獣化できない出来損ないと捨てられた私を、銀豹の将軍が番として迎えに来ました
獣化できず「出来損ない」と虐げられてきた令嬢と、八年間彼女だけを探し続けた銀豹の将軍のお話です。
1万3千字ほどの短編です。気軽にお楽しみいただけたら嬉しいです。
ゴルトハイム侯爵家の朝は、本邸の大食堂から聞こえる笑い声で始まる。
けれど、その笑い声の中に私の声が混ざったことは、もう何年もない。
私が暮らしているのは、本邸の裏手にある古い離れだ。もとは庭師の道具小屋だったらしく、扉を開けると今でもかすかに土と鉄の匂いがする。
(今日も、いい天気)
小さな窓から差し込む光に目を細めて、私は井戸へ水を汲みに出た。
金狼の名門、ゴルトハイム侯爵家。王国でも指折りの古い獣人の家で、一族の者は皆、十を過ぎる頃には見事な金色の狼へと姿を変えられるようになる。その毛並みの美しさは代々の誇りで、本邸の大広間には、歴代当主の獣化した姿を描いた肖像画がずらりと並んでいる。
そして私、ルチア・ゴルトハイムは、十八になった今でも一度も獣化できたことがない。
耳も、尻尾も、牙も出ない。どれだけ集中しても、どれだけ父に叱られても、私の体は人の姿のままだった。
「出来損ない」
父がはじめてそう呼んだのは、私が十一の誕生日を迎えた夜だった。
それから家の中で、私の名前はほとんど呼ばれなくなった。
水を汲み終えて離れに戻ろうとしたとき、本邸の勝手口から侍女頭が顔を出した。
「ルチア様。奥様が、昼までに洗濯物をすべて片づけるようにと」
「わかりました」
侍女頭は私と目を合わせずに扉を閉めた。様付けで呼ぶのは、かろうじて残った礼儀の名残だ。けれど、命じられる仕事は下働きの娘と変わらない。
(もう、慣れたけれど)
洗濯場へ向かいながら、私はそっと胸元に触れた。服の下には、母の形見の細い銀の鎖がある。
母は私が七つのときに亡くなった。物静かで、獣人の名家に嫁いだとは思えないほど穏やかな人だった。母もまた、獣化したところを誰にも見せたことがなかったと、あとになって聞いた。
灰色がかった亜麻色の髪も、青みがかった灰色の瞳も、私は母から受け継いだ。金色の髪ばかりのこの家で、その色はひどく目立った。
「お母様も、出来損ないだったのかしら」
ぽつりとこぼした独り言は、洗濯桶の水音に消えた。
母が亡くなって一年もしないうちに、父は新しい妻を迎えた。それが継母のイザドラで、一緒に屋敷へやってきたのが異母妹のヘレナだ。ヘレナは、父と継母のあいだにもともと生まれていた娘で、私よりひとつ年下になる。
ヘレナは九つで見事な金狼に獣化した。その日、本邸では盛大な祝いの宴が開かれ、私は離れから窓の明かりだけを眺めていた。
客人が屋敷を訪れる日は、私は朝から離れを出てはいけないことになっている。
一度だけ、言いつけを知らずに庭で客人と鉢合わせてしまったことがあった。上品な老婦人は私の色の違う髪を見て、首をかしげた。
「あら、こちらのお嬢さんは?」
「新しく雇った下働きですの。気の利かない子で、お恥ずかしい」
継母はにこやかにそう答えた。父は、私のほうを見もしなかった。
その夜、私は夕食を抜かれた。客人の前に出た罰だと言われた。
(あの日から、私はこの家の娘ではなくなったのかもしれない)
それでも離れを出ていかなかったのは、ほかに行く場所がなかったからだ。それに、母が眠るこの屋敷の墓所を、ひとりきりにしたくなかった。
昼前、洗濯物を干し終えた頃、本邸のほうが急に騒がしくなった。
「戦が終わったぞ!」
「北方軍が勝ったそうだ! 将軍閣下が、三日後に王都へ凱旋なさる!」
使用人たちの声が、庭まで弾むように聞こえてくる。
(戦が、終わった……)
隣国との戦は五年も続いていた。北の国境の砦が何度も攻められ、そのたびに王国軍が押し返したと聞いている。
