加賀美恵梨香の本音
いつも、遠くからその人を見ていた。
同じ教室の廊下側の一番前の席からちょうど対角線。
窓際の後ろの席に座っている人。
どこか飄々としていて、他のクラスメートとは明らかに大人で、何か悟ってしまったように物静か。
耳が隠れるくらい伸びている黒髪。
あまり表情が変わらないのがクールという感じ。
クールというより、無理に笑おうとしないと言った方が的確かもしれない。
そんな彼がにかっと笑うのはいつでも綾乃の前だけだった。
小林瞬。
綾乃の後を追いかけるように成績も良くて、クラスのヒエラルキーも上。
そのクールさから女子から人気だった。
というのは委員長から聞いた。
だから綾乃にトイレで泣いていたあのドン底から救い出してきてくれるまで、小林のことなんか知らなかった。
あれはきっと放課後。
綾乃が珍しく熱を出して学校を休んだ。
高校3年の秋で、委員長はなの、ごめんね。
と言って先に帰ってしまった。
私は呑気で、塾も行ってなかったし、幸い両親も口煩くないから学校に残って綾乃に渡す資料を作っていた。
日も傾きはじめて、夜の帳が落ちる頃、ドアが開いた。
びくっとしてドアの方を向くと、相変わらず飄々としている小林瞬がたっていた。
「小林…くん」
小林は右手を挙げるのを挨拶代わりに、教室に入って、何の迷いもなく私の席の前に座った。
「偉いな。これ、綾乃のためだろ?」
小林が綾乃、と呼んだことに驚きを隠せない。
だっな二人は普段全く話さない上に互いを名字で呼んでる。
接点なんてあるって信じられないくらいよそよそしいのに。
「あ、そのこれはそうなんだけど…」
小林は私がまとめたノートをパラパラ捲っている。
指が長くて綺麗でかっこいいというより美しいという表現が似合う。
「綾乃が珍しく正義の味方みたいなことするぐらいだから加賀美は相当だな」
「どういうこと?」
あの日いじめから救ってくれた理由を私はよく知らない。
綾乃に聞いても気が向いただけなんてはぐらかされてきた。
「加賀美のこと、すごいって言ってた。あんなに理不尽なことされてるのに教室ではそんな素振り見せないって。それくらい強くなりたいって」
綾乃は完璧で、強くて、意思がしっかりしてる人だと思っていた。
だから憧れていた。
いつも私の一歩先にいく彼女は光のようだった。
「綾乃がそんなこと…」
「俺、柄にもなく嫉妬したよ。綾乃は孤高の女性で、俺しか頼れるやつなんていないってバカみたいに自惚れて」
「何…その自信」
クールで我関せずタイプかと思っていたら、俺だけだみたいなナルシストな部分もある。
そのギャップに苦笑した。
「綾乃が好きだからね。あいつに釣り合うには自信がないと」
小林は肘をついて窓の外を見ていた。
夕日、が完全に沈む一歩手前の空。
さらりと言ったことに私は言葉を失った。
「え?それって恋愛の好き?」
小林は余裕綽々でにかっと笑った。
綾乃だけに見せるようなあの表情で。
「それ以外に何の好きがあるの?」
***
「え!?坂上と付き合ってる?」
小林は学食に私を呼び出して、あの日みたいに余裕綽々でそんなことを言った。
「そうらしい。びっくりだな」
「びっくりだな、じゃないわよ!好きな人取られてんのよ!?もっと焦りなさいよ!」
学食で騒ぐ私を学生に見られているのも構わず大声で話す。
それでも小林はやはり飄々として涼しい顔。
さして気にもしていないように見えた。
「いいんじゃない。坂上くんと付き合ったって俺や加賀美との関係が冷え込むわけじゃない」
「そうゆう問題じゃなくて!」
小林は呑気にコンソメのポテチなんかパリパリしながら私を見ている。
なぜにこんなに私が騒いでいるのか。
アホらしくなってくるほど。
ようやく落ち着いて椅子に座り込むとポテチを食べてる手を止めた。
「加賀美はいつも一生懸命だな。元気が出てくるよ。綾乃もお前のそこが気に入ったのかな」
小林は急に人を誉める。
それは的確だし、何よりかっこいいから言われて悪い気はしない。
思わずどきどきするのは、大学に行っても馴れなかった。
「またそんなこと」
「本音だよ、本音。俺はお世辞言えないたちだから」
ため息をつく。ポテチを食べる。
私の本音は今日も言わない。
綾乃ばっかりじゃなくて私も見てる?
