謎の男、その名は・・・・
いつものように張り切って練習を始めようとした吾郎の前に、一人の男が現れた。その名は・・・・
ある日、吾郎はいつものように授業が終わると、一番に部室兼道場にやってきた。
鍵を開けて、中に入る。
この時が彼にとっては、今や至福の時間なのだ。
手早く着替えを済ませ、掃除、それから準備体操、ストレッチで身体をほぐす。
続いて軽いウェートレーニングにかかる。
腹筋を百回済ませると、次に腕立て伏せにかかった。
その時、入り口のドアが開く音がし、誰かが入ってきた。
(先輩の誰かが来たのかな)
そう思ったが、吾郎は頭を上げず、黙々と腕立てに集中した。
本当なら、頭を上げて挨拶せねばならないのだが、一度入りこんでしまうと、周りが見えなくなる性格なのだ。
その誰かがごそごそとマットの後ろのロッカーのあるところで着替えをしているようだ。
(89、90、91・・・・)
その時である。
背中に、
ズシッ!
という重みを感じた。
(ぐっ!)
息が詰まりそうになった吾郎だが、そのまま何も言わずに腕立てを続けた。
『ほう・・・・やせっぽちのくせに、意外と根性があるじゃねぇか?』
からかうような低く、太い声が、頭の後ろから響いてきた。
(110、111、・・・・・)吾郎はそのまま続け、ノルマの200回に達した。
ペタン、と、マットの上にへばり、頭を斜めにあげ、後ろを向いてみると、そこには妙な男が立っていた。
年は恐らく、50をとうに過ぎているだろう。上背はあるが、特にそれほど逞しいというわけではない。
しかし、付くべきところに、筋肉がついている。
頭は角刈りで、いかつい顔に口ひげを生やしている。
目は鋭いが、どこかに人懐こそうな感じを与える。
『あの・・・・誰?』
吾郎がそう言いかけると、男はそれには答えず、いきなりガサガサした低い声で、
『お前、レスリングは素人だろ?』と聞いた。
『はい、そうです・・・・』立ち上がり、傍らにあったタオルで汗を拭いた。
『始めてからどのくらいになる?』
『もう二か月くらいです。』
『基礎は習ったんだな?じゃ、来い!』
男はそういって、首に引っ掛けていたタオルを取り、ポンと後ろに投げた。
軽くぴょんぴょんと二・三回跳ねてから、男は腰を落とし、構えた。
関節技はまだ教わっていなかったが、アマレス形式のスパーは何度か教わっていたので、吾郎は、
『お願いします!』といい、男に向かってゆこうとした。
彼はにやりと笑い、すっと手を出した。
握手を求めているのだ。
少し拍子抜けしながら、吾郎はそれに応じた。
すると、手が離れると間もなく、彼の腕が吾郎の首に蛇のように巻き付き、そのまま腰に乗せられて、いとも簡単にマットの上に投げ飛ばされた。
あっと思う暇もなかった。
慌てて起き上がろうとしたのだが、身動きが取れない。
男の右腕が吾郎の首に巻きつき、首を軽く持ち上げているだけなのに、たったそれだけで、彼はまるでピンで止められたように、上半身がマットに張り付いたままなのだ。
と、次の瞬間、
『ぎゃあっ!』と、彼は叫び声を上げていた。
男が吾郎の右腕を自分の太ももに乗せ、上からもう一方の足で、ぐいと挟み込むようにして、肘を持ち上げたのだ。
激痛、というのはああいうことをいうのだろう。
吾郎はやっと空いている左手で、男の背中を叩かなかったら、間違いなく彼の右肘は折れていたはずだ。
男は首に巻いていた腕を離し、立ち上がった。
吾郎は、何が起こったのか、全く理解が出来なかった。
『ほい!もういっちょう!』男は右手をこちらに向けて、指を動かして誘いをかけてくる。
少しむっとしながら、吾郎はかかっていった。
太ももを狙って、タックルに行く。
だが、相手は完全にこちらの動きを読んでいたようだ。
すっと、身体を後ろに引き、手が届かない距離まで離すと、いつの間にか吾郎の腕をとっていた。
『ぎゃぁっつ!』
又しても、あっという間であった。右腕の腋を固められ、其のままマットに押さえつけられた。
腋固めである。
マットを叩く。
再び起き上がる。
またかかってゆく
だが、その度に、右腕、左腕、足首、膝、そして首と、ありとあらゆるところを固められ、最後は声を上げてマットを叩くしかなかった。
どのくらいそうしていたろう?
『おい?どうした?坊や、もう止すか?』男はにやにや笑いながら、両手を腰に当ててこちらを見下ろしている。
『・・・・・・』吾郎は何も答えず、肩で息をするばかりだった。
『あれ?鮫島先輩じゃないすか?』
彼らの後ろで声がした。
吾郎が頭を上げると、そこには笠井、南雲、遠藤の三人が立っていた。
『よう、お前らか』
『何をしてるんです?』
『久しぶりに暇が出来たんで、寄ってみたら、この坊やが一人で練習してるもんだからな。ちょっと遊んでやったのよ』と、鼻をこすりながら愉快そうに言った。
『スパーをやったんですか?関節アリで?でも塩原にはまだ教えてないんですが』
『みたいだな。でもこの坊や・・・・いや、塩原か、なかなか根性があるぜ。』
『おい、塩原、ちゃんと立って挨拶をしろ。この人はナ・・・・』と、笠井がそばに来て言った。
彼の名前は鮫島鉄兵。
笠井の中学時代の柔道部の先輩だそうだ。
鮫島・・・・鉄兵・・・・
『あっ!』
マムシの鮫島!
ようやく思い出した!
すると周りから、どっと笑い声が起こった。普段はあまり感情を表に表さない遠藤まで愉快そうに笑っている。