その北方軍を率いていたのが、銀豹の将軍カシウス・エルグランド。戦場では「銀の死神」と恐れられ、敵国の兵は彼の姿を見ただけで逃げ出すという。
私には遠い世界の話だった。……そのはずだった。
その日の夕方、離れの扉が乱暴に叩かれた。
「お姉様、聞いた?」
扉の向こうに立っていたのはヘレナだった。金色の髪を丁寧に巻き、新しいドレスの裾を持ち上げている。離れの土埃が気になるらしく、決して敷居をまたごうとはしない。
「凱旋のお話なら、少しだけ」
「その続きよ。カシウス将軍閣下はね、陛下から褒賞を賜るんですって。それで閣下が望まれたのが……」
ヘレナはもったいぶるように言葉を切り、うっとりと目を細めた。
「ゴルトハイム家の娘を、ひとり」
「……え?」
「わかるでしょう? この家で娘と呼べるのは、私だけだもの」
ヘレナは私の頭から足先までを眺めて、くすりと笑った。
「お姉様は当日、離れから出てこないでね。閣下の前に出来損ないがいたら、我が家の恥になるから」
言いたいことだけ言って、ヘレナは軽やかに本邸へ戻っていった。
(ゴルトハイム家の、娘をひとり)
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
けれど私は首を振って、その感覚を追い払った。英雄と呼ばれる人が、離れで洗濯をしている娘を望むはずがない。
私は母の銀の鎖を握りしめて、いつものように固いパンをかじった。
三日後。
ゴルトハイム侯爵家は、朝から屋敷じゅうが浮き足立っていた。
玄関には花が飾られ、広間には最高級の茶葉と菓子が用意された。父は一番上等な礼服に身を包み、継母は宝石をいくつも身につけている。そしてヘレナは、仕立てたばかりの薄紅色のドレスで、何度も鏡の前で回っていた。
私は言いつけどおり、裏庭で洗濯籠を抱えていた。
(せめて、遠くからお顔だけでも見られたらよかったけれど)
王都じゅうが噂する英雄だ。少しくらい興味があっても許されるだろう。けれど、表に出れば父に何を言われるかわからない。
昼過ぎ、表門のほうでひときわ大きなざわめきが起きた。
馬のいななき、鎧の擦れる音、そして使用人たちの息をのむ気配。将軍閣下が到着されたのだと、見なくてもわかった。
(……さあ、洗濯の続き)
籠の中の敷布を広げようとした、そのときだった。
ふいに、裏庭の空気が変わった。
風が止まったような、森の奥で大きな獣に見つめられたような、そんな静けさ。思わず顔を上げると、生け垣の向こうに背の高い人影が立っていた。
銀色の髪。陽の光を弾く、灰青色の軍服。
頭の上には同じ銀色の丸い耳があって、背中の後ろでは、黒い斑紋の入った長い尻尾がゆっくりと揺れている。
その人は、まっすぐに私を見ていた。
「閣下! そちらは裏庭で……っ」
慌てて追いかけてきた父の声が、遠くで聞こえる。
けれど、銀色の人は振り返らなかった。生け垣を回り込み、一歩、また一歩と、私のほうへ近づいてくる。
(え……どうして、こちらに?)
洗濯籠を抱えたまま、私は動けなかった。
近くで見るその人は、想像していた「銀の死神」とはまるで違っていた。鋭い金色の瞳。整った顔立ち。けれどその瞳は、怖いくらいにやわらかく揺れている。
私の目の前で、その人は足を止めた。
そして、ためらいもなく地面に片膝をついた。
磨き上げられた軍靴が土に汚れるのも構わずに。王国一の英雄が、洗濯籠を抱えた私を、下から見上げている。
「ようやく、迎えに来られた」
低い声が、かすかに震えていた。
「俺の番」
手から力が抜けて、洗濯籠がどさりと落ちた。
「……つ、が、い?」
自分の声とは思えないほど、かすれた声が出た。
番。獣人にとって、生涯にただひとりの相手。魂が呼び合う、運命の伴侶。
(私が? 獣化もできない、出来損ないの私が?)
