船上
今上の帝が、未だ幼き頃。
母の上東門院より聞きし話は、まだ全てではない。
「母上! 次のお話は」
「おやおや……いけませぬ。次の帝ともなろうお方が、そんな慌てん坊様では。」
「ああ……申し訳ありませぬ。」
上東門院は今上の帝を座らせ、話をはじめる。
「これは、件の大乱のすぐ後のことーー」
「船上の宴というものも、中々よかろう?」
「ああ、そうだな……」
清栄の言葉に、半兵衛はやや暗く言葉を返す。
京での二つの大乱、そしてその裏で糸を引きし水上夕五との尾張での戦いの後。
半兵衛・夏・広人は、瀬戸内の海を走る船の上にいた。
先に述べし大乱の勝ち戦を祝う、船上の宴に呼ばれしためである。
水上兄弟と、義常の妻・子らはまだ外で浮かれるには心許ないと、今は屋敷にて留守を守っている。
よって半兵衛らは形としては客人なのだが。
「さあさあ重栄殿、遠慮なさらず」
「ああすみませぬ……では。」
「ははは、飲めや歌えや!」
「むう……なんと美味しそうな。」
いざ来れば他の客人が宴に耽る中それによだれを垂らしつつ、海に目を光らせる羽目になってしまった。
まったく、嫌がらせか。
そう半兵衛が思っているや。
「何じゃ、そんな顔をするな。せっかく、我が天下取りの祝いの席であるというのに。」
「……そう思ってくださるんならさあ」
清栄が声をかけてきたので、半兵衛は返す。
「旨そうなもの横目に、指咥えて見てなきゃいけねえ俺たちの身にも、少しはなってくれよ。」
嫌味の言葉を。
すると、清栄は。
「ははは! いやはやすまぬ! ……この清栄も、できれば手放しで祝いをしたき心持ちはあるのだが」
肩をすくめつつ、海に目を向ける。
「いかんせん、心許なくてのう。」
「そう思うんなら、宴をもっと先延ばしするべきだろ? あるいは、船上ではなくするとか。」
「はははは!」
清栄は半兵衛の言葉に、何がおかしいのか笑い飛ばす。
「分かっておらぬな……私の宴は、この船上でなくばなるまいというのに!」
「……え?」
半兵衛はその清栄の言葉に、首をかしげる。
その、刹那であった。
「清栄様!」
「!? どうした?」
「く、件のものが……」
「!? な、何!」
「何だって!」
何やら船の縁にて叫ぶ従者らの元に、清栄は驚き向かう。
半兵衛・夏・広人も、ただならぬ様だと思い向かう。
「おお……もしやついに!」
「何だ? 件のものって! ……まさか」
「く、果物か?」
「広人、つまらぬ。」
「す、すまん夏殿。」
「広人、つまらぬ。」
「す、すまん半兵衛ど……の? ……いや、そなたは言うな!」
何故か嬉しげな清栄であるが、半兵衛らは『件のもの』と聞きくだらぬやりとりをしつつも穏やかならぬ心持ちである。
まさかーー
「清栄様、件のものです!」
「おお……鱸か!」
「!? はああ!?」
清栄の言葉に、半兵衛らはすっ転ぶ。
何かと思えば。
「何だよ……ただの魚じゃねえか!」
「ただの魚?」
「こ、これ! そなたら!」
目に見えて機嫌を損ねし顔の半兵衛に、従者は慌てる。
すると、清栄は。
「はーっ、ははは! ……そなた、誠に何も分かっておらぬなあ。出世魚も知らぬとは!」
「し……出世魚?」
「はーっ、ははは!」
清栄は再び、自らの言葉に首をかしげる半兵衛・夏・広人を笑う。
よほど、ツボに入ったと見える。
「さあ、食すがよい。」
「い、いただき申し上げます……」
「いただきます。」
「おお! 旨いなあこりゃ!」
「こ、これ半兵衛!」
一言もなしにいきなり手をつけし半兵衛を、広人は咎める。
船上で捌かれし鱸は、膾(刺身)として半兵衛ら妖喰い使いにも振舞われた。
広人や夏も半兵衛に続き、身を箸にて口に運ぶ。
「おお! なんと美味な!」
「ほお……さすがは出世魚!」
広人も夏も、その旨さに舌鼓を打つ。
白身の魚ならではの、脂が少なくあっさりとしし味である。
「ははは、そうであろう! これぞ私が天下を取れし、その訳なのだからな!」
「え? この魚が?」
半兵衛は再び首をかしげる。
魚のために天下とは、どういうことか?
