳のついた長方形の板を覗き込んでいた。
彼の名は、シーマ14世。
魔界を統べる王の弟にして、補佐役を務める魔王城のキューティマジカル仔猫ちゃんだ。
「えーと、これで受注の手続きはできてる……よな?」
片耳をパタパタと動かしながら尻尾の先をピコピコと動かしてシーマが呟くと、隣でクラシカルなメイド服に身を包み白いポシェットを肩に掛けた老女が、ニコニコと微笑んで板の右端を指さした。
彼女の名は、森山はつ江。
シーマ14世殿下の世話役として、魔界に召喚された米寿のハツラツ婆さんだ。
「大丈夫だぁよ、シマちゃん。ここにお星様の模様がつけば手続きができてるって、さっきヤギさんが言ってただぁよ」
はつ江がそう言うと、二人の背後で赤銅色の長髪と側頭部から生えた堅牢な角が特徴的な、黒尽くめの格好をした青年がゆっくりと頷いた。
彼こそが、魔界を統べる王。
引きこもり気質の、人見知り名君だ。
「うむ。これで、依頼主のところには受注完了の連絡が届いている。念のため、さっき連絡を入れてみたが、はつ江が一緒に来ることも含めて、全く問題ないと言われたからな」
魔王の言葉に、シーマはアーモンド型の目を大きく見開いて驚いた。
「兄貴が、自ら誰かに連絡を入れたのか!?」
大袈裟に驚くシーマに対して、魔王はしょげた表情を浮かべて肩をすぼめた。
「そんなに驚かなくても良いじゃないか……まあ、あの人は結構昔からの知り合いだから、そこまで気を張らずに話ができるんだ」
魔王の回答に対して、シーマは尻尾の先をピコピコと動かしながら、ふーん、と呟いた。すると、はつ江がキョトンとした表情を浮かべて、首を傾げた。
「ところでシマちゃん、今日はどこのお手伝いをするんだい?」
「ああ、今日は水道局からの依頼を受けたんだ。先週、局員が怪我しちゃったから、人手が足りなくなったらしくて」
シーマが答えると、はつ江は頷きながら、ほうほう、と相槌を打った。そして、シーマはムニャムニャと呪文を唱えて、両手を前に突き出した。すると、そこには白く輝く扉が現れた。
「詳しい仕事内容は、向こうに着いてから説明があるらしいぞ」
シーマが言葉を続けると、はつ江はニッコリと笑って、分かっただぁよ!、と元気よく返事をした。その後ろで、魔王が腕を組んで、うんうんと頷いた。
「あそこの局長には昔色々とお世話になったから、向こうに着いたらよろしく言っておいてくれ」
魔王がそう告げると、シーマは再び目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。
「兄貴が……まともな大人っぽい発言をしているだと……!?」
「……そこまで、驚愕しなくても良いじゃないか……」
再びしょげた表情をして肩をすぼめる魔王に対して、はつ江がカラカラと笑って声を掛ける。
「まあまあヤギさんや、そんなに落ち込まないでおくれ!局長さんには、よろしく言っておくだぁよ!」
はつ江の励ましに対して、魔王は、ありがとう、と呟くと、小さく咳払いをした。
「では、二人とも。気をつけて行ってくるのだぞ」
魔王が凜々しい表情でそう告げると、二人は同時にコクリと頷いた。
「ああ。行ってくる!」
「行ってきます!お昼ご飯は冷蔵庫に入れておいたから、温めてたべるといいだぁよ!」
二人はそう言って魔王に手を振ると、魔法でできた扉を開け、中へと進んでいく。扉が閉まると、辺りには強い光が満ちあふれた。光が収まった頃には、扉は跡形もなく消えていた。
魔王はその様子を確認すると、無言で頷いてから指をパチリと鳴らし、赤い霧となってどこかへ消えていった。
魔王城の玄関先を後にしたシーマとはつ江は、魔王城から十数里離れた場所にある湖のほとりに移動していた。
二人の目の前には、赤レンガで作られた三階建ての建物が聳え立っている。
「ほうほう、これが魔界の水道局なのかね」
感心した様子で呟くはつ江に対して、シーマはコクリと頷いた。