「閣下、お待ちください!」
息を切らした父が、裏庭に駆け込んできた。その後ろには、真っ青な顔の継母と、ドレスの裾をつかんだヘレナが続いている。
「それは、その……私どもの家の、いわば使用人のようなもので」
「使用人?」
将軍閣下が、ゆっくりと立ち上がった。
振り返ったその横顔を見て、私は思わず息をのんだ。さっきまでのやわらかさが嘘のように、金色の瞳が冷たく凍りついている。
「侯爵。俺は陛下に、ゴルトハイム家の娘をひとり、と申し上げた」
「は、はい。ですから、娘のヘレナを……」
「この方は、あなたの娘ではないのか」
父の口が、ぱくぱくと動いた。
私は父の娘だ。戸籍の上でも、血の上でも。それを否定することは、さすがの父にもできなかった。
「……長女の、ルチアでございます。ですが閣下、この子は獣化もできぬ出来損ないで、閣下のお相手にはとても」
「獣化できるかどうかを、俺がいつ問うた」
静かな声だった。それなのに、裏庭にいた全員が凍りついた。
閣下の尻尾が、ぴたりと動きを止めている。獣人の尻尾が止まるのは、怒りが限界に近いときだと聞いたことがある。
「将軍閣下!」
声を上げたのはヘレナだった。頬を上気させ、私の前に割って入る。
「何かのお間違いですわ。私、ヘレナと申します。閣下のために、今日のドレスを仕立てましたの。それにほら、獣化だってお姉様と違って」
言いながら、ヘレナの髪がふわりと逆立った。金色の耳と尻尾が現れ、指先の爪が鋭く伸びる。見せつけるような、美しい半獣化だった。
けれど、閣下はヘレナを一度も見なかった。
「マティアス」
「はいはい、ここに」
生け垣の陰から、ひょいと別の軍人が顔を出した。三角の耳に房毛のついた、山猫の獣人だ。
「馬車を回せ。この方をお連れする」
「了解です。……いやあ、八年越しですもんね。そりゃ待てませんよね」
「余計なことは言うな」
(八年越し……?)
意味がわからずに瞬きをしていると、閣下がもう一度私のほうへ向き直った。凍りついていた瞳が、また溶けるようにやわらいでいく。
「怖がらせて、すまない。説明はすべて、あとでさせてほしい」
差し出された大きな手。剣を握り続けてきたのだろう、固くて、傷の多い手だった。
「ルチア。俺と一緒に来てくれるか」
生まれてはじめて、誰かに名前をこんなふうに大切そうに呼ばれた。
気づけば私は、その手に自分の手を重ねていた。
背後でヘレナが何か叫んでいたけれど、閣下の背中に遮られて、私にはもう何も見えなかった。
連れてこられたのは、王都の東にあるエルグランド将軍邸だった。
大きくはないけれど白い石造りの美しい屋敷で、庭には手入れの行き届いた薬草園まである。
「お、お世話になります……」
玄関でそう頭を下げると、出迎えた使用人たちが一斉に目を潤ませた。
「まあ、ついに……!」
「旦那様、本当に見つけてこられたのですね……!」
(え……? な、何?)
戸惑う私の横で、閣下が咳払いをした。けれど、その後ろで尻尾がぶんぶんと左右に揺れているのが、どうしても目に入ってしまう。
「マティアス副官。あの、閣下の尻尾は……」
「ああ、あれ? 気にしないでください。うちの将軍、顔には出ないんですけど、尻尾は正直なんで」
「マティアス」
「はーい、黙りまーす」
通されたのは、陽当たりのいい客間……ではなく、どう見ても女主人のために整えられた部屋だった。
淡い若草色の壁紙。窓辺に飾られた白い花。天蓋つきの寝台には、ふかふかの毛布が何枚も重ねてある。
「ここが、君の部屋だ」
「わ、私の?」
「いつか迎える日のために、ずっと用意していた。気に入らないところがあれば、すべて変える」
「気に入らないなんて、そんな……」
離れの固い寝台と、隙間風の吹く窓を思い出して、胸がぎゅっと詰まった。
侍女たちに湯浴みをさせてもらい、柔らかなドレスに着替えて食堂へ下りると、テーブルにはあたたかな料理が所狭しと並んでいた。
焼きたてのパン。具だくさんのスープ。蜂蜜をかけた林檎の焼き菓子。
(こんなに……食べていいの?)
