坂上海翔の憂鬱
今まで俺はきっと人に言えないくらいのことをしてきた。
付き合った女なんて何人か覚えてないし、
むしろ一夜のみなんて考え始めたらもっと分からない。
言い寄ってきた女でできるやつはやったし、
ビンタされてひどい!なんて言ってきたヒステリックな女は無視してきた。
来るもの拒まず、去るもの追わず。
その度に何してるいるんだと自己嫌悪に襲われる。
分かっているのに、自分ではコントロールできない。
だからいつも話していたんだ、
何を話しても絶対な引かない、かつ女どもが勝手に作り上げた俺の理想を押し付けない、伊藤真由子にだ。
「また別れたんだ」
あれは高校2年のときだった。
調子をこいて3つも年上の女と付き合ったとき。
別れた原因は無論俺の浮気だ。
その日はとても寒くて、雪の予報が出ていた冬。
白い息を吐きながら伊藤は塾から帰宅した。
伊藤はクラスいちの秀才なのに、その現状では満足できないのか、塾に毎晩通っていた。
鍵穴に差し込もうとしていた伊藤が振り替える。
俺は犬みたいに外で伊藤の帰りを待っていた。
「何してんのよ」
鍵から手を離し、俺の方を向いた伊藤は無表情で愛想なんてなかった。
「だから、別れた」
伊藤はため息をついて腰に手をおいた。
「ねぇ、私が坂上の彼女と別れたって言われて喜ぶと思ってんの?毎度言ってるけど興味ないから。他のあんたを狙ってる女に言ってよ」
伊藤はしばしば文句を言ってくる。
毎回、俺がこう切り出すと。
でも話は聞いてくれる。姉さんみたいなやつだ。
「ははは、そうだったな。悪い」
話を切り上げようとすると、伊藤がこちらに歩いてくる。
「何よ、いつもなら詳細言うのに」
「だってさすがのお前も引きそうだもん」
「いつも引いてるわよ」
伊藤はいつの間にか俺の家の前に来て、不機嫌そうなのに俺の前でしゃがむ。
目線は同じになり、話を続ける。
「俺、元カノの親友に手出した」
沈黙。伊藤はただ何も言わずにいる。
「そんなつもりなかったんだけど、なんつーか親友さん綺麗で。俺の誘いにもなかなか着いてこないやつでその…」
「最低」
一言だけ告げてきっと睨む。
思わず怯むと伊藤はため息をつく。
「あんたね、女のこと軽く考えすぎなのよ。元カノの親友に手を出す?バカじゃないの。元カノだけじゃなくてその親友まで傷つけて、しかも友情台無しにして。本当最低よ。あんたは別れたら関係ないかもしれない。でも元カノと親友はどうよ?元通りなんか無理よ。人の人生をあんたのバカみたいな欲求で終わりにすんな」
いつもならまたー?とかで終わりだった。
呆れて、ため息をつかれて終わり。
そうなるかと考えた当時の俺は浅はかだった。
「坂上、あんたには絶望したわ」
立ち上がって、一息つききっと睨む。
「もっと良識ある人だって思ってたのに」
「伊藤!」
声をかけてもその日振り向かずに家に入ってしまった。
それから2週間も口を聞いてくれなくて、俺はその時ものすごく不安に感じてしまった。
何を言っても引かないから、ではなくてこんなダメな俺のことを何だかんだ言いながらも尻をたたいてくれたこと。
それは長年の幼馴染みとして精一杯励ましたり、更正させたりしてくれていたんだって。
それ以来俺は浮気というものはしなくなった。
それでも別れ話が止まらなかったのは一夜のみはなかなか克服できなかったからだ。
伊藤は呆れながら、でも笑って言ったんだ。
「坂上が本気で好きになった彼女がいたら会ってみたいわね、きっと無理だけど」
***
「今日で川原と連絡とれなくなって1ヶ月だな」
堀田は部室の隅でスティックとジャンプの本を机の上に並べてなんちゃってドラムをやっていた。
その姿を見ながら俺はギターの弦を変えながら聞き流している。
堀田の言う通り綾乃と連絡が取れず家にも行ったものの人の気配はあまりしていなかった。
それでも車はあるし、夜逃げみたいなことはしてないのは分かった。
「そうだな」
「海翔、川原の家行った?」
「行ったよ、何の音沙汰もなかったけど」
「そっか…」
