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伊藤麻由子の心内

坂上が血相を変えてこの小さな軽音部や部室を飛び出して、その後を追いかけるように堀田が出ていくと、私一人だけ取り残されていた。

状況は何となく読めた。

堀田が何の罪もなく話した小林瞬のことが引き金だったのだ。

恵梨香ちゃんとも話していたんだ。

坂上が小林瞬の存在を知ることになれば、それは確実に二人にとっていいことではないだろう。

綾乃ちゃんにとって小林瞬は空気みたいなものだったんだ。

恋人関係にはならない。

でも互いに居ないと生きていけない。

お互いの人生を半ぶんこして暮らしているような二人だったから。

恵梨香ちゃんからそれを聴いて私も黙ることにした。

あんなに目を輝かせて綾乃ちゃんを紹介した坂上のことを考えるとそれが一番幸せだと思ったんだ。

今までまともに恋愛なんかしてこなった坂上の本気を私は応援しようって考えてたから。

坂上のギターはフェンダーのムスタング。

青のボディが爽やかだけど、扱いづらいギターとしても有名。

これを選んだとき何故か私を連れていった。

当時ソラニンという漫画が大好きだった私はその主人公の種田が持つギターに、憧れていた。

自分が弾けるわけじゃないのに、希望を出して、

坂上は躊躇いもなくこれを買ってた。

バカじゃないの、って話しても坂上は笑うだけ。

「何で?伊藤が選ぶものに外れなんて俺の記憶ではないよ。伊藤が選ぶと、持ちがいいんだ」

嬉しかった。

坂上に必要とされてる自分。

理解者である自分。

でも絶対お互いに触れることなんてなかった。

それが良き理解者のポジションだって思ってた。

でも、綾乃ちゃんが現れて、私は焦った。

もう居場所がなくなる。

必要とされなくなる。

こんな近くにいるのに、私は坂上に触れることは許されない。

椅子に座ってムスタングを見つめた。

「海ちゃん」

小さな声で呼んでみた。

届くわけないし、絶対本人の前では言えないのに。

「海ちゃん!」

前は会いたいななんて思わなかったのに、最近はすごく思う。

連絡が一ヶ月もとれない風のような彼女ばかり追いかけて、いつも側に要る私には目もくれない。

だから、辛くて、辛くて、時が経てばたつほど、坂上が遠くて。

なのに、坂上は伊藤!って声かけてくる。

いっそ無視してくれれば、こんな気持ち知らなかったのに。

立ち上がって服の皺を取る。

ここにいても坂上も堀田も戻ってこないことは分かっていた。

そんな時間は無駄だ。

ため息をついてドアノブに手をかけた。

力も入れてないのに、ドアが開く。

「坂上…?」

坂上はひどく疲れていて、ドアを閉めると寄りかかりながら座った。

脱け殻が、目の前にいた。

あのかっこよくて、何でもできて、完璧な坂上が

崩れていた。


***

「とりあえず飲みなよ。落ち着く」

脱け殻のような坂上をどうにか椅子までつれてきて

暖かいコーヒーを入れた。

私はその斜め向かいのソファーに座って、ココアを飲んでいた。

坂上は何も言わずにカップを見つめるだけ。

「何があったのよ?」

坂上は顔をあげなかった。

またもや声になんか出さなくて、黙りを決め込む彼を見る。

「小林瞬のこと、知ってたのか」

「え…」

恵梨香ちゃんと話していたタブーな人物。

坂上に幸せになってもらうには話せなかったこと。

「小林瞬に会ったの」

「ああ、さっき。綾乃は自主退学したって言われたよ」

「何言ってんの!?綾乃ちゃんが自主退学なんてするわけないじゃない!!」

机を叩いて立ち上がると乾いたコンクリートの壁に音か跳ね返る。

「本当だよ。たぶん。綾乃はもういない」

「ちゃんと確かめたの!?情報が違うかもしれないし、小林瞬が嘘ついてるかもしれないし!」

「どうして嘘ついてるなんて思うわけ?」

「そんなの…!」

綾乃にとって空気みたいな存在だから。

言いそうになるのを堪えると坂上は諦めたようにため息をついて顔を上げる。

「やっぱり、分かってたんだ?小林と綾乃の関係」

ああこの人はたぶん知ってしまったんだ。

小林と綾乃が互いになくてはならない存在であること、その間には入れないこと。

力が抜けて倒れるように座り込む。

必死に守ってきた坂上の幸せが、崩れる。

「なあ、伊藤はどうして黙ってたんだ?小林のこと」

「それは…話すタイミングがなかったから。小林の話が出るわけでもなかったし」

「違うだろ?加賀美に黙ってて欲しいって言われたんだろ?すべては俺にばれないために」

「それは違う!」

「何が?」

坂上は落ち着いて話を進めていた。

動揺もしない、取り乱さない、でも生気がない。

悲しそうな目でただただ私の答えを待ってる。

こんな目を見たのは初めてだった。

「私が…言わない方が良いと判断したからよ」

坂上が肩をぴくっと震わせた。

「知ったところで坂上にメリットなんてなかったから」

「そんなの余計なお世話だよ!綾乃とのことなんだ、お前なんかに関係なかった。俺がそのことを知って、損か得かなんて伊藤が決めることじゃない!」

急に声を荒げる坂上に後ずさりした。

でも逃げるわけにもいかなかった。

私がしたこの判断ミスで綾乃がいなくなるなんて信じたくなかった。

「関係あるのよ!あんたが幸せになってくんなきゃ、いつまでも私一人で辛いもの!」

「は?」

「あなたが私に綾乃ちゃんを紹介してくれたとき、正直すぐ別れると思った。またいつものように坂上の別れ話を聴いて、慰めて、良き理解者であることを望んでいたのよ」

ぐっと握りしめた右手を見つめながら続きを話す。

坂上はまだ口をぽかんと開けている。

「でも違った。坂上は本当に幸せそうで、綾乃ちゃんが今度私の代わりに理解者になる。それならそれでしょうがない。小林のこと聞いたとき、絶対黙ろうって決めたの。これでまた坂上が戻ってきてしまったら、私はまた期待する。私の恋は終わりを告げない、そんなの嫌だった。諦めたかったのよ」