おそるおそる手を伸ばすと、向かいに座った閣下が、じっと私を見ていた。
「あの、閣下は召し上がらないのですか?」
「カシウスだ」
「え?」
「閣下ではなく、名前で呼んでほしい」
真顔で言われて、私は困ってしまった。王国一の英雄を、名前で呼ぶなんて。
「……カシウス、様」
小さくそう呼んだ瞬間、彼の尻尾がテーブルの脚にごつんとぶつかった。
「っ、大丈夫ですか!?」
「問題ない」
問題ない、と言いながら、カシウス様は片手で顔を覆っている。耳の先がほんのり赤い。
(……もしかして、照れていらっしゃる?)
なんだか急に、この人が怖くなくなった。
食事のあと、カシウス様は私を暖炉の前の長椅子に座らせ、ひとつの包みを差し出した。
中から出てきたものを見て、私は言葉を失った。
色褪せた、生成りのショール。端には、銀糸で小さな三日月の刺繍が入っている。
「これ……お母様のショール……」
母が縫ってくれたものだ。ずっと昔、私はこれを森でなくしてしまった。いや、なくしたのではなく……。
「八年前、北の森で」
カシウス様が、静かに語り出した。
「俺は十八で、まだ一兵卒だった。国境の小競り合いで深手を負って、気づいたら獣化したまま戻れなくなっていた」
獣人が獣化から戻れなくなるのは、獣性に呑まれかけている証だ。そのまま戻れなければ、やがて理性を失い、ただの獣になってしまう。
「仲間ともはぐれ、森の中で死ぬのを待っていた。そこに、小さな女の子が来たんだ」
その言葉で、記憶の底から一つの光景が浮かび上がった。
十歳の冬。私は継母に言いつけられて、ゴルトハイム家の領地にある北の森へ薬草を摘みに行かされていた。摘み終える頃にはすっかり日が暮れて、木々のあいだから丸い月がのぞいていた。
その木の根元に、大きな銀色の獣が倒れていた。血に濡れて、牙をむいて、低くうなっていた。
(怖かった。でも、すごく苦しそうで)
私は母がよく歌ってくれた子守唄を口ずさみながら、その獣の頭をそっと撫でた。何度も、何度も。
やがてうなり声が止み、銀色の毛並みが光るようにほどけて、そこには傷だらけの若い男の人が倒れていた。
「……あれは、カシウス様だったのですか」
「ああ。君は自分のショールを俺にかけて、助けを呼んでくると走っていった」
そうだった。私は森の外まで走って、通りかかった兵士たちに場所を伝えた。けれど、帰りが遅いと継母にひどく叱られて、そのことを誰にも話せなかった。ショールのことも、なくしたと言うしかなかった。
「目を覚ましたとき、手元に残っていたのはこのショールだけだった。あのときは、君の名前も知らなかった。だが、匂いだけは覚えていた」
カシウス様の金色の瞳が、まっすぐに私を見つめた。
「あの日、俺は君が番だとわかった。……そして同時に思い知った。名もない一兵卒では、君を迎えに行くことすらできないと」
「それで……将軍に?」
「戦功を積めば、陛下に願いを申し上げられる。それだけを考えて、八年戦った」
八年。
この人は、たった一度会っただけの私のために、八年も戦場に立ち続けたのだ。
視界がにじんで、膝の上のショールにぽたりと雫が落ちた。
「どうして、泣く」
「わ、わかりません。でも、私……ずっと、いらない子だと思っていたので」
獣化できない出来損ない。家の恥。いないほうがいい娘。
そう言われ続けてきた私を、八年も探してくれた人がいた。
カシウス様は少し迷うように手を浮かせて、それから、壊れ物に触れるようにそっと私の頭を撫でた。あの日、私が彼にそうしたように。
「君がいらない子だったことなど、一度もない」
低く、穏やかな声。
ふわり、と何か柔らかいものが私の背中に回された。見ると、カシウス様の銀色の尻尾が、私の体を包むように巻きついている。
