格闘技の奥深さ
思いのほか、鮫島に気に入られた吾郎、鮫島から格闘技の奥深さの一端を学ぶ
『はい!お願いします!』吾郎は勢いよく立ち上がった。
『おい、お前らは構わんから先に帰っていいぞ!』鮫島は後ろの二年生三人に声をかけた。
しかし、まさか先輩を差し置いて自分たちだけ先にという訳にはゆかない。
三人は立ったまま、二人のスパーリングを見ていた。
勿論、とてもじゃないが、勝負という性質のものではない。
一方的に吾郎が手出しも出来ずにやられっぱなしだ。
でも、吾郎はやられながらも、必死で食らいついて行く。
たっぷり一時間、余分に汗を流した。
正座をして、お互いに頭を下げ終わった後で、
『おい、どうだ。みんな、腹減ったろ?俺のおごりだ。飯食いにつれてってやる!』鮫島が宣言するような声で言った。
『先輩、橋本屋ですか?』笠井と南雲が、わざとうんざりするような声で言った。
『心配するな!今日は俺の店だよ!』
鮫島が何かを宣言するような大きな声で宣言した。
何でも鮫島は、学校からバスで30分ほど行った駅前で『鉄ちゃん』という名前の中華料理屋を経営している。
いつもは店が忙しくて滅多に来られないのだが、今日は少し暇だったので、店を奥さんに任せて、こうして顔を出しに来てくれたという訳だ。
五人は校門の脇に止めてあった、鮫島先輩の車に乗り込むと、そのまま店まで連れて行って貰った。
『鉄ちゃん』は、S駅から少し奥まった路地にある、それほど大きくない店だった。
十人も入れば、一杯になってしまうくらいである。
案の定、店はまだ夕方の開店時間前で、奥さんが仕込みに追われていた。
奥さんは背の低い、色白で細面だが、愛嬌のありそうな元気な女性だ。
『さあさ、早くこっちに来て、あんたも仕込みを手伝ってちょうだい!』
鮫島先輩の顔を見るなり、奥さんは大きな声で言った。
『あら、後輩さんたちね?いらっしゃい!』
『すまねぇが、こいつらに』
『分かってますよ!』
鮫島は奥に引っ込み、白衣と白エプロンに手ぬぐい姿で店に出てきた。
三人の先輩たちは、奥さんに言われるまでもなく、カウンター席に腰かけた。
『あら、今日は一人多いのね?』
『ああ、新入部員だよ。』
『塩原吾郎です!よろしくお願いします!』
『何だか賢そうね。格闘技なんかやるように見えないな』
奥さんは笑いながら、それぞれの前に水の入ったコップを置いてくれた。
『え~と、ご注文は、いつものね?』
三人がまだオーダーする前から、奥さんはそう言った。
先輩たちも特に異議を唱えるでもない。
『あんた~、いつもの!』
『おう!』
厨房に入った鮫島先輩の声が聞こえる。
待つほどのこともなく、三人の前にそれぞれチャーハンと、スープが出てきた。
しかし、驚くのはまだ早い。
カウンターに置かれたチャーハンが、みんなそれぞれ微妙に量が違うのだ。
まず、笠井の前に置かれた皿は、それほど大きくはない。
量もどちらかというと少な目だ。
南雲のは少し多め。
しかし、遠藤と、そして吾郎の前に置かれた皿が一番大きかった。
不思議そうな顔をしている吾郎に。
『俺たちみたいに常連になるとな。先輩は全部考えてくれてるんだよ。例えば俺は今ウェイトを絞る必要があるから、量は少な目、南雲は体重をもうちょい増やさなくちゃならないから多め、で、遠藤とお前は何といってもスタミナ不足とみたんだろう。だからボリュームたっぷりという訳さ』
しかもお代わりは自由ときている。
有難いことだ。
で、これだけ食べても、高校生の懐に響かない程度しか金をとらないのだ。
『あとはお前さん達が将来出世してから、たっぷり利子付けて返してもらうから』と、それしか言わなかった。
さて、いざ帰ろうとした、その時である。
『ちょっと待ちな』
店の奥から鮫島先輩が、一冊のぼろぼろの大学ノートを持って出てきた。
笠井、南雲、遠藤の三人は、
『ああ、あれか』とでも言いたげに顔を見合わせた。
『坊や・・・・じゃなかった。塩原だったな。こいつを貸してやるよ』
『これは?』
ノートの表紙には、何も書かれていない。ただ、筆太に、
『NO.1』
と書かれてあるのみだ。
吾郎が頁を繰ろうとすると、
『後で読みな』
鮫島先輩はそういってにやりと笑って見せた。
店を出ると、もうすっかり辺りは暗くなっていた。
笠井と南雲は逆方向なので、その場で別れ、同じ方向になった遠藤と、歩いて帰ることにした。さ
『お前、鮫島先輩に気に入られたな』
ぼそり、という感じで、遠藤が言った。
『え?』
『家に帰って、ノートを見りゃ分かるよ』