「ああ。水道局は地方ごとにいくつかあるんだけど、ここは魔界中央部の水道関係を管理してるんだ!」
シーマはそう言うと、耳と尻尾をピンと立て、得意げな表情をしながら、ふふん、と鼻を鳴らした。はつ江はその様子を見ると、ニッコリと笑ってシーマの耳の付け根をフカフカと撫でた。
「そんな所のお手伝いができるなんて、シマちゃんはお利口さんだねぇ」
シーマはしばらく目を細めて、喉をゴロゴロと鳴らしていた。しかし、不意に目を見開くと、耳を反らして尻尾を縦に大きく振った。
「もう!子供扱いするなっていってるだろ!」
鼻の下を膨らませて憤慨するシーマに対して、はつ江はカラカラと笑いかけた。
「わはははは、悪かっただぁよ!」
あまり反省していない様子のはつ江に対して、シーマは尻尾をパシパシと振りながら、もう、と小さく呟いた。そして、水道局正面玄関の扉の前まで歩みを進め、扉の横に設置された呼び鈴のスイッチを押した。
途端に、ポーン、という音が辺りに鳴り渡り、扉の上につけられたリンドウの花を模した拡声器から、ザザ、という雑音が聞こえてきた。
「おはようございます。魔界水道局中央本部でございます」
拡声器から落ち着いた女性の声が響くと、シーマは顔を上に向けて口を開いた。
「おはようございます。先日、ご依頼をいただいたシーマです」
シーマがそう告げると、拡声器からは、ガタッ、という音が響いた。
「シーマ殿下ですね!お待ちしておりました、ただいま局長を呼んでまいりますので、中へどうぞ」
拡声器からその言葉が響くとともに、正面玄関の扉が音を立てながらゆっくりと開いた。
シーマとはつ江は口をそろえて、お邪魔します、と言うと、ペコリと頭を下げて扉の中へ入っていった。
二人が建物の中へ入ると、入り口の正面に作られた両階段の踊り場に、灰色の作業着を着た人物が立っていた。
その人物は、全身が栗色の毛皮に覆われ、頭には先の尖った短い角と楕円形の耳、円らな黒い瞳が長い睫毛で縁取られた……
「あれまぁよ!随分と綺麗な牛さんだねぇ!」
……はつ江の言葉通り、雌牛の姿をしていた。ただし、一般的な牛とは違い、その背中には大きな白い翼が生えている。しかも、モデルと見紛うほどの、抜群のスタイルをしていた。
「こら、はつ江!いきなり失礼だろ!」
驚くはつ江をシーマが反らせてたしなめていると、羽の生えた雌牛は目を細めて、うふふ、と笑った。
「殿下、構いませんわよ。魔王陛下から、異界からのお客様もご一緒にいらっしゃると、うかがっておりますから」
雌牛はそう言うと、ゆったりとした足取りで階段を降り、二人の前で脚を止めた。
「初めまして、私は魔界水道局の局長を務めております、ハーゲンティと申しますわ。以後、お見知りおきを」
雌牛が微笑みながらそう言ってうやうやしく頭を下げると、はつ江もニッコリと笑った。
「初めまして!私は、森山はつ江だぁよ!よろしくね、はーげんちーさん!」
そして、元気よく自己紹介をすると、キビキビとした動きでお辞儀をした。
「お久しぶりです、ハーゲンティ局長。お元気そうで何よりです。本日は、よろしくお願いします。兄も、よろしく、と申していました」
シーマも気取った表情で挨拶をすると、ペコリと頭を下げた。ハーゲンティは二人の様子を見ると、再び目を細めて、うふふ、と笑った。
「殿下も森山様も、お元気そうで、今日はとても心強いですわ。では、本日の依頼をご説明いたしますので、こちらへどうぞ」
ハーゲンティはそう言うと、ひらりと身を翻して歩みを進めた。二人はほぼ同時に頷くと、ハーゲンティの後に続いて歩き出した。
二人が案内されたのは、水道局二階にある応接室だった。
「さあ、どうぞお掛けになってください」
ハーゲンティに促されて、二人は天鵞絨張りの肘掛け椅子に腰掛けた。二人が腰掛けたのを確認すると、ハーゲンティもゆっくりと椅子に腰掛け、紫檀のテーブルに置かれた資料を手に取った。シーマとはつ江も、彼女の動きに合わせて資料を手に取る。