「……尻尾が」
「すまない。勝手に動く」
「勝手に?」
「君のそばにいると、制御がきかない」
大真面目な顔で言われて、私は泣きながら、少しだけ笑ってしまった。
その夜、カシウス様はもうひとつ、大事なことを教えてくれた。
「ショールの三日月の紋を、王宮の書庫で調べた。……古い記録に、同じ紋があった」
「お母様の刺繍に、意味があったのですか?」
「おそらく。だが、確かめたいことがまだある。近いうちに、陛下にもお目通りを願うつもりだ」
その横顔が、少しだけ険しくなった。
「君の父上が、このまま黙っているとは思えないからな」
将軍邸での日々は、何もかもが信じられないことの連続だった。
翌朝、目を覚ましていつもの癖で井戸を探しに部屋を出ようとすると、扉のすぐ外にカシウス様が立っていた。
「お、おはようございます……? いつから、そこに」
「少し前からだ」
少し前、とおっしゃるけれど、廊下の窓辺には冷めきった紅茶の杯が置かれている。控えていた侍女がこっそり「夜明け前からです」と教えてくれた。
「君が本当にここにいるのか、確かめたくなった。……すまない、気味が悪かったか」
「いいえ、そんな」
首を振ると、カシウス様の尻尾がほっとしたように一度だけ揺れた。
洗濯や掃除を手伝おうとすれば、使用人たちが青い顔で止めに入る。厨房で皿を洗おうとすれば、料理長に「旦那様に叱られます!」と泣きつかれる。
何もしなくていい一日というものが、私にはどうしても落ち着かなかった。
「では、薬草園のお手入れだけでも、させていただけませんか」
思いきってそうお願いすると、カシウス様は少し考えてから頷いた。
「あれは、君のために作った庭だ。好きにしていい」
「私のため、ですか?」
「君は、あの森で薬草を摘んでいただろう」
八年前の、たった一度の出来事。それをこの人は、庭ひとつ作るほど大切に覚えていてくれたのだ。
薬草園で土に触れていると、マティアス副官がひょっこり顔を出した。
「いやあ、よかった。ようやくこの庭にも持ち主ができた」
「マティアス副官は、ずっと閣下と一緒に?」
「ええ、北の砦からずっと。野営の焚き火のたびに『あの子は今ごろ寒くないだろうか』ですよ。八年間、毎晩。俺、あなたの話だけで本が一冊書けます」
「ま、毎晩……」
「しかも名前も知らないもんだから、ずっと『あの子』。顔も知らない相手に、俺まで情が移っちゃって」
マティアス副官はけらけらと笑い、それから少しだけ真顔になった。
「だから、来てくれてありがとうございます。あの人、あなたの前でだけは、ちゃんと人の顔をしてるんで」
その日の夕方、仕立て屋が屋敷にやってきた。五日後に王宮で開かれる戦勝の宴に、私を伴って出席するのだという。
「わ、私が、王宮に……?」
「君を隠すつもりはない。俺の隣に立つのは君だと、皆に知ってもらう」
仕立て屋が広げた布は、どれも淡い銀色や月白の、やわらかな色ばかりだった。
「君の髪には、この色が似合うと思っていた」
金色の髪ばかりの家で、ずっと疎まれてきた私の髪の色。
この人はそれを、似合うと言ってくれる。私は胸がいっぱいになって、返事をするかわりに小さく頷いた。
カシウス様の予感は、すぐに当たった。
五日後、王宮で戦勝を祝う宴が開かれた。
仕立て上がった月白のドレスは、歩くたびに裾が淡く光を含んで揺れた。侍女たちが丁寧に梳いてくれた亜麻色の髪には、カシウス様が選んだ小さな銀の髪飾りが留められている。鏡の中の自分が、自分ではないみたいだった。
「……綺麗だ」
支度を終えた私を見て、カシウス様はそれだけ言うと、しばらく黙りこんでしまった。尻尾が扉の枠にぶつかる音が、三回聞こえた。