坂上のことは昔から好きだった。

海ちゃんって呼んでたあの頃から変わらない。

でも坂上にとって私はそういう存在じゃない。

何でも受け止めてくれる都合のいい女。

言わなくてもいいことを言った私は涙が止まらない。

言ってメリットなんてないものを。

口に出して、それで何が解決するの。

坂上は思ったよりも冷静にことの成り行きを受け止めているように感じた。

驚いたような声も出さず、動揺もせず、ただこちらを見ていた。

まるで予想してたかのように。

「本気なのか」

ゆっくり低い声で発した言葉は意外なものだった。

てっきり「嘘だろ?」とか「冗談だろ」って言われると踏んでいた。

恥を偲んでどうにか伝えた大切な言葉なのに、坂上は慣れたように受けとめた。

これが私と坂上の経験値の違いなんだとぼんやり考える。

「その…えっとまあ…」

変な受け答えをすると妙な汗が吹き出る。

坂上は笑った。

口を開けて豪快にではなく、悲しそうな目をして。

「時々、お前に嫌われることが怖くなる時がある」

坂上は唐突に話を始めた。

身構えていた体の緊張が溶けて背もたれに寄りかかる。

「また今日も俺のだらしなさを見て、日に日に伊藤は嫌にならないだろうか、そんな不安を持って話していたんだ。だからお前が昔俺に最低、と言葉を投げ掛けたとき、なんでも受け止めてくれるなんて甘い考えなんだろうって思ったんだ。」

話の意図はさっばり分からなかった。

昔そんなことも投げ掛けたような気もするが、思い当たる節が多すぎて確定できない。

坂上の話は続く。

「伊藤に嫌われないためには、俺がもっとしっかりせねばと思った。お前は昔から優等生だろ?ここの英語科は偏差値高いし、それを推薦で決めたくらいだ。でも俺はどうにか受けて引っ掛かったこの大学しかない。いつだって伊藤の足元にも及ばない」

何か言いたいけど、いつもよりも弱気の彼を見てると言葉が出なかった。

琴線に触れる勇気は私にはない。

「こんなだらしない男が、優等生で将来も約束されてるような伊藤の隣を歩く。それはとてもできなかった。だからせめて伊藤に嫌われないように距離を保とうって思ってた」

「綾乃ちゃんだって完璧な人じゃない、私よりも」

頭がよくて、美人で、何をしてもスマートで。

歩いていただけで華がある、そんな人だ。

文句なんてないし、私とは比にならない。

「綾乃は完璧ではないよ、大事なところがぽっかり穴を空けている」

「穴が空いてる?」

「そう。本音を俺は聞いたことがないんだ。俺にとっては重要なことも、綾乃は一切話そうとしなかった。今回みたいにね」

一つずつ、一つずつ何かを吐き出すかのようにぽつりと言葉を続ける。

それは自傷行為に似ていた。

少しずつナイフで切り裂いて、自分がどんな存在なのか認識できるように。

赤い血を流すように。

「たぶんそれは俺では塞げない。いつもその跡を埋めていたのは小林瞬だ」

恵里佳ちゃんに聞いたとき、私が抱いた小林の印象。それと同じだ。

話し終わると、坂上は崩れ落ちるように椅子に座る。

私はその様子を見ていて、なにも言えなくなる。

「だから、伊藤。お前にだけは嫌われたくなかったんだ。伊藤にまで俺から目を反らしたらいったいどこでこの自分にも空いてる穴を埋められるんだろう…なんてな。勝手にもほどがあるよな」

私は立ち上がって椅子に座って項垂れる彼の肩を抱いた。

それはごく自然で、何の考えもなくそう行動していたし、気持ちがそうさせていた。

坂上は黙ったまま抵抗することはない。

「何年海ちゃんの理解者やってると思ってんの?そして私の理解者も何年やってると思ってんの?」

海ちゃん。

昔は当たり前だったこの呼び方もずいぶんと離れていたけど今はとてもしっくりきた。

「今さら理解者降ります、なんて許さないんだから」

坂上は黙って私の背中に手を回していた。

触れたくて触れたくて、でも壊れそうな彼を支えることに精一杯だったのに。

「まゆちゃん、ありがとな」

坂上から昔のあだ名が出たとき、人は奥底では昔の想いは消化できないもんだと思った。

それくらいきっと坂上と過ごしてきた時間は長くて、誰にも代わりが務まらないものなのだ。

落ち着きを取り戻した私たちはまた向かい合うように座り、コーヒーを飲む。

なにもなかったように。

「お互いの理想に敵う人物になろうとしたら、遠周りしたね」

坂上はゆっくりと残りの2杯目のコーヒーを飲みながら私の言葉に返した。

「それが運命ってやつかもよ?」








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