堀田は俯いたまままたなんちゃってドラムを叩いている。
とてつもなく罰の悪そうな顔で。
「隠し事はなしだぞ」
冗談のつもりで言葉を言い放った。
堀田はただ無言でうんともすんとも言わない。
いつの間にかなんちゃってドラムを叩いていた手も止まっていた。
堀田はなにかのつっかえを取るように少しずつ話始める。
「これ、噂なんだけどさ。川原がその…あれだよあれ。自主退学のなんか出したって聞いて」
俺は弦をいじっていた手を止めた。
堀田の口から出てきた言葉の意味が理解できなかった。
綾乃が自主退学?そんなことあるかよ。
あいつは品行本性で、成績優秀、美人で…俺の中の彼女はいつでも完璧で。
「嘘だろ?そんなバカなことあるか。いい加減なこと言うなよ」
「俺だって100%信じてない!海翔にこのこと言わないのだって川原らしくないし…」
近づいて肩を、思いきり押さえて俺は堀田を見た。
堀田は少し顔をひきつらせながらも目線は外さない。
嘘なんてこいつは言ってない。
そう目か訴えてることくらい分かっている。
けど予想を上回る現実が降りかかってきたとき人間は冷静にはなれない。
俺の頭の中はかなりの勢いで混乱していた。
「誰から聞いた」
「気にすることないよ…学部違うやつだし…信憑性はないよ…」
「俺の質問に答えろよ。誰から聞いたんだ」
俺も同じく目線をずらさずにまっすぐ見て尋ねる。
堀田は諦めたのか力が入っていた肩がどんどん緩んでいく。
「経済の友達。インターン、一緒だったから。海翔は知らないよ」
「…名前は」
「分かんないって!俺会わせたことないもん!その件は俺からもっと詳細聞くから!」
「いいから教えろよ!!!」
声を大きく荒げると、堀田はびくっとしてついに目を反らして俯いた。
肩を捕まれたままもっと脱力していく堀田。
もう降参とい言わんばかりにふてぶてしくため息をつく。
「小林瞬ってやつ。川原の友人らしいけど、お前知らないだろ?」
「小林瞬?」
初耳だった。
そもそも綾乃といると他の男の話題なんて出ない。
交遊関係は俺もそこまで把握してなかったし、何より追求もしなかった。
同じだけ疑い、追求すれば、俺も同じことをされ、隠したい過去を自ら曝すことになるからだ。
俺は、臆病だから。
綾乃の昔の男関係なんて聞く勇気はなかったと思う。
「知らないだろ?川原はそれを話してみてないみたいだった。俺だって最近知ったんだ。びっくりしたよ」
掴んでいた力を緩めて手を離すと、堀田はそのまま椅子にもたれかかった。
「悪までも噂だよ。信じることはない。小林くんが何でそこらへんの事情知ってるかなんて俺も分からないよ。でも加賀美さんは知ってる。というより高校から同じだったらしいから」
加賀美も小林瞬という男の子とは触れなかった。
二人揃っても話題に出ないし、なによりそこに伊藤がいても出てこない。
だからその話をされても俄に信じられない。
なにより綾乃の彼氏をやっているのに何にも知らされなかったことのほうが辛い。
俺は綾乃に堀田も伊藤も紹介したのに。
隠されていたなんて。
無言のまま上着をとりあげてドアに向かう。
「海翔!」
堀田が後を追いかけてくる。
俺はドアノブに手をかけてゆっくり押すと、軽くまるでなにかに引かれるようにドアが開く。
ドアか開き目の前の景色か開けたとき、俺はその原因知る。
「どうしたのよ、血相変えて」
伊藤真由子だった。
伊藤の手には例のごとくそこそこ分厚い資料が握られていた。
普段と変わらない、彼女の格好。
強いて言うならば、いつもは携帯なんか気にしない伊藤には珍しく右手に強く握られていたくらいだ。
「悪い、あとで話す」
伊藤を横に押して思いきり全速力でかけて部室を出る。
堀田が追いかけてくることは分かっていたけどこの足を止めるわけにはいかない。
俺には確かめなくてはならないことがある。
何の計画もない。
ただひとつ目標を胸に秘めて。
小林瞬本人に話を聞くことだ。
***
小林瞬の居場所を分かった訳じゃない。
でも経済学部がこの時間どこの棟を使ってるのかはサークルのやつに聞いて突き止めた。