「私が未だ安芸守であった頃よ……熊野に詣でるため、伊勢より船を走らせしさなかに舞い込みしが、この白魚であったのだ! 聞けば、唐の国(中国)でもその昔、王の船に舞い込みし魚ということでな。私はそれを熊野のご利益と見て食した……そして今こうなりしよ。」
清栄は胸を張って見せる。
「な、なるほど……」
未だ呑み込みきれぬ思いながらも、半兵衛らは頷く。
聞けば、小魚の時から大きくなるにつれ名も変わっていくため、出世魚と呼ばれているらしい。
残りの身にも手をつけつつ、半兵衛らはその話を聞く。
「さあて……これを食ししからには、より一層守りに励んでいただかねばな!」
「はあ……つまるところそうなるわな。さあ行こうか、広人、夏ちゃん。」
「分かっておる!」
「ああ。」
束の間の憩いの時は終わり、半兵衛らは持ち場へと戻る。
「まったく……いくら大戦に勝った後だからって、兜の緒緩みすぎじゃないか?」
半兵衛は密かに、そう漏らす。
あの勝戦は文字通りの勿怪の幸いであるから、気をつけるべきーー
さようなことを清栄に言ったのであるが、まったく響いていないと見える。
まあ、こうして妖喰い使いたちを守りにつかせるだけまだよいか。
半兵衛らは船上での浮かれし宴をよそに、海を睨み考えていた。
さて、いつ来るかーー
そんな半兵衛らの心の声を聞きつけしわけでもあるまいが。
にわかに霧が、立ち込め始める。
「何だ、これは……」
「も、もしや……」
「ああ……おいでなさりやがったよ。」
妖喰い使いらの気が、張り始める。
前に聞きし話の通りである。
それは少し前の、京へと荷を運ぶ船についての話。
今この時のごとく、にわかに霧が立ち込め。
そしてーー
「半兵衛、あれは!」
「ああ……誠においでなすったな!」
半兵衛らが睨むその先に。
仄かに浮かぶ、いくつかの屋形のごとき影が。
一眼見た限りでは、今半兵衛らのいる船のごとき屋形船にも見えるが。
次には、これまた話に聞きし通りに。
「!? ふ、船が……!」
「船じゃあねえ! あれは……」
「妖か。」
半兵衛らが睨む先にある船らは、次々と鎌首をもたげていく。
それは、屋形船のごとく屋形を背負いし海を走る妖。
蛟である。
「妖屋形船とはなあ……洒落たことしてくれるぜ!」
「何を見ておる! 早く迎え討て!」
霧が立ち込めしばかりの頃は気づかぬ有様であった清栄らも、妖の姿に慌て始める。
「そうしたいのも、山々なんだがな……っと!」
半兵衛は紫丸を引き抜き、その刃先より蒼き殺気の雷を妖らに向けて放つ。
蛟が、口より火の玉を吐きぶつけんとしてきたためである。
「な!」
「案ずるな! 広人、夏ちゃん!」
「応!」
たちまち半兵衛に続き、広人・夏も殺気の雷を放つ。
火の玉は宴の船に達する前に殺気の雷に絡め取られ、爆ぜる。
「船頭さん方よお! ただちに港に戻ってくれ!」
「へえ?」
半兵衛の戦いつつの言葉に、船頭らは首をかしげる。
「分かってくれよ! 今この場がこんなじゃあ俺たちに分が悪い。このまま船の上でお釈迦になりたくないんならさっさと戻ってくれ!」
「へ、へい!」
船頭は半兵衛の苛立ち混じりの言葉を受け、大慌てにて舵を切り始める。
が、言うなれば腹を見せし獲物を妖たちが見逃すわけもなく。
