兄弟
「ふう、ふう……初姫、竹若!」
山道をひたすら進みつつ、治子は我が子らの名前を口にする。
「義常様……あなたと私の子らはこの命に代えてでも!」
治子は考える。
あの日のことを。
時は、先の二つの大乱のうち後の大乱が始まる少し前に遡る。
「これ、竹若!」
「ははうえ〜! ほら、蝶が。」
「竹若! ははうえのおはなしを聞くのです。」
すっかりはしゃぎたき盛りの齢となりし竹若を、母と姉が諌める。
先の大乱一一上院派と親王派との戦より、三年経ち。
乳飲み子であった竹若は歩き回り、姉となりつつも幼かりし初姫は、より姉らしくなりつつある。
「あねうえも、蝶が」
「ああ、ありがとう……ではなく! ははうえのお話を」
「お、奥方様!」
のどかな時は、にわかに響きし侍女の声にて終わりを告げる。
「!? どういたしました?」
「い、一大事でございます! ……義常様らの叔父君が!」
「!? ……ついに、見つかりましたか……」
治子はため息をつく。
しかし、考え込む暇はなかろう。
「あなたは初姫と、竹若を連れ! ……できる限り遠くへ逃げるのです。」
「はっ、ははあ! ……お、奥方様は」
「私は残り、ここで時を稼ぎます。」
「!? な、なりませぬ! 奥方様も」
「私が残らねば……竹若が最も危ういことでしょう。」
「!?」
治子の言葉に、侍女ははっとする。
「初姫は女子なればまだしも、義常様に男子があると知られればどうなるか。……ここは私が、食い止めねばなりますまい。」
「……承りました。」
侍女は承りがたき心持ちながらも、承る。
「ははうえ!」
「初姫、竹若! ……ばあやの言うことをよくお聞きなさい。初姫、そなたは姉なれば、弟をお守りなさい。竹若、そなたも男子なれば、姉上をお守りなさい。いいですね?」
「……はい!」
「は、ははうえ?」
初姫は母の言葉に、力強く返す。
竹若は幼さ故か、未だよくは吞みこめておらぬ有様である。
「さあ、初姫様、竹若様! ……あなた様方はこのばあや、命に代えてもお守りいたしまする!」
「お願いいたします。」
「は、ははうええ!」
未だ母が恋しき齢である竹若は泣きじゃくりつつ侍女に抱かれ、初姫も母を恋しがりつつ涙を飲み込み侍女に手を引かれ。
そのまま、治子を家に残しいずこかへ去る。
「たのもう! 逆賊・義常が奥方と娘御のお家とお見受けする! 出て参れ!」
それより程なくして、夕五の従者らが数多家へと押しかける。
従者らは、恐らく治子らは家の中で震えておろうと考えていた。であれば、引き摺り出すにはかなりの時を要するであろう。
そう考え、身構えし時であった。
家の扉が開き、中から治子が出て来る。
「私こそ、水上義常が妻一一治子にございます。」
「う、うむ……」
従者らは拍子抜けする。
手こずらせるかと思っていたが。
「まあ、よい……娘御はどうした?」
すると、治子はその場に座り込む。
「な」
「お願い申し上げます! 私の命は要りませぬ……しかし! 何卒娘の……娘の命だけは!」
「な……何?」
従者らは戸惑う。
が、治子はある確信を得ていたため、恐れを抱き過ぎずここにいられる。
と、そこへ。
「ふむ、強情な女子よ……しかし、嫌いではない。」
「……! 叔父上。」
目の前の夕五の姿に、治子は驚く。
水上夕五。
治子の祖父一一夕五にとりては叔父にあたる者と、その一門を滅ぼしし者。
いわば仇であるが、治子はその思いをここでは呑み込む。
「よかろう、治子とやら。……我が妻となれば、娘の命は助けてやろう。」
「!? ……はい。」
治子は、一時驚きつつも夕五の言葉を受け入れる。
今なお慕う夫・義常に申し訳なさを覚えつつも。
これまた、確信を得ていたがために、夕五の話に乗ることとしたのである。
その、確信とは。
「(竹若のことは……義常様に男子がいることは知られていない。……ならば、娘ぐらいならば見逃してもよいと思われるやもしれない!)」
竹若についての、ものであった。
これが、治子が夕五の妻になるという話のいきさつである。
「この、先に……。ん?」
治子は、道すがら後ろより気配を感ずる。
しかし、振り返っても何も見当たらぬ。
「……よい。私は……!」
治子はそのまま、急ぐ。
「ばあや、初姫、竹若……!」
「治子様……ぎゃっ!」
「わあ!!」
「なっ……!?」
ようやく子らの隠れ家へとたどり着きし治子であったが、再び会えしことを喜ぶ暇もなく。
侍女の側を矢が、翳める。
幸いにも、誰にも当たらなんだが。
侍女は驚き、その場に倒れる。
「ばあや!!」
「そこまで! ……よくぞ導いてくれた、治子よ!」
「夕五……!」
治子の後ろより、夕五が現れる。
慌てて治子は、我が子らに駆け寄る。
「ふふふ、治子よ……私との誓いの程、忘れし訳ではあるまい!? ……そなたと娘、そして……まさか、男子までいたとはなあ!」
「私の命に替えても、この子らは……!」