なんてそんなこと言えない。
***
綾乃が黙っていなくなって、不覚にも小林と過ごす時間は長くなった。
委員長にも連絡してみたけれど、一向に手掛かりは見つからなくて、電話をかけ続けても、出てはくれないし、ひどいときには繋がらない。
小林は旗から見てもわかるほど、疲れていた。
ああやはりこの人は綾乃がいないとだめなんだって思い知る。
「綾乃は家には帰ってるんでしょう?」
実は綾乃の家には何回も行ってる。
でもその度に家の中は暗くて、目の前に住んでいる小林も明かりをついたところは見ているものの、人の気配があまりないと言っていた。
「たぶんな。ただ綾乃がいるかどうかは俺にも分からない」
いつの日か、綾乃が小林は空気みたいな人だって言ってた。
何それ?と聞いたら綾乃はこう答えた。
―たぶん瞬も同じこと思ってるから
「小林にとって綾乃って何なの?綾乃の彼氏は坂上くんなのに、それ以上の何かあるの?」
小林は黙ったままだった。
たぶん聞かなくても分かるのに、小林から出てくる言葉に違うかもしれないなんていう甘い考えがある。
それは期待というのかもしれない。
小林はぼーっと窓の外を見ながらまるで独り言を言うように呟いた。
「空気だよ。ないと生きていけない」
私の中で何か弾けてしまった。
期待なんていう空気の抜けた風船をぶらさげていたけど、あっさり萎んだ。
分かっていた。
分かっていたのに、私はどうしていつも無理に自分を傷つける道を選ぶのか。
いじめだってそう。
私が黙ってれば丸く収まるなんて考えてた。
いつも私は人のために自己犠牲を払う。
「ねえ、何で綾乃に好きだって言わないの?」
小林は私のことなんか見ていない。
それは随分前から分かっていたし、それが覆る可能性なんかなかった。
綾乃が小林の中に存在する限り、ありえなかった。
だからせめて綾乃とくっついて欲しい。
そしたら綾乃とも小林ともうまくやれる、これからも、その先も。
「言ったら壊れる気がしたんだ。綾乃の理解者であるこの立場も親友であるお前との関係も」
「私も?」
私と逆の考えをしている小林。
同じベクトルに向かったことなんてきっと一度もない。
「だって恋愛は永遠じゃない。いつか終わりが来てそのときあのままがよかったって後悔する。加賀美にとって綾乃は全てだし、綾乃にとっても加賀美は全てだ。そこに俺が割り込んでしまったら、もう元には戻れない。君らの友情はそれくらい強い」
「何言ってるの?私か綾乃と一緒に小林のこと嫌うとかそんなこと考えてたの?何よ、その根拠のないリスク」
「伊藤見てても思うだろ?距離が最初から近すぎる男女はそれ以上前に進もうと思うと躊躇う。何故だか分かるか?この立場を崩したら自分の居場所はない。そう思うんだ。それは坂上も同じだよ。二人見ていると互いに理想になろうとしてらのに傷つけてる。そうなりかねないと思ったんだよ」
それはため息が思わず出るくらいひどい屁理屈だった。
クールでぶれない、かっこいい小林瞬。
ナルシストで、でも綾乃が好きな気持ちは誰にも負けないそうにかっと笑ったあの日。
その真っ直ぐさに惹かれてここまで来たのに。
どうしてそんな言い訳しているのか。
思わず思いきり机を叩いた。
びくっと肩を震わせた小林は、目を見開いて驚いた表情を隠さなかった。
「ばっかじゃないの!?何その屁理屈!昔綾乃のこと好きだって自信持って言ってたじゃない!綾乃に釣り合う為には自分に自信がないとって。自信家でナルシストの小林瞬はどこに行ったのよ!?私が見てきた小林瞬は目の前にいるあんたじゃない!!」
自分でもよく庇ってる理由は分からなかった。
でもそれはたぶん堀田と話していたことと同じ理屈が通るとは思う。
綾乃も小林も好きだから、大切だから。
最大の理解者になる。
それが光と影の"影"の仕事だし誇りだから。
「私はね!あんたのそうゆう根拠のない自信があるところが好きなのよ!!真っ直ぐで何か人を惹き付ける能力かある。それが今は何?しみじみしちゃって、どこの被害者気取りよ!!ちゃんと言うこと言ってからそんな顔しなさいよ!!今のあんた見てても腹立つけど、何にもできない私もふがいない!」
いつの間にか泣いていて、私は崩れるように座り込んだ。
これでいいのよ。
これで。
小林が少しでも自信を取り戻してくれたら、綾乃だってひょっこり戻ってきそうな気がした。
きっと私がいくら頑張っても、小林は私を見ないし、綾乃は探し出せない。
小林が目の前にしゃがみこんでそっと右手で頭を撫でる。
顔を上げると、小林は少し寂しそうに笑っていた。
「俺、お前のその必死さ大好きだぜ。きっと綾乃にとっても光のようだったと思う。俺も綾乃もきっとお前は空気みたいなんだ。今ガツンと言われていろいろ考えたよ。確かに、自信どこかに置いてきたかもしれないな」
「私が二人の空気…?」
「そう。潤滑油でもあり、背中を押してくれるようななくては生きていけない存在」
嬉しかった。
二人にとって私の存在はただ際立たせるだけの影かと思っていた。
―光のようだったと思う。
本当、この人の言葉はいつも優しくてどきどきする。
この感覚を味わってもう4年。
いつしかトイレでずぶ濡れの私に手を差しのべてくれたあの日から今日まで、きっと私も二人は空気でもあり、理解者でもある。
「綾乃に会いたい、な」
ふと漏らすと小林はゆっくりと私の頭を胸に抱き寄せてくれた。
「俺も。また3人で話したいな」