そのまま、火の玉を先ほどよりも多く吐く。
「半兵衛!」
「くっ、切りがねえなあ! 船頭さん、もっと速くできないかい!?」
「すみませんだ、これが精一杯だあ!」
「……だろうなあ。」
半兵衛は火の玉を雷にて撃ち払いつつ、ため息をつく。
初めこそ、見た目には同じようであった蛟らと半兵衛らの船であるが。
片や、人の漕ぎ手により動く船に比べ、あちらは妖により動く船ーー否、妖そのものである。
どちらが速いかは言うまでもあるまい。
「くっ、どうするのだ半兵衛!」
「そうだな……どうするかなあ!」
蛟より吐かれる火の玉をひたすら迎え討つ半兵衛は、策を考え続けるが答えは出ぬ。
今まさに追いつかれんとしているさなか防ぎきることですら手一杯というのに、この妖たちを如何に倒せばよいのか。
「くっ……広人! 夏ちゃん! 鬼陣形だ! 闇雲に撃ち払うだけじゃ、逃してくれそうにない!」
「し、承知した!」
半兵衛・広人・夏は屋根の上に登り。
そこから殺気の雷を、網のように張り巡らせる。
火の玉はことごとく、払われていく。
「よし、このままなら……!?」
「は、半兵衛!」
「おやおや……囲まれたか。」
半兵衛らは周りを見渡す。
霧の中より鎌首をもたげし蛟が数多迫る。
たちまち宴の船は、囲まれてしまった。
「くっ、どうするのだ半兵衛!」
「ううん、ひとまず……」
広人の問いに半兵衛は考える。
このまま殺気の雷を纏いしまま、蛟の陣をーー
そう、半兵衛が思いつきし刹那であった。
「!? まずい、このままでは!」
「ちょ、夏ちゃん!?」
半兵衛が驚きしことに、夏はにわかに陣形を崩す形にて一人、船の縁を飛び越え海に入る。
「どうした!? 何が……ぐっ!」
半兵衛が尋ねる声も聞かず、夏が海に入り間もなく。
宴の船の揺れと共に、近くの水面より水柱が立つ。
「うわああ!」
船の上の者たちは、大きく取り乱す。
「ち、父上!」
「案ずるな、重栄! ……ここは任せるよりあるまい。」
「はっ……皆、案ずるな! ここは一国半兵衛らに任せよ!」
父の言葉を受けし重栄は、自らを落ち着け、皆を宥める。
半兵衛との関わりは父ほど多くはない故に、半兵衛の力がどこまで信ずるに値するかは疑問であるが。
ここは、任せるより他あるまい。
「わっぷ!」
「夏殿! 早く船上に」
「広人、分からぬか! あの妖共は海の中より火の玉を……くっ!」
「な、夏殿!」
一時水面より顔を出しし夏は広人への言葉はそこそこに、すぐに海へ戻る。
たちまち、ほどなくしてまた水面より水柱が立つ。
「な、夏殿!」
「広人! 夏ちゃんの言う通りだ! あの妖はいくらか、海に首突っ込んでやがる奴らがいる。そいつらが火の玉を、海の中で船に喰らわそうとしてやがるんだよ!」
「な、そんな……」
広人は殺気の雷を放ちしまま、周りを見渡す。
確かに、蛟のうちいくらかは首を水面に突っ込んでいる。
さしもの鬼陣形といえど、水面の下までは守り切れぬ。
「とはいえ……策は練らんといけない! なら喰らえ!」
半兵衛は破れかぶれとばかり、紫丸の刃よりこれまでになき強さの雷を放つ。
たちまちそれらは、まばらながらに火の玉ばかりか蛟そのものを捉え水柱を立てる。
「よし、夏ちゃん! 船上に来るんだ!」