「では、本日お願いしたいことの前に、私どもの仕事を簡単にご説明いたしますね」
そして、その言葉とともに、手にした資料をゆっくりとした手つきで開いた。
「当局では、水源の確保および水質調査、取水施設の建設および運営、浄水場および下水処理場の運営、上下水道の設置および整備など、魔界の民が使用する水に関する管理を一任されております」
ハーゲンティの説明を受け、はつ江も手にしていた資料を開きながら、ほうほう、と相槌を打って頷いた。
「本日お願いしたいお仕事と申しますのは、その中でも、水源の水質調査にかかわ……」
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
その時、ハーゲンティの言葉を遮るように、扉をノックする音と女性の声が響いた。三人が顔を向けると、扉がゆっくりと開き、灰色の作業着を着た女性が、茶托と湯飲みを載せた盆を手にして現れた。
その姿は、黄緑色の肌、頭頂部に艶のある白い皿が載った深緑色のおさげ頭、黒い円らな目と薄い黄色のクチバシ、背中には暗緑色の甲羅……
「あれまぁよ!?カッパさんじゃないかい!」
……はつ江の言葉通り、どこからどう見ても河童だった。
河童は、はつ江の大きな驚きの声を受けて、円らな目を見開いてビクッと身を震わせた。
「え!?あ、はい!い、いかにも、河童でございます!」
河童が取り乱していると、シーマは耳を伏せてため息を吐き、ハーゲンティは目を細めて、うふふ、と笑った。
「……驚かせてすみません」
シーマは取り乱す河童に向かって頭を下げると、はつ江に顔を向けた。
「はつ江、昨日も一昨日も結構色んな種族の人やら、ムラサキダンダラオオイナゴやら、ゴーレムやらに会ってたはずなのに、なんで河童族にはそんなに驚くんだよ?」
脱力しながらシーマが問いかけると、はつ江は目を輝かせながら答えた。
「だってようシマちゃん!私んとこじゃ、カッパさんは昔話やら絵本にも沢山登場する、凄い人気者なんだぁよ!」
「に、人気者、なんて……め、め、滅相もございません……」
はつ江の言葉を聞いた河童が頬を赤らめて俯くと、ハーゲンティは微笑みながら、あらあら、と呟いた。
「そうね。森山様のおっしゃる通り、河童族の中には異界に遊びに行ったり、治水技術について交流をしに行く子達も多いですわね」
ハーゲンティはそう言って、手にしていた資料を静かにテーブルの上に戻した。
「でも、貴女が来てくれて丁度良かったわ。お茶をお出ししたら、お二人に自己紹介をしてちょうだい?」
ハーゲンティが優しく問いかけると、河童はペコリと頭を下げ、テーブルの上に茶托を置いて茶碗を載せた。そして、ハーゲンティの隣の席に移動すると、シーマとはつ江に向かってペコリと頭を下げた。
「は、初めまして。私は、魔界水道局中央部水源管理科の緑川 蘭子と申します」
「私は森山はつ江だぁよ!よろしくね、蘭子ちゃん!」
蘭子の自己紹介を受け、はつ江もニッコリと笑ってから元気よく自己紹介をして、お辞儀をした。二人の様子を見て、ハーゲンティは、うふふ、笑ってから口を開いた。
「では、本題に戻りますが、本日は……」
ハーゲンティはそう言うと、湯飲みをゆっくりと持ち上げ、茶を一口飲んでから言葉を続けた。
「……こちらの蘭子と一緒に、魔界中央部における井戸の使用状況と、その水質調査をしていただきたいのです」
そして、穏やかな笑顔を浮かべて、仕事内容を口にした。
「え……え?えぇ!?きょ、局長、何をおっしゃっていらっしゃるのですか!?」
ハーゲンティの言葉に驚いたのは、シーマでもはつ江でもなく、部下であるはずの蘭子だった。
状況を把握しきれずにキョトンとするシーマとはつ江をよそに、蘭子は取り乱し、ハーゲンティは相変わらず、うふふ、と笑っている。
かくして、シーマ殿下とはつ江ばあさんの、水道局お手伝い大作戦が始まるのだった。