カシウス様にエスコートされて広間に入ると、ざわめきが波のように広がった。
「あれが、将軍閣下の……」
「ゴルトハイム家の長女ですって。獣化できないという」
「出来損ないの娘を、なぜ閣下が?」
ひそひそと交わされる声に、思わず足がすくむ。
(やっぱり、私なんかが来ていい場所じゃない)
うつむきかけたとき、腰に添えられた手に、そっと力がこもった。
「顔を上げていい。君を笑う者は、俺が覚えておく」
「……覚えて、どうなさるのですか」
「さあ。北の砦の掃除当番でも任せようか」
冗談なのか本気なのかわからない口調に、ふっと肩の力が抜けた。隣を歩くマティアス副官が、「あれ本気ですよ」と小声で教えてくれた。
国王陛下への挨拶を終え、広間の隅で一息ついていたときだった。
「ルチア!」
鋭い声に振り返ると、父が人垣をかき分けて近づいてくるところだった。後ろには継母と、目を赤く腫らしたヘレナがいる。
「お父様……」
「この恥知らずが。家の許しもなく男の屋敷に上がり込むとは、ゴルトハイムの名に泥を塗るつもりか」
父の大きな声に、周囲の視線が一斉に集まった。
「侯爵。この方を連れ出したのは俺だ。陛下の許しも得ている」
カシウス様が私の前に立った。けれど、父は引き下がらなかった。
「閣下はご存じないのです。この娘は、獣化もできぬ欠陥品。閣下ほどの方の番にふさわしいはずがない。何かの間違いに決まっております」
「そうですわ、閣下」
継母が、すがるように言葉を重ねた。
「どうか、ヘレナをお連れくださいませ。ヘレナならば、閣下の隣に立つにふさわしい見事な金狼に」
「黙れ」
低い一言で、継母が凍りついた。
「俺の番を、二度と欠陥品などと呼ぶな」
カシウス様の声は静かだった。けれど、広間の空気が一気に張りつめる。
父の顔が、怒りでどす黒く染まっていくのがわかった。
「……番、番と。獣化もできぬ者に、番などわかるものか!」
父が吠えた、その瞬間。
父の髪が、ざわりと逆立った。
「侯爵、ここは陛下の御前だぞ!」
誰かが叫んだ。王の御前での獣化は、反逆と見なされても仕方がない重罪だ。それでも、父の体は止まらなかった。
顔の輪郭が獣のそれに歪み、口元から鋭い牙がのぞく。背中が大きく盛り上がり、上着の縫い目が音を立てて裂ける。金色の毛並みが、波のように全身を覆っていく。
理性を失いかけた、暴走に近い獣化だった。
「きゃああっ!」
悲鳴が上がり、貴族たちが一斉に後ずさる。
カシウス様が私を背にかばい、腰の剣に手をかけた。
「マティアス、陛下を……!」
(だめ)
頭で考えるより先に、体が動いていた。
(このままじゃ、お父様が……!)
カシウス様の腕をすり抜けて、私は父のほうへ駆け寄った。
「ルチア!」
カシウス様の声が聞こえた。目の前には、半ば狼と化した父の、血走った金色の瞳。
怖くないと言えば嘘になる。でも、あの日の森で倒れていた銀色の獣と、同じ目をしていた。苦しくて、戻り方がわからなくなった目だ。
私は、毛に覆われた父の腕に、そっと手を触れた。
「お父様。……戻ってきて」
母の子守唄を、小さく口ずさむ。
八年前の森で、そうしたように。
その瞬間、触れた手のひらから、ひやりとした光があふれた。
月の光のような、淡い銀色の光だった。
父の喉から漏れていたうなり声が、ふっと止んだ。
逆立っていた金の毛並みが、溶けるように引いていく。歪んだ輪郭がほどけ、牙が消え、盛り上がっていた背中がしぼんでいく。
気づけば父は、破れた礼服のまま、人の姿で床に膝をついていた。
「な……なにを……」
呆然と私を見上げる父の目には、もう獣の色はなかった。
広間は、しんと静まり返っていた。
誰ひとり、声を出さない。何百人もの視線が、私ひとりに注がれている。
(わ、私、何を……?)
