深霧
「ん……何だ?」
夏はふと、気づく。
自らが、何やら水面に立っていることに。
あれ? おかしい。
確か、先ほどまで島の祠に――
そう。
清栄らの宴の船を守り。
しかしそれにより自らは力尽き、目覚めれば何故か知らぬ島にいた。
海人という男子が、引き上げてくれたという。
その時は洞穴に潜んでいたのであるが。
海人の計らいにより、祠に移してもらった。
その後、水浴びをしたいとの夏のわがままも聞いてもらい、水浴びをした後に祠に帰って来たはずである。
はず、なのだが。
今夏は、海の水面と思しき場に立ち、その周りは。
「……霧? ……!?」
夏は周りの霧に、思わず身構える。
この霧こそ、あの宴の船を襲いし妖らが攻め入る前触れであったからだ。
忘れるはずもない。
しかし。
「私は何故ここに?」
少し考えてもやはり分からぬ。
今のこの有様はおかしきことばかりである。
何故いきなり、かようなところにいるのか。
何より、水面に浮かんでおるなど。
と、その刹那である。
「……人影?」
深き霧の中にて、かすかであるが見えるものが。
それにて身構えなかったのは、それが見覚えのある人影だったからである。
「……広人?」
夏は思わず、声をかける。
すると、人影からも――
「夏、夏!」
「ん……?」
ふと、声に気づき目覚める。
見ると、そこは祠の中であり。
目の前には、海人の姿が。
「海人……? ん!?」
夏は寝ぼけ眼を目覚めさせるや、たちまち顔を赤くする。
「夏? どうしただ?」
「は、恥ずかしい! 女子にそこまで顔を近づける男子がどこにいる!」
「ここに、おらがいる。」
「さようなことは分かっている!」
夏は慌てながらも、相変わらず恥じらいのかけらもない海人の有り様に、却って頭が冷えていく。
「さように顔を近づけるなと言っている! 幾度も言うようであるが、そなたは」
「ああ、すまねえ。おら、女子の扱いは分からん。」
「……くっ、分かっておるなら少しは直せ!」
またも、恥じらいしは自らのみというこの様に、夏はますます恥をかかされし思いである。
「なあ夏。」
「なっ、何だ!」
「すまねえ……少し」
「!? なっ……!」
夏が更に驚きしことに。
海人は夏の頬に手を添え、再び顔を近づけてきたのである。
「あ、海人! だから幾度……も……」
海人を再び窘めんとして、夏は何やら強き眠気を覚える。
そのまま再び、夏は眠りについてしまう。
「すまねえだ、夏……今は、眠っといてくんろ。」
海人は眠りにつきし夏を抱き止め。
そのまま、地に寝かせる。
そのまま海人は、立ち上がった。
「おやおや……さっきまで勇んでた蟹たちが蛟たちが、道を開けているな。」
「あの古き船……妖なのか!?」
「分からぬ……が、いずれにせよ、我らに仇なすもの!」
目の前の様を半兵衛・広人・頼庵は、口々に言い表す。
その目の先には言葉通り、古き船――船幽霊の姿が。
これまた彼らの言葉通り、その前を走る化け蟹や蛟は道を開ける。
その空けられし道を通り抜け、悠々と船幽霊が迫る。
周りには数多の、火の玉が舞う。
「何か、あの火の玉……増えてやがるな。」
半兵衛が、言いし通り。
船幽霊の周り舞う火の玉は、ただでさえ多かりしものが、更に数を増していき。
やがて炎の渦を、纏う。
「放つぞ!」
「応!」
半兵衛はその様に恐れをなし、広人・頼庵に呼びかける。
たちまち彼らの妖喰いより殺気の雷が、数多放たれ船幽霊に迫る。
「くっ、こりゃあ!」
「中々……ですな!」
「くっ、何の!」
やはり、その炎の渦に悉く防がれてしまう。
「いや……半兵衛! 頼庵! ならば先ほどの」
「応!!」
「いや、終いまで言わせぬか!」
場を仕切らんとて、言葉を遮られし広人は。
その言葉を遮り応じし半兵衛・頼庵に続き、殺気の剣山を作り出す。
「さあ、どうだ!!!」
そのまま剣山を、船幽霊に向ける。
「おうっと!」
声を上げしは、船幽霊の中に乗る向麿であった。
「く、薬売り……これは」
「あちゃあ、今のでこの船刺されましたなあ。」
「な、何!?」
向麿に憂いの顔を向けし定陸は、事も無げに言う彼に更に憂いを募らす。
「そ、そなた! 何をかように落ち着いておる?」
「あんたこそ、そう慌てなさんなや。親方殿よお。船ん外、見れば分かるやろ?」
「船の外だと? ……! これは」
言われしままに外を見し定陸は、驚く。
「何や? 御自ら忘れおったんか。それがしらは、一人で戦っとるわけやないんやで?」
「……ふん。」
定陸はひとまず憂いを、拭う。
「半兵衛様、蟹共がまた!」
「よおし……一度あの大きな船の攻めを緩めよう! ここは」
