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青天の霹靂。
4月らしく晴れた空の下。
大学に隣接する教会から流れ出す澄んだ鐘の音を聴き、最寄駅から大学への道を歩きながら、宍崎理人はふとそんな言葉を頭に思い浮かべた。
始まりはいつも、前触れもなく突然日常の中に飛び込んでくるものだ。
そう、2年前のあの日も…。
端正な貌にどことなく儚げな表情が去来する。
小さい頃から女の子みたいだと言われてきた自分の顔が嫌いだった。
線が細く、綺麗な顔立ちをしていることは必ずしも忌むべきことではないと分かってはいたが、それでも女の子らしさを払拭するために小学生の頃から剣道を続けてきたというのは半ば事実だ。
もっとも、その剣道も2年前のあの出来事をきっかけに、ぱたりとやめてしまった。
今では竹刀も触らない。
吹いてきた風が一寸その綺麗な顔を顰めさせ、すぐにその儚さは掻き消えた。
2限は、これまでに取り損ねた一般教養の授業を取っている。腕時計を見ると、2限の開始時間まであと10分。
この4月から3年生になるが、友達付き合いはあまり広くない方――というよりむしろ一匹狼を決め込んでいるため、出席票の代筆を頼むあてはない。況してや春学期が始まって僅か1週間、できれば目立つ形での遅刻は避けたかった。
そんな急いた気持ちの中でも、彼は登校時に必ずある方向を見遣る。
大学通り沿いの土手にはびっしりと桜の木が植わっており、すっかり花びらの散った青い枝が彼を迎える。
この景色を見るのも、もう3年目だ。
彼らを、視るのも。
教会の鐘が鳴っているときはたいていの場合、ある者たちが木の陰から教会の方へぞろぞろ出てくる姿が見られるのだ―――
“この世に在らざる者たち”が。
死してなおこの世に残る霊魂の姿を、彼は視ることができた。
いわゆる霊感の強い彼だが、この世にないものがみえること、またそれらの存在については特に深く考えずにいた。
ただ、視えている霊たちを横目に
(今日も元気だ、ね)
心の中でだけそっと呟いて、ポケットのスマホを取り出し、ポータルにログインして、忘れてしまった教室の場所を確認する。
「…2限教室変更!?」
慌てて変更先の教室へと急ぐのだった。
*
「ここだね、ミカエル」
3-248と表示された教室の前に立つ一人の女学生。
栗色の髪を二つに結び、白い肌に大きな瞳が知的に輝く。
白いブラウスに黒いフリルのついたジャケット、胸元には大きな十字架をあしらったネックレス。
下は黒いフリルのついたパニエと真っ黒なブーツを身に纏い、極めつけにハート型の鞄を肩にかける彼女はさながら人形のようだ。
「…けっこう人気の授業みたい。人多くて危なそうだし、しばらくは様子見だね。」
独りごちた言葉は、誰かの返事を待つような響きを持っていた。
女学生は教室へ足を踏み入れ、空いている一番前の席へ腰掛ける。
4月初旬の浮き足立った一般教養の授業でひとり座る彼女を、その目立つ風貌も相まって、幾人かが好奇の目で見詰める。
彼女はそんな視線は歯牙にも掛けず、左腕の、彼女には珍しいハイブランドの時計を覗いた。
11:00、授業開始時刻だ。
初老の男性教師が入ってきて、すぐに出席票を最前列の彼女に渡した。
”A1163233 黒沢 雛 ”
と手早く書き込んだ彼女――黒沢雛は、出席票を後ろへ回し、胸元に光る十字架のネックレスを所在無げに弄っている。
*
理人が3号館へ駆け込んだのは、結局授業が始まってから数分後のことだった。
3-248の教室名を確認してドアを開けると、折しも出席票はすでに列の半分位まで回ってしまっている。
ひやりとしながら空席を探したものの、結局最前列しか席は空いておらず、気まずさを全身に感じながらもそこに座った。
同様に遅れてきたのだろうか、右隣に座るフランス人形のような女の子は、なんだか違うベクトルの派手さであまり関わりたくないタイプだ。
息を整えて前を向くと、感覚がだんだん鋭敏に研ぎ澄まされていくのを感じた。人間以外の誰かに見られているような、重くのしかかる空気を感じる。
彼はその視線の元を追わないようにする。
これは何時もの癖で、視えていないふりをしたほうが危険な目に遭わずにすむだろう、と素人なりに考えてのことだった。
そもそも霊感が身に付いてしまったのも、ついここ2年のことなのだから。
それでも感じた。
この教室には、何かがいる。先週の変更前の教室には存在しなかった何かが…。
「~%#$~~……WTO体制に移行するまでの~…はどう思う?
じゃあ、遅刻してきた君」
教師に突然指名されたのは理人だった。
ふと思考が破られた瞬間、教師の背後に蠢く闇を視た。
(なんだ!?)
しかし直ぐにそれが、自分にしか視えないものだと気づき身震いをする。
心臓が早鐘を打つ。背中にじっとりと嫌な汗をかいていた。
毎日視ている、あの霊たちとは違う感覚…
異形の生物。姿かたちは人間に似ているが、体長は2メートルほどで、ケンタウロスのような体躯。
その全身は漆黒の体毛に覆われ、その中にぎょろりとした双眸が見るものを恐怖に陥れる―――、教師の後ろから真っ直ぐにこちらを視ている――
否。視ているのは右隣に座る女の子だった。
次の瞬間、その異形の生物は隣の女の子に飛び掛かっていて―――
理人は、無意識のうちに立ち上がっていた。
自分でもわけがわからないうちに彼女を突き飛ばしていた――――
「きゃっ!?」
「!?!」
「え、何?!」
教室中が唖然とする中、彼は無我夢中だった。異形の生物は理人にターゲットを移したようで、ゆっくりとその眼を彼に向けた。
「ちっ…」
突き飛ばした右方向から舌打ちが聞こえた。
彼女に目線を向けるコンマ数秒の間に、突き飛ばしたはずの女の子は理人の手を掴んだ。
(だめだ、)
と彼は思う。
誰にも視えていないけれど、ここには怪物がいるんだ。どうしたら…どうしたら……
その女の子の視線が、理人を射抜く。
知的で可憐な、鳶色の瞳。
心臓がドクンと脈打った。
――何かが変わる。
自分の中で何か大きなものが、変わっていく気がした。