自分の手のひらを見つめて、私は立ち尽くした。光はもう消えている。けれど、まだ指先がほのかにあたたかい。
「――月守、か」
静寂を破ったのは、玉座のほうから聞こえた声だった。
国王陛下が、ゆっくりと立ち上がっていた。
「エルグランド将軍。そなたが先日申し出た件は、これか」
「はい、陛下」
カシウス様が私の隣に戻り、陛下の前に膝をついた。私も慌ててそれに倣う。
「王宮書庫の古記録によれば、かつてこの国には、獣人の獣性を鎮め、人の姿へと還す一族がいたとあります。その身に獣を宿さぬゆえに獣化はせず、代わりに月の光のごとき力を持つ。紋は、銀の三日月」
カシウス様が懐から取り出したのは、あの母のショールだった。銀糸の三日月が、広間の灯りを受けてきらめいた。
「月守の一族。建国の頃、獣性に呑まれた初代国王を鎮めたと伝えられ、王家が代々その血を守ってきた。……百年前の流行り病で途絶えたとされていましたが」
「生き残りがいた、ということだな」
陛下の視線が、私に向けられた。
「ルチア・ゴルトハイム。そなたの母の名は」
「エ……エレオノーラ、と申します。生家のことは、何も話さない人でした」
「エレオノーラ」
陛下は小さくその名を繰り返し、深く息をついた。
「そなたの母は、おそらく一族の最後のひとりだったのだろう。身を隠して生きることを選んだのかもしれぬ。そしてその娘であるそなたもまた、獣化できなかったのではない。最初から、獣化する必要のない血だったのだ」
(獣化する、必要のない……)
出来損ないではなかった。欠陥品でも、家の恥でもなかった。
母も、私も。
胸の奥で、ずっと固く凍っていた何かが、静かにほどけていくのがわかった。
その一方で、床に座り込んだままの父の顔からは、みるみる血の気が引いていった。
「お、お待ちください、陛下。私は、そのようなことは何も……」
「知らなかった、と申すか」
陛下の声が、冷たく響いた。
「月守の血を引く娘を、獣化できぬという理由で離れに追いやり、下働き同然に扱っていた。そのことは、すでにエルグランド将軍から聞いている。……そして今宵、余の前で牙を剥き、その娘に救われた」
父は何も言い返せなかった。周囲の貴族たちが、汚いものを見るように父から距離を取っていく。
「ゴルトハイム侯爵。御前での獣化は本来、爵位剥奪に値する。だが、月守の娘に免じて命までは問わぬ。侯爵位は伯爵位へ降格、北の領地は王家預かりとする。沙汰は追って下す」
「そ、そんな……」
継母が、その場に崩れ落ちた。
ヘレナは顔を真っ青にしたまま、震える声で叫んだ。
「嘘よ……! お姉様は出来損ないなのよ! 何もできない、ただの……」
けれど、その声に耳を傾ける者はいなかった。ヘレナの近くにいた若い貴族の青年が、気まずそうに一歩離れる。ヘレナが近々婚約すると噂されていた、伯爵家の嫡男だった。
(……ヘレナ)
かわいそうだと、思わなかったわけではない。
けれど、それ以上に何かを言う気にはなれなかった。十年分の夜を、私は離れでひとりで過ごしてきたのだから。
「ルチア」
カシウス様が、私の手を取った。
「帰ろう。君の居場所は、もうここにはない」
頷いて立ち上がると、陛下が最後にもう一度だけ声をかけてくださった。
「月守の娘よ。エルグランド将軍を頼む。あれは北の戦で、何度も獣性に呑まれかけておる」
「……え?」
驚いて見上げると、カシウス様は気まずそうに目を逸らしていた。
(何度も、呑まれかけて……?)