「ははは! ……ううむ、殺すには惜しき女子であるなあ!」
夕五はそのまま、三人へ矢を射る。
「は、ははうえ!!」
「案じなさるな! この母が!」
尚も威勢を失わず、治子が叫ぶ。
と、その刹那であった。
「!? 矢が!」
迫りし矢は、横より飛びし矢により撃ち落とされる。
「くっ、これは……?」
「待たせたな、治子!」
「そこまでだ、夕五!」
「くっ、そなたら!」
「義常様、頼庵!」
「ちちうえ!!」
水上兄弟が、馳せ参じる。
「ふん、妖喰いを持たぬ奴らが……卑しくも逃げ出し、こちらへ来おったか!」
「妖は、我らが主人と仲間が引き受けてくださっておる! 夕五、貴様と心置きなく相対せるようにとなあ!」
「ほほう、それは……ありがたいのう!」
夕五と水上兄弟は、相対す。
「何故、我らが父を殺した!」
義常は問う。
これぞ、真に問いたきことであった。
すると。
「くっくっ……はっはっは!」
「な、何がおかしい!」
夕五は笑う。
義常の言葉を、嘲笑うかのごとく。
「何がおかしい? ……そうだな、そなたには分かるまい。義常よ! ……だが頼庵、そなたならば分かるやもしれぬな。兄と比べられし弟の、兄への憎しみを!」
「何?」
夕五の言葉に、義常・頼庵は首を傾げる。
しかし、何やら心には穏やかならぬ響きが。
「はっはっは! ……義常。さぞかしそなたは兄としてその役を全うするよう育てられたであろう! そう、そなたらが父一一我が忌まわしき兄・義夕もさようにして育てられた! この弟たる私を虐げ、愉悦に浸りつつなあ!」
「な、何!」
義常・頼庵は尚も首を傾げる。
父が、夕五を虐げ愉悦に浸りつつ育った?
「さようである! あの兄は、この夕五を虐げ。それにより自らが愚鈍な弟より優れているなどという愉悦に浸っていた! まったく、何と高飛車な!」
「ち、父はそんな」
「いいや、そうであった! ……あの兄にいつも見せつけられていたのだ。決して埋まらぬ、大いなる違いをなあ!」
「何だと!」
義常と頼庵は、聞き入る。
夕五は、尚も続ける。
「既に私は! 生まれながらにしてこの家を継げぬと幼き齢ながらに解していた。自らよりも優れ、尚且つその違いを埋めることができぬ兄がいたからなあ! 私は日々、妬みに塗れながらも力尽くし続けた……しかし、あの兄は!」
夕五はしゃくりあげる。
その声には、悲しみが含まれていた。
「こともあろうに……そんな私を笑いおった! 『そんなことでは私を追い越せぬ』などとな! 私はどれほど……悔しきことであったか。」
夕五は俯く。
が、すぐに顔を上げる。
「よく分かったであろう? そなたらが良き父と慕っておった男はそんな男であった! だから、私は……私は! この力を手に入れ、今こそ……!」
夕五は笑う。
しかし言葉や顔つきとは裏腹に、未だ心が晴れぬ様が見てとれる。
と、その刹那である。
「くっ……くははは!」
「!? なっ……笑ったな!」
頼庵や治子らが、何より夕五が驚きしことには。
義常が、大笑いする。
「くっ……おのれえ! さすがはあの高飛車な兄……死んでなお、その性を我が子に受け継がせおって!」
「兄者、危ない!」
夕五は怒り、その矢を弓につがえ放つ。
たちまち矢は、義常に迫る。
それをさして防ぐ素振りも見せぬ義常に、頼庵は叫ぶが。
義常が駆け寄る頼庵を手で制しし時と、夕五の放ちし矢を捕らえし時はほぼ同じであった。
「なっ……馬鹿な!」
「私を制しつつ、矢を手づかみにて……兄者、いつさような芸当を!」
鮮やかな技に、夕五も頼庵も訝しむが。
義常は未だ、笑いを崩さぬまま話し始める。
「ははは……それは、これが父・義夕の教えてくれし技であるから。そして……夕五、単にそなたの技が未熟であるからだ!」
「なっ……何!」
義常は更に、夕五を煽るがごとく言葉を浴びせる。
それにより、更に怒り心頭に発しし夕五は。
「ならば……この矢全てくれてやろう!」
たちまち夕五は、次々と数多の矢を放つ。
「あ、兄者!」
「義常様!」
「ちちうえー!」
それに恐ろしさを感じし治子や子ら、さらに頼庵は叫ぶが。
「数が増えし所で、同じこと!」
義常はそのまま、素早く刀を抜き。
矢を一つ残らず、真下へ払い落とす。
「なっ……!?」
「やはり、未熟であるな。……夕五、だからよ! 父がそなたに及ばずと言いしは、単にそなたが未熟であるから! この厳しき世では通らぬ腕であるからこそ、父はそなたにより腕を磨くよう言っていたのだ!」
「くっ、何だと!」
義常のこの言葉は、夕五に矢のごとく刺さる。
「私も言われた! さような腕前では及ばぬと。私はそれを聞き、父が私の到底及ばぬような腕前を持ちし様を見て! 打ちひしがれた。……だが、私は長らく知らなかった。父が、影で鍛え続けておったことをなあ!」
「なっ……?」
夕五は、次には目を丸くする。
あの兄が、鍛え続けていた?