「は、半兵衛! その大きな船が!」
「おやおや。これはこれは。」
すぐさま蟹の攻めに移らんとしし半兵衛が、広人に言われ見れば。
先ほどまで火の輪を描きし火の玉らが、次には半兵衛らの乗る船らに攻めんと向かってくる。
「くっ、あやつらも!」
「それだけではない! 蛟も!」
頼庵が次には、声を上げる。
見れば、化け蟹の後ろに控えし蛟も、動き出していた。
あるものは進み出し、またあるものは首を水面に突っ込む。
「くっ、水の中にも火の玉を打ち出すか!」
言うが早いか、広人は駈け出さんとする。
「待て、広人!」
「放せい! ここは夏殿に倣い、私が」
「誰が……夏ちゃんが、自分が行方知れずになったのと同じやり方をしてほしいなんて思うか!」
広人を抑えし半兵衛は、一喝する。
「くっ……しかし、言っておる場合では」
「ああ、そうだな……ならこいつを喰らえ!」
半兵衛は言うが早いか、水面に紫丸の刃先を突っ込み何やらかき回す。
たちまち、半兵衛らに向かいし化け蟹らはそれに恐れをなししか。
蛟らを守らんと、その前に立つ。
「そんなんで、守れるかな!」
半兵衛はたちまち、水面より紫丸の白刃を、斬り払うがごとく出す。
すると、化け蟹らは小さく飛ばされ、蛟の周りに小さく水柱が立つ。
「な……半兵衛、これは」
「呆けんのは後だろ! 今は火の玉が迫ってんだからそっちを! 鵲丸さん、船を引いてくれ! 妖共と少しでも間合い取らねえと!」
「わ、分かった!」
「半兵衛様、我らにお任せを!」
言われしままに、鵲丸は船を後ろに、下がらせていく。
頼庵は翡翠を構え、迫る火の玉を雷纏し矢にて防ぐ。
「く……仇共は手強いな!」
「そやろ? 毎度のことやけど。」
船幽霊の中より見遣る定陸の言葉に、向麿も肩をすくめる。
「分かっておるなら! さっさと次の策を」
「……退くで。」
「……!? な、何?」
「ええやないか。……もう、お目当ては果たしたんやし。」
「……分かった。」
定陸の拍子抜けをよそに。
向麿は、妖らにその旨を命じていた。
「な!? ひ、引いていく。」
「ううむ……さては、また蟹共を空から!?」
広人と頼庵は、にわかに後ろへと下がっていく妖の船らを訝る。
「待て! それにしちゃあ何かおかしい。……妖共が、全て引いていく。」
半兵衛らは身構える広人・頼庵を宥める。
半兵衛の言いし通り妖らは皆、攻めを止め。
そのまま後ろへと、下がって行く。
その、深き霧の中に――
「……そうだ、夏殿お!」
「! こら、広人!」
「広人!」
にわかに海へ飛び込まんとする広人を、半兵衛と頼庵が止める。
「放せ! 私は」
「言っただろ! 自分と同じ目にあってまで、夏ちゃんは助けられたくないって!」
「くっ……だが!」
半兵衛の言葉に、一度は返す言葉もない広人であるが。
すぐに再び、食い下がる。
「聞こえたのだ! 夏殿の声が。あの……霧の向こうから!」
「なっ……なるほど、聞こえたってか!」
半兵衛は、広人の言葉に少し驚くが。
すぐに笑う。
「なっ……嘘と思うか!」
「違うよ。……だったら、夏ちゃんは生きてる。ここで焦って、支度もないまま乗り込むよりは、支度を整えてからだ。な?」
「ううむ……」
暴れし広人も、半兵衛の諭すがごとき口ぶりに動きを止める。
と、その刹那である。
「!?」
「! ……半兵衛様、広人。これは」
「あ、ああ……そなたも感じたか。」
感じしこともない、大いなる"恐れ"。
それは、広人の先ほどの言葉を聞きつけしがごとく、霧の向こうより伝わって来る。
まるで、誰かに睨まれてでもいるかのような――
「……止んだな。」
それも、一時のものではあったが。
気がつけば、妖はすっかりその場を後にし。
霧も晴れていた。
「……とにかく、夏殿は生きておる! 広人にそれが伝わっているのだから間違いなかろう!」
「ああ! 次こそは取り戻すぞ!」
「あ、ああ……」
熱る広人や頼庵をよそに、半兵衛は何やら煮え切らぬ。
「半兵衛、どうした?」
「いや……」
広人に声をかけられたが、半兵衛は尚も考え続ける。
「(考えてみれば……奴らにとってこの戦は、どんな得が? 立て直せているわけでもないのに、この時にわざわざ妖共を繰り出すなんて……何でなんだ?)」
そうして半兵衛が、考える横にて。
「よし、船を回せ! このまま港へ帰ろうぞ。」
鵲丸が、水軍たちに叫ぶ。
「応!」
その、鵲丸の袖口より。
先ほどの人魂の、海の中にて潜みしものがするりと。
入っていったが、この時ばかりは。
鵲丸はおろか半兵衛も、気づいていなかった――




