遺志
「あれは……都か!」
刃白にて逃げ回りつつ、出雲の半兵衛らが見しもの。
それは、空に渦巻く嵐の中に見える京の都の姿であった。
神器・剣が盗まれしことをきっかけとする此度の件。
九州と出雲、どちらかにあると目されていたが、今その剣とかつての酒呑童子が子・鬼童丸が合わさり目覚めし古の妖・八岐大蛇。
それが今出雲に佇み、激しき地割れと地の揺れを引き起こしている。
その割れ目に、九州よりかつて八岐大蛇を葬りし剣・十拳剣を携えし広人も、護衛に就く隆綱・義銀と共に落ちてしまった。
そして、これはまだ半兵衛らの知らぬことではあるが。
「はーっ、ははは! 見なされやあの渦、八岐大蛇の力をもってようやく黄泉比良坂を目覚めさせたんやさかい! その力の試しも成った!」
「う、うむ……」
「や、やりました父上! 我らは父上の悲願を叶えることに僅かながら近づきました!」
「ええ……父上もきっとお喜びでしょうね。」
まさに目当てを達しし長門一門は喜ぶ。
その目当てとは、あの黄泉比良坂を目覚めさせんことであったのである。
「しかし……我らもそう笑ってばかりもいられぬのではないか?」
「! あ、兄上申し訳ございませぬ。……ひいっ、じ、地割れがあ!」
しかしそれは八岐大蛇が、これまでに無きほど更に御し難くなりしことを表している。
「そやな……ひとまず、もうここに居続けなくていいんやで!」
「ええ、逃げるが上計ですわね!」
「なっ、ま、待て!」
「ふん、所詮は腰抜け共が! 逃げるのみか?」
「なっ……?」
向麿と妹の言葉に焦る高无であるが、後ろより聞こえし兄の言葉に更に驚く。
見れば、兄は重々しく身構え微動だにせぬ。
「あ、兄上何を!」
「何が起こるか分からぬ。ならばその時は、詰まるところ誰かが当たらねばならぬであろう?」
伊末は構えを崩さず、向麿に向かい右手を広げる。
「あ、兄上……まさか!」
「何や? 犬でもあるまいしお手なんか」
「分かっておる癖に。この私が事に当たると言っておるのだ、件の物を出せ!」
伊末は向麿に、羅城門の鬼の腕を求める。
「やあれやれ……伊末様は誠にせっかちやなあ、影の中宮様!」
「ええ。兄は自らの意で選べるものではありませぬから、困りますわ。」
「ふん……妹よ! そなたの相も変わらず食えぬ様、今だけは許そう! ……これが、終いかも知れぬからな。」
「まあ?」
「!? あ、兄上え!」
向麿と影の中宮の話に怒りし伊末の言葉は、高无を更に揺るがせる。
「な、ならばお止めください! 兄上! 兄上のお命を差し出すくらいならば、この私が!」
「高无! ……妖を操ることより他には何もできぬそなたが、何とするというのだ?」
「! あ、兄上……」
伊末は弟を宥める。
「案ずるな。私も父上の子じゃ、これしきのこと」
「むっ! ……伊末兄上、さような物のおっしゃり様は、一度でもあの八岐大蛇の攻めを防いでからにしてくださいませぬか?」
「……ほう? いつの間にやら結界を?」
伊末の言葉を遮りし影の中宮は、術を使いしさなかであった。
妖気の結界にて、兄らが話す間にすぐそこまで迫りし地割れを、ひいては八岐大蛇の力を防いでいる。
「ふふふ……妹よ! そなたに背中を押されるとはな……さあ薬売り! 私にあの腕を!」
「……まったく、つくづく話の分からんお方やなあ。」
「兄上!」
向麿は言いつつ、渋々といいし様にて紙に包みし腕を差し出す。
伊末はそれを奪うがごとく受け取るや、そのまま右腕の、あの下顎へと――
「兄上え!」
「……くっ!」
「……え?」
高无は兄を案ずるあまり叫ぶが、伊末は動きを止める。
高无も驚きしことに。
兄の腕は震えている。
「おうや兄上。まさか、怖気付きまして?」
「……ふん!」
「……兄上。」
影の中宮からの嫌味にも、伊末は切り返せぬ。
高无はほっとしたき心持ちであるが、兄の心を思えばそれもできぬ。
――ははは! 今ならば……十拳剣さえ糧にできようぞ!
