無面の愚者
霜が顔につき、溶けた水がポタポタと顎から流れ落ちた。破れた手袋から覗かせる指は真っ赤に腫れ上がり既に感覚はない。悴んだ指先で草むらを必死に掻き分ける。
近くに見えたはずの町まで何時間歩いたことやら。ここまで遠いとは思わなかった。早く動き始めるべきだった。手元すら見えない夜中に歩き回るのは危険すぎる。
今更になって後悔が胸を刺すが今となってはどうしようもない。
今日は何も口にしていない為か胃が刺すように痛んだ。
かき分けるたび、硬い葉先が首筋を撫でる。濡れた衣服は体に重くのしかかり、草の根に爪先を引っかけてはその都度つまずきかけた。進んでいるというより、蔓延る泥と草の塊に足をとられ、ただもがいている感覚に近い。