「私はそれにより……自らの弱さを悟り、再び鍛え直すことができた! だというのに……夕五! 幼き私ですら気づきしことを、何故そなたは解せぬ!」
「そんな、こと……!」
夕五は、否定の言葉を口にせんとするが。
誠であれば、分かっていたことに気づく。
兄が、誰よりも自らを鍛え上げていたことを。
そして、自らは焦りの余り安易に力を求めてしまっていたことも。
しかし、気づきし所で改められぬもまた、夕五の弱さであった。
「ふん……ならばどうする! 今更、それを知りし所で許されるのか!」
「いいや! ……もはやそなたは許されぬ。帝にも、静清栄様にも、神にも仏にも……我らにも、何もかもにな!」
義常は、言い放つ。
「ふははは! ……よくぞ言った! だかな……弟は、兄を越えんとするものだ! 義常、そなた自らは良き兄であったなどと自惚れていたようだが……精々そこの頼庵に、寝首を掻かれぬようにな!」
「な、何を!」
夕五のこの負け惜しみの言葉に、頼庵は少なからず揺さぶられる。
しかし。
「よい、頼庵! ……弟には、少なくとも道は踏み外さぬよう教えて来しつもりだ。たとえ頼庵が何を選ぼうとも……きっと、正しき道になろう!」
「兄者……!」
義常はまるで動じず、どころか弟を盛り立てる。
「ははははは! ……その芝居、どこまでも隙がないのう義常よ!」
誠に、どこまでもこの甥は自らを苛つかせる一一夕五は怒りと共に、刀を抜き駆け出す。
義常に苛つく訳は、他ならぬあの兄一一義夕を思わせるからである。おのれ、亡霊め。
義常も夕五に遅れを取らず、既に抜きしままの刀にて立ち向かう。
夕五の刀を受け止め、素早く自らも刃を打ちつける。
二つの刃は、わずかに火花を散らすが一一
「ふん! 」
「ぐあっ!」
たちまち夕五の刃は押し切られ、その右肩より左脇腹にかけて義常の刃が、切り裂く。
「ぐあああ!」
鮮血が、夕五よりほとばしる。
この明暗を分けしは、言うまでもなく。
「くっ、な、何故」
「言うまでもない、腕の違いよ!」
「くっ、お、の、れ……!」
夕五は倒れ臥すが、しぶとく息をし続ける。
「お、の、れ……治子! そなたは、私の……」
「は、ははうえ!」
離れているが、夕五は藁にも縋る思いにて治子の方を向き手を伸ばす。
「子らよ、あのような見すぼらしき物を見てはなりませぬ! ……私は元より、水上義常が妻! 誰がそなたなど!」
「くっ……何故だ何故だ何故かあ!! 翁面、翁面はおろう!」
治子から屈辱を受け、夕五はもはや目玉を飛び出るほど見開き、傷が開くことも厭わずに叫ぶ。
と、そこへ。
「お呼びなれば、夕五様。……翁面はここに。」
「!? くっ、そなた!」
にわかに現れし翁面一一長門伊末に、水上兄弟は治子らを守らんとそちらへ駆け寄り、構える。
「翁面!! ……ぬ、鵺の、力にて……あいつらを、焼き尽くせ!」
「ええ。……鵺の力は、ここに。」
「!? あ、あれは!」
夕五に伊末が差し出しし札は、久方ぶりに見る妖傀儡の札であった。
見間違えるはずもない、血に濡れし肉のごとき札。
「は、はよう……」
「ええ。……これは、そなたに!!」
「ぐっ……ぐあああ!!」
「!? なっ、何を!」
水上兄弟や治子らが、驚きしことに。
何と伊末は、その手の札を鏃のごとき形にし。
そのまま虫の息たる、夕五に突き刺したのである。
「お、のれ! ……翁面!」
「ふふふ、夕五殿。……兄を弟が越えるなどと、聞き捨てなりませぬなあ。」
伊末は冷ややかなる笑いを、声に滲ませる。