チャイムが終わるのを待って、俺は待ち伏せしていた。
数分後、都合良く一人で現れた小林に声をかけた。
「小林瞬くんだよね」
小林は特に驚いた顔模せずに俺を見てきた。
「坂上海翔くんが俺なんかに用があるわけ?」
名前を知っている小林に少々驚きながらも、俺は冷静を、装っていた。
「山ほどあるよ」
小林と俺はほぼ暗黙の了解で人が少ない中庭に向かう。
チャイムが再びなる頃には大学の4限目が開始され、外に出ている学生は一斉に減る。
そのチャンスを逃すのはおしい。
中庭に向かうと予想通り誰もいない。
ひとつ大きな机と椅子に座り腕を組む。
小林も向かいに座りかちらをまだ見ていた。
「お前だな。綾乃が自主退学なんて作り話でっちあたげたのは」
まだ、なにも話さない。
その態度はとても飄々としている。
冷静で、おちついていて落ち着いていて、感情論でやり過ごそうとする俺とは反対岸にいる。
「綾乃が自主退学なんかするわけない。全部お前が作り上げたものなんだろう?」
「その根拠はあるのかよ」
「は?」
小林は極めて冷静に言葉を選んでいた。
目を反らさずにじっと見つめている。
「なぜ綾乃が自主退学をしないと言い切れるのかを聞いてる」
「何でって…綾乃がそんなリスク高いことするわけないし、俺に何の相談もないとか、そんなのおかしいし…」
自分で言いながら纏まっていないことくらい分かっていた。
情けないことに、綾乃が何故その選択をしなければならなかったのか、或いはその選択をするわけないと自信があったのか分からなかった。
彼女と過ごした日々を思い返してもそや確固たる証拠なんてさっぱり出てこなかった。
俺は何にも綾乃のことなんて知らない。
「綾乃に限って人生棒降るようなことしないし、独断でこんなこと決めたことなかったし」
同じようなことを小林は繰り返した。
その言い方に腹が立ってきて、俺の手は震えていた。
もう少しで殴りそうになる一歩手前、小林が口を開く。
「…俺だってそう信じてきたんだ。綾乃の良き理解者である自分、綾乃に頼られてる自分その姿に何度も酔ってきた。君が現れてもその自信は揺らがなかったよ」
口もとが少し弛んで歪んだ表情が浮かぶ。
手の震えはいつのまにか止まっていた。
「君と付き合ってから綾乃は嫉妬を覚えた気がするよ。今までそんなの興味なかったのに。そして俺も君と綾乃が歩く度に歯軋りをした」
小林は言葉を選びつつも、自分の感情を全面に押し出してくる。
「我ながら馬鹿らしいと思ったよ。でも綾乃はいつも言ってたんだ、海翔は光だって。埋もれてしまいそうなくらい」
「何だよ、それ」
「まだ分からないのか?綾乃は嫉妬してた女がいるんだよ。お前の近くにいる女のこと」
「近くの?」
ゼミやら、授業やら、サークルやら、俺は思い返してみた。
ぐるぐるぐる、駆け巡る顔、顔、顔。
「綾乃は相手のことを知るのをいつも拒否したんだ。嘘をついて、思ってないことを口に出して、偽ってきたんだ。それを越えてしまったとき、綾乃は悟ったんだよ」
小林の迷走する話の節々を聞きながら思いめぐらす顔。
「この人が本当に求めてるのは私じゃない」
蚊の鳴くような小さな声で小林は呟いた。
「その台詞、綾乃が?」
弱気とも取れるその発言をする彼女は俺には想像できなかった。
「伊藤真由子にだったら海翔の素も本音もきっと受け止められるけど、私にはできない。そんな勇気ない」
思考回路が停止した。
伊藤の名前が出てくること事態予想なんてしてなかった。
綾乃自信がそこまで伊藤に対して白旗を挙げていたことも、これっぽちも分からなかった。
「綾乃は本当に自主退学したよ。申し訳ないが俺も彼女が何してるのかは知らないんだ。伊藤には負けると公言してても、君のことは諦めてなかったよ。代わりでもいいからって言っても綾乃は聞いてくれなかった。止められなかったんだ」
小林が話す言葉ひとつひとつを整理できなかった。
伊藤には勝てない?
代わりになりたい?
止められなかった?
俺はその場で力が抜けてそのまま座り込んだ。