仁さんのメッセージ
仁さんのメッセージ
「あの頃は、戦後、間もない頃で皆生きる事に必死だったんだ。次兄も20代の若さで
家業を継いだから、大変だったのだろう。
でも、私には忘れられない思い出があるんだ」
仁さんは、私と時子の方に心持ち、顔を向けた。
「あれは、私が高校に入った時だった。学校に授業料を持っていかなければいけない
事があってね。私が次兄にその事をいうと、次兄はその代金を持ってきて、思い切り、
私の顔に投げつけたんだ」
仁さんは、再び、顔を真っ直ぐに海の方に向けた。 遠い記憶を手繰り寄せながら話してい る仁さんの顔が私には眩しく見えた。
「その時は、私だけがなぜ、こんな思いをしなければいけないのかと、次兄や
亡くなった両親の事も含めて、世の中全体を恨んだ事もあった。
しかし、あの当時を振り返れば、私なんかより、もっともっと苦しい思いをしている
人が、世の中には星の数ほどいたんだ。だから、今では次兄の事を何とも思って
いない。私が兄の立場でも同じ事をしたかもしれない」
それから仁さんは、私と時子の顔を見て、ゆっくりとした口調で言った。
「真也君、時子さん。私はね、この世の中に百パーセントの幸せなんて存在するとは
思っていないんだ。例え、5パーセントの幸せ、いや、1パーセントの幸せであっても
それを求めて生きる、人生とはそういうものではないのだろうか」
私は、仁さんの言葉に どう返事していいのかわからなかった。
時子も、ただ、黙って海を見つめていた。
私の心の中には、仁さんの言葉に対して何か言えば、私の気持を支えている何かが
崩れ去ってしまいそうな不思議な感覚が芽生えていた。
しばらくして、時子が口を開いた。
「そろそろ、戻りましょうか。私、お腹が空いたわ」
私は、時子もまた、心の中の自分でもわからない感覚を持て余しているのだと思った。
その言葉を今ここで探し出すには、私と時子の心は幼すぎたのかもしれない。
私たちは、その日、それ以上多くを語ることをしなかった。3人で再び駅まで
引き返し、黙々と温かいうどんを食べた。
私はなぜか、涙が出そうになった。
3人それぞれ、自分の中にある何かと対話をしているような不思議な時間だった。
私たちは、電車でN駅まで戻った。
そして、ただ、3日後の午前9時にいつもの駅前の広場で落ちあう事だけを約束して、
その日は別れた。