時子の境遇
時子の境遇
その老人も、私達二人に気付いたようだ。私達3人は互いに歩み寄った。
これが、私達3人の最初の出会いだった。
私は、70歳を過ぎた老人がネット心中を考えるだろうかと少し不自然に感じたが、
直ぐに70歳を超える年齢になっているからこそ、生きることがつらくなることも
あるのだろうと思い直した。
その老人は自分の事を「仁さんと呼んでほしい」と言った。昔からその愛称で呼ばれて
いるようだった。
「少し、静かな場所で話をしませんか」
と時子が言った。
それから、私達は時子に案内される形で、歩き始めた。時子はこのN駅周辺に土地勘が
あるようだった。私達は駅前通の商店街を少し歩いて、右に折れる形で細い路地に入った。
その途中にある喫茶店の前で、時子は私と仁さんを振り返った。
「ここなら、落ち着いて静かに話せるわ」
と時子は言った。その店の看板には「喫茶 やまと」と書かれていた。
店の中に入ると、確かにそこは一つ一つのボックスが離れていて、どんな話をしても
他の人に聞かれる心配はなさそうだった。
それでも、私達は一番奥の周辺に誰もいないボックスに腰を下ろした。
私が奥の店の出入り口が見える位置に座り、仁さんと時子が、私の前に並ぶ形だった。
私達の間に気まずい雰囲気が流れた。当然だ。これから心中の話をするのだ。
明るい気分で話せるものではない。
「今日は、お互いに初対面だし、簡単な挨拶にしておきませんか」
と私は言った。知り合っていきなり、死の方法について話し合うのは流石に躊躇われた。
私の言葉に頷くように時子が口を開いた。
「私は一人で死ぬ勇気がありません。だから、悪いと思いながらも、こういう手段を
使ってしまいました。ごめんなさい。
だから、私もあなた方二人の詳しい事情について知りたいとは思いません。ただ、
こういう形で顔を合わせるのも何かの縁でしょうし、お互い、必要最小限のことは、
知っておいた方がいいのではないでしょうか」
時子は予め、そう言おうと考えていたのであろう。私と仁さんに同意を求めるように
改まった口調で言った。もちろん、私と仁さんに異論はなかった。
時子は静かに話し始めた。
「私は東北地方のある田舎町の出身です。海岸線にある海の美しい町です。
私は農家の一人娘として生まれました。小学校に入る頃までは幸せでした。
私が最初の不幸に見舞われたのは、私が小学校の3年生の時です。
母が病気で亡くなりました。私は強いショックを受けましたが、これからは父を支えて
頑張っていこうと気を取り直しました。
私の人生がおかしくなり始めたのは、中学に入って、父が再婚してからです。
相手の人は、前の旦那さんと離婚していて、私より一つ年下の息子がいました。
ただ、私はこの親子との生活に馴染む事が出来ませんでした。人には話せない嫌な事が
一杯あり過ぎたからですました」
時子はここまで言うと、声を詰まらせて、指で目の涙を拭った。
「そこで、私は高校の時に父に問いかけました。お父さんはあの人との生活を選ぶのか、
実の娘である私との生活を選ぶのかどっちなのよって」
時子の口調が少しきつくなった。
「結局、君のお父さんはその女と暮らす道を選んだんだね」
と仁さんが優しく言った。時子は頷いた。
「私はそれで家を飛び出して、都会に出てきたのです。それからは本当に大変でした。
人にだまされて、とんでもない目に遭った事もあります。でも、今日まで精一杯、
私なりに生きてきたつもりです。しかし、もう、限界です。メールにはOLなんて
書きましたが、半分は水商売のようなものです」
時子は話し終えるとハンカチで目を拭ってから、寂しそうに笑った。