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ノスタルジックな文章ください

ノスタルジックな冬の文章ください 

作者: 林行

 真上から見ると、鋭角なフォルムを持つ紙飛行機にも似た、世界旅行にはうってつけのクルーズ船が夜の海を一直線に横切っていく。夜の闇の中、海は虚空に張られた黒いベールか、あるいは虚空そのもののようで、わずかな波すら立たない。視界に収まる限り、周囲には何も見えない。


 不意に青の光線が大海を果てまで貫いて航路を照らしだす。海抜のはるか上空、クルーズ船の機関部から突出し要塞のように聳えるブリッジ、その上層に位置する操舵室から命令が発され、そのさらに数階上に設置されたライトが作動したのだ。進路に障害はないことが確認され、強烈なハイビームが再び消灯される。すると海は明かりを消された子供部屋のように寂しくなる。


 実際、氷山の一つくらい流れてきそうな寒さだった。

 少年は毛布にくるまって夜の海を見つめていた。


 ここは摩天楼のようなブリッジのたもと。それでも前方の大甲板より少し高い位置にあり、ここに立つと、下で暖かい寝袋にくるまりながらデッキチェアに死んだように横たわる乗客の姿が見える。わずかだが、熱を発しながら忍耐強く運動を続ける機関部の振動が足元まで伝わってくる。大食堂のどよめきが遠くに感じられ、獣の甲高い悲鳴ともとれる人声が、客室の窓から不意にここまで届く。


 「さぼってるのか」

 跳ね上げ式扉が開いて若い航海士が顔を出し、敏捷に昇降口から鋼鉄製の甲板へと体勢を移動させる。見ると片手には食堂から持ち出してきたらしい夕食を包んだ紙の袋と、酒瓶を抱えている。その荷物でここまで来るのは大変だったろうと少年は思う。通路は狭く、複雑に入り組んでいるのだ。


 「灯台の下は暗い。山の中に人は来ない。密航には最適だろう?」

 寒い、寒い、と言いながら腰を下ろし、(航海士は少年が包まっている毛布を自分の肩にも掛けた。それくらいの余地は十分にあったのだ)手慣れた、滑らかな動きで食事を広げていく。コルクが抜かれる。

 ――密航じゃない。くたくたになるまで働いているじゃないか。

 「その甲板員見習いの群れにわたしが潜り込ませてやったんだ。木を隠すなら森の中ってね」

 「でもここにいるみんな、自分は正式な見習いじゃないっていうけど」

 「そりゃ見習いだからな。見習いってのは半端モノって意味だ」

 食え、食え、と航海士は手で少年に示す。

 「ま、これくらい巨大な船だと、誰もいちいち相手のことなんて気にかけないさ。お前は働いているだけまだましだが、たぶんさぼりどおしの本物の密航者もかなりいるな。乞食みたいなもんだ。いるだけ、生きているだけで、迷惑はかからない」

 「でも、このままだと食糧が足りなくなるって噂も」

 「そのときはお前たちが真っ先に海に放り込まれる」

 少年はすこし青くなって目の前のローストチキンのサンドイッチを手に取り、食いつく。もちろん大食堂の余りものだ。

 航海士は大声で笑い始めた。笑い声が静かな海面に響き渡る。風もない。波もない。


 少しだけ寒い。いや、ほとんど寒さを感じない。


 航海士を怪訝な顔で見ると、彼女はもう笑うのを止めていて、ただ、これは妙だぞ、とだけ言い、しゃんと伸ばした背筋のまま、水平線を見つめていた。


 目の前の真っ暗なスクリーンに一筋の銀の線が浮かび上がる。

 銀の線は左右にするすると伸びていく。今まで見分けのつかなかった水平線と平行に伸びていく。

 それから直線はその両端から、こちら側へと湾曲をはじめる。湾曲する線は今、奥の直線とともに、巨大な半円を作ろうとするかのようにこちらへと伸びてくる。

 しかし、その二つの線は、つながらないままに曲線を描くのを止めてしまう。


 少年はその形からすぐにあるものを連想した。これは防波堤に囲まれた港だ。


 その間にも、奥の銀色の直線からはゆっくりと金色の光が溢れてくる。

 その金の光を滲ませながら、どこか平面的な印象を与えるフォルムがゆっくりと浮上する。それは劇場の書割に似ている。ぎらぎらと照り映える望楼、赫奕とした尖塔の頂点が、銀の線から顔を出す。まるでポケットから鉛筆が顔を出すようだ、と少年は思う。

 つまりこれは、海に浮かぶ街だ。

 時計台がせり出してくる。看板が揺れている。観覧車が回っている。どれもイルミネーションで照らされているように光っている。いや、実際に照らされているのだろうか?この距離からではまだ確認できない。でももう船は今、目の前の防波堤の脇を抜けて、入港しようとするところだ。湾内では小さな艀が動き回っている。もう港をうごめく無数の人間たちの姿が見える。

 

 ふと少年は、港の正面にどうと聳える市庁舎風の建物――無数の鐘楼を備え、稠密な装飾が壁面に、数百のガラス窓の縁に、凝らされている――の一室のベランダに、華奢な人影が立っているのに気付いた。それから少年は彼女が真夏の海に行くかのような軽装であることを見て取り、凍えるのではないかと訝った。

 「なるほど、こうなると寒さも感じない」

 航海士が楽しそうに呟く。

 少女は欄干にすこし寄りかかるようにして、こちらに手を振っている。少年と目が合う。彼女は微笑んでいる。

 どこからか歓声が聞こえる。船の乗客たちだろうか?それとも港に集まった群衆が叫んでいるのか?あるいは両方?それにこの音はなんだ?鐘楼だ――幾百もの鐘が狂ったように打ち鳴らされていた。なんの統制もなく、ただ割れんばかりに鐘の音が響いていた、それでいて、その音は、明らかに歓迎の音楽だった。――船が次第に速度を落とし始めた。


 航海士がパチンと指を鳴らした。


 数秒ののち、ブリッジから最大出力で青い光線が放たれ、まず正面の市庁舎を貫き、それからゆっくりと左右の街並みを、舐めるように吞み込んでいった。光線は高層の望楼を、重厚な講堂を、広場を、それから蝟集した人間たちを、やすやすと消し去った。海の上の街は灼熱に溶けるようにして、海の底へと沈んだ。


 「目を固くつぶってしばらくすると、瞼の裏にとらえどころのない形が浮かんでは奇妙な動きを見せる。夜の海でも、今日のような星も月も出ない真っ暗な水平線上には、ほんのときたま、蜃気楼めいた光の光景が現れることがある。そして視覚は通常、人間の五感のうちで最も支配的な官能でしょう?それで別の感覚も狂わされるってわけ」

 呆けたような顔の少年に航海士が得意げに解説を加えている。目の前にはもうなにもない。暗い。それに、寒い。

 「食事、冷えてるな」

 目を落とすと、甲板の上では乗客たちが暖かい毛布に包まり、なにごともなかったようにデッキチェアに横たわっている。少年はなんとなく腹立たしくなった。

 「おおい」

 間延びした声とともにハッチが引きあけられた。大柄な青年が窮屈そうに肩を出す。

 「お前ら、なにこんなところでいちゃついてるんだ」

 「うるさいぞ、いつまでも水夫仕事のくせして」

 「俺は単に狭いブリッジの階段を上ったり下りたりするのが・・・なんだ、星が出てるじゃないか」

 青年がハッチから半身を出したまま空を見上げる。

 ブリッジのそこここに掲げられた旗が音を立ててはためいている。分厚い雲がゆっくりと動き始め、透き通るような満月が姿を現した。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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