帰りの馬車の中で、私はそっと聞いた。
「カシウス様。戦場で、つらい思いをなさっていたのですか」
「……少しだけな」
「少しだけ、ではないと、陛下はおっしゃっていました」
しばらくの沈黙のあと、カシウス様は小さく息をついた。
「銀豹の獣性は強い。戦が長引くほど、戻るのが難しくなった。……そのたびに、あのショールの匂いを嗅いで、君のことを思い出して、なんとか戻ってきた」
胸が締めつけられた。
この人は、私が離れで泣いていたあいだも、たったひとりで戦っていたのだ。私の記憶だけを頼りに。
私は、膝の上に置かれた大きな手に、自分の手を重ねた。
「これからは、もう、ショールでなくても大丈夫です」
「ルチア……」
「私が、そばにいますから」
カシウス様の金色の瞳が、大きく見開かれた。
次の瞬間、私はその腕の中に強く抱きしめられていた。
「……一生、離さない」
耳元で囁かれた声が、震えている。
背中に回った尻尾が、もう二度と逃がさないとでも言うように、私の体にしっかりと巻きついた。
窓の外には、満月が昇っていた。
ふと、カシウス様が腕の力をゆるめて、私の顔をのぞきこんだ。
「君の瞳は、満月の夜には銀色になるんだな」
「え?」
「八年前の森でも、そうだった。……あの夜から、ずっと、この色を探していた」
そう言って、カシウス様は私の目元に、そっと唇を落とした。
(カシウス視点)
銀豹の獣性は、飢えに似ている。
戦場で剣を振るうたび、血の匂いを嗅ぐたび、体の奥で獣が目を覚ます。人の理性を食い破って、外へ出ようとする。
八年前、俺はそれに負けかけた。森の中で、もう二度と人に戻れないのだと覚悟した。
そこへ、小さな手が触れた。
ひどく冷えた、あかぎれだらけの手だった。それなのに、その手が触れたところから、荒れ狂っていた獣性が嘘のように静まっていった。
かすれた子守唄。月の色をした瞳。そして、甘く澄んだ匂い。
ああ、この子だ、と思った。
理屈ではなかった。魂の一番深いところが、そう叫んでいた。
目を覚ましたとき、あの子はもういなかった。残っていたのは、三日月の刺繍が入った小さなショールだけ。
あの森がゴルトハイム侯爵家の領地だったことは、すぐに調べがついた。あの家には娘が二人いるとも聞いた。けれど、名もない兵士が侯爵家の門を叩いたところで、追い返されるだけだ。
あかぎれの手を思い出すたび、俺は奥歯を噛んだ。あの子は今も、どこかでひどい扱いを受けているのではないか。それなのに、俺には確かめに行くことすら許されなかった。
だから、戦った。
あの子を迎えに行ける身分を手に入れるまで、何度獣性に呑まれかけても、ショールの匂いを頼りに戻ってきた。
そして凱旋の日。侯爵家の門をくぐった瞬間、あの匂いがした。
着飾った娘が待つ玄関からではなく、屋敷の裏手から。
あのときの俺の尻尾は、副官いわく「見たことがないほど暴れていた」らしい。……否定はしない。
今、ルチアは俺の腕の中で、すうすうと寝息を立てている。
馬車に揺られるうちに眠ってしまったらしい。月明かりに照らされたまつげが、ほんのり銀色に光っている。
「……もう、どこにも行かせない」
小さく呟いて、細い肩を抱き寄せる。
尻尾がまた勝手に彼女の腰に巻きついたが、今夜はもう、止める気にもならなかった。
月守の娘。獣を鎮め、人へ還す者。
陛下はそう呼んだけれど、俺にとっては、もっと簡単な話だ。
彼女は、俺が人でいられる、たったひとつの理由だ。
これから先、何度獣が目を覚まそうと構わない。
この手がある限り、俺は何度でも人に戻れる。そして何度でも、彼女を隣に置いて、この腕に抱きしめるのだ。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
八年越しに迎えに来た銀豹の将軍と、獣を鎮める「月守」の血を引くルチアのお話、楽しんでいただけましたでしょうか。
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