「そうかい……くっ、こりゃあ……全く近寄ることさえままならねえな!」
刃白の中で半兵衛は、歯軋りする。
八岐大蛇の身体は禍々しき、妖気の炎にて覆われている。
その激しさは、もはや先ほどの比ではない。
今も刃白は逃げ回るが、地割れは次々と広がっていく。
あの地割れの中に、広人たちが。
彼らの身が何より気がかりであるが、今の自ららは彼らを救うどころか生き抜くことすら難しきことも悟っており、つくづく腹立たしき心持ちである。
「半兵衛様!」
「半兵衛!」
「半兵衛殿!!」
同じく刃白に乗りし頼庵・夏・賢松・杖季は半兵衛に呼びかける。
今すぐ、八岐大蛇を攻めよとの令が欲しいのである。
しかし半兵衛には、今のことを鑑みればそれができるはずもなく。
今はただただ、自ららの身を守ることが精々であった。
「くっ……大事ないか! 隆綱殿、義銀殿!」
「ひ、広人殿……」
「す、すまぬ! かような時まで……」
「よい! 元はといえば、私が……」
広人はそれより先を続けんとしかけ、口を噤む。
自ら二人を巻き込んでおきながら、終いには地割れの中にまで巻き込んでしまうとは。
広人は大きく、恥入っていた。
あの地割れの中に落ち、あわや絶対絶命かに思われし彼らであったが。
目覚めし広人はせめてもの尻拭いをと、両の手に握りし紅蓮と十拳剣を崖に突き立て、さらに自らの身に隆綱・義銀をぶら下げていた。
何とか、彼らは踏み止まっているのである。
しかし、それもいつまで保つか。
地割れは広がるばかりである。
「くっ……せめてこの十拳剣だけでも!」
広人は悔しげに、声を籠らせる。
「古の妖か……何故都にまで!」
出雲と空の渦にて繋がりし、京の都にて。
義常は今半兵衛の屋敷の庭より一人、その空の渦を睨む。
今、頼益は氏式部や刃笹麿、さらに治子や初姫・竹若を母屋に入れている。
仕組みはよく分からず、にわかには信じ難きことではあるが。
今出雲と京が繋がっているは誠であると、受け入れる他なさそうである。
そして何より、半兵衛らが、頼庵が大事ないかが気がかりである。
殺気を使えば、それも知れるであろうが。
それをすれば、間違いなく命を縮めることになろう。
自らを気遣ってくれし主人・半兵衛のその気遣いを無碍にはできぬ。
「くっ……私が、不甲斐なきばかりに!」
義常は自らの右手の黒ずみを見、歯軋りする。
ここぞという時に、役に立たぬとは。
「すまぬ、頼庵、治子、我が子らよ……終いには、侍としても父としても兄としても……夫としても何もできぬな。」
「義常殿!」
「! 頼益殿。」
そこへ母屋より、頼益が一人出て来る。
「氏式部殿や奥方、お子ら、陰陽師殿は大事ない!」
「……かたじけない。」
義常は力なく、答える。
未だ空の渦は、勢いを湛えている。
少し、黙の間があってから。
「義常殿! 何も、侍としてか、父としてか、兄としてかしか……夫としてしか死ねぬなどと思うことはない!」
「……な、何ですと?」
頼益より投げかけられし言葉に、義常は首をかしげる。
が、すぐにはっとなる。
「頼益殿……先ほどの私の弱音を」
「ああ、すまぬが聞かせてもらった! ……しかし義常殿。先ほどの言葉は幾度もそなたへ投げかけたい!」
「頼益殿……」
義常は頼益の目を見据える。
頼益も義常の目を見据え、尚も続ける。
「侍・父・兄そして夫……顔は違えど、全て義常殿であることは間違いない! ……ならば、侍として父として兄として夫として死ぬということも出来なくはないのではないか?」
「!? よ、頼益殿……」
義常は頼益のこの言葉に、はっとする。
私が、侍・父・兄・夫として――
「ならば、出来るやり方を考えよ! 無論、生きて帰ることが何よりではあるが……後は、そなたに依る!」