「ぷはあ! 半兵衛、それはできぬ。……私は水面の下より、殺気を吹き上げてこの船を押す。半兵衛と広人はできる限り強き雷を起こせ!」
「なっ……夏殿!」
半兵衛の言葉をよそに、夏は自ら策を授ける。
「夏ちゃん! それでどうするんだ?」
「分からぬか? この囲いを破る! ……私ができる限り弱そうな妖の方へこの船を押す。半兵衛らは力任せに、妖らを突き破れ!」
「な、夏殿! それでは」
「戦は待ってはくれぬ! さあ!」
「……分かった!」
夏と、今この戦の有無を言わさぬ様に押し切られし形にて。
半兵衛は船首の方へ、広人は船尾の方に立つ。
「船頭ら! さようであるからそなたらは一度下がれ!」
「は、ははあ!」
広人が促すや、船頭らは下がる。
「ぷは! ……行くぞ!」
「応!」
やがて水柱は晴れ、お返しとばかりに蛟より火の玉が、これまでになきほどに迫る。
いや、火の玉だけではない。
蛟そのものも、自らぶつからんとする勢いにて迫る。
「くっ、妖共め!」
「こりゃあ……一かバチかだな!」
半兵衛、広人はあるだけの雷を放ち、夏はあるだけの殺気を足より後ろに吹き上げ。
船はそれにより、凄まじき速さにて蛟の囲いの一角へと迫る。
言うなれば、蛟の囲いがこの船を喰らうか。
それとも、宴の船が囲いを突き破り逃げ切るかの賭けである。
果たして。
「うおおお!!!」
刹那、船首にぶつからんとする蛟に。
半兵衛が紫丸より放たれし数多の雷のうち一筋のみが、そのまま殺気の刃に変わり。
いくつかの蛟を一太刀のもと、切り捨てる。
刹那の、出来事であった。
たちまち切り捨てられし蛟は、血肉となり紫丸の刃を紫に染め上げ。
散らばりし屋形は、そのまま殺気の雷にて撃ち払われ退けられる。
そのまま宴の船は破られし囲いの一角を、突き抜ける。
「やった……やったぞ夏殿! さあ、早く……!?」
広人は水面を覗き込み、言葉を切らす。
夏がたちまち力尽き、船より離れて行くのである。
「な、夏殿!!」
広人は呼びかけるが、夏は終いの足掻きとばかり船をとんと押す。
「!? ぐわああ!」
たちまち船は大きく揺れ、軋みをあげつつ速くその場を離れる。
「な、夏殿おーー!」
広人の叫びも虚しく、夏から船はますます離れて行く。
「広人! 夏ちゃんは」
「……くっ!」
妖らが襲いかかりし場よりかなり離れ、船が止まりし後。
半兵衛は船尾へと駆けるが、広人がにわかに立ち上がり海に飛び込まんとする。
「何を、する!」
「決まっておろう! 夏殿を助けねば」
「できない! 今あそこに戻るなんて! とにかく今は、港に戻らなけりゃ」
「そなたらは帰れ! 私一人でも」
「広人!」
「ぐっ!」
広人は、半兵衛に殴り飛ばされる。
「なっ……」
「目を覚ませ! 今だって、どこから妖共が襲ってこないとも限らないんだぞ! ……妖喰いは、一つでも多くないといけない。でも! ……今引き返すだけのゆとりもない! 分かるよな?」
「……うむ。」
半兵衛の言葉に、広人はその場に座り込む。
そして船上を見れば、水びたしになりし座敷に、食い物や酒が散らかり、人々も萎れし有様が見えた。
今はこの船を、守らねば。
半兵衛も広人も、断腸の思いにてそのまま港へ向かうこの船の、守りに当たる。