「……はっ、かたじけない頼益殿! ……すまぬが、庭の見張りを!」
「うむ、喜んで!」
義常は意を決する。
そして、走り出す。
まずは――
「我が妻よ、そして我が子らよ!」
「ち、ちちうえ!」
「父上!」
「義常様……」
義常は母屋の中に入る。
まずは、父として。
「我が子らよ、これから話すことは重きことである。……心して、聞いてほしい。」
「は、はい……」
「何ですか、ちちうえ?」
父のただならぬ様に、初姫は唾を飲み込む。
竹若はまだ分かっておらぬのか、ただただ首をかしげる。
「……私は、もう長くない。であれば、今日を限りに……そなたらの側には、居てやれぬ。」
「!? ち、父上……」
「え……」
にわかに告げられしことに、初姫も竹若もただただ目を丸くする。
「信じられぬかもしれぬが……誠である。これを見よ。」
「!? あ、あ……!」
「ちちうえ〜!」
義常が見せし黒ずみし右手を見、初姫と竹若は泣き始める。
竹若は父にすがり付き、泣く。
「竹若っ! ……すまぬな、幼きそなたにまでかようなことを背負わせることは大いに申し訳なく思う。……だが、そなたは男、そして跡取りである。母上や姉上を守り、この水上の家を守らねばならぬのだ! であれば竹若……頼むぞ!」
「う、うう……」
義常は竹若に、分かるか分からぬながらもその運命を彼に伝える。
果たして竹若が、その言葉の意を解し切れたかどうか。
しかし、今竹若は泣いている。
少なくとも、その運命の重みは解したと義常は見た。
「……さあ、初姫。」
「……はい。」
初姫は死に物狂いにて堪えているが、目には涙が多く溜まる。
それは義常にも、初姫が泣きを堪えていることが伝わる程であった。
「初姫、そなたにもすまぬな……そなたや竹若の側にろくに居てやれぬ不甲斐なき父をどうか、許してほしい。」
「ふ、不甲斐ないなどと……」
初姫はしやくり上げる。
しかし、それより先は声を上げることはできぬ。
次に、治子を見る。
次は、夫として。
「治子……すまぬな、そなたは自らの親兄弟祖父母……亡くしし身であり、さらに一度は訳ありとはいえ離縁まで……誠であれば、側に居続けてやらねばならぬものを。」
「義常様……」
治子も、泣き崩れる。
治子も初姫と同じく、泣くまいと堪えていたようである。
「治子、そんなそなたにまた辛き思いをさせること許してほしい……私は、生きて帰ることは誓えぬ! ……だが、必ずや如何なる形であれ帰って来る! だから、待っておれ。」
「……はい!」
治子は涙を溜めつつ、義常を見据え頷く。
「……氏式部殿、阿江……いや、刃・笹・麿・殿!」
「はい。」
「……まったく、今さらしたり顔にて言うな!」
義常の先ほどまでの話を聞きながらも、恐らく自らには止められぬと思い口を噤みし氏式部・刃笹麿が彼の呼び声に応える。
どちらの目にもうっすらとではあるが、涙が。
「そなたらには……誠に世話になった。そして、再び世話になる。……我が子らと奥方を、頼む!」
「……無論。」
「ふん、再びどころか……もう幾度目か!」
「ふふ……では、お達者で!」
言うや義常は、再び走り出す。
「ちちうえ!!」
「いけませぬ、竹若、初姫! ……そなたたちもお聴きになったでしょう? 父上は……如何なる形であっても帰ると!」
「……はい、母上。」
「ちちうえ!」
自らも涙を堪えながらも、治子は娘と息子を宥める。
初姫は母の言葉に、自ら落ち着かんとするが。
幼き竹若は、泣き続ける。
「……うっ!」
「くっ……義常、殿……」
その有様に、氏式部は堪え切れず涙を流す。
刃笹麿も歯軋りをし、ただただ義常の背を見つめる。
義常の背はたちまち、母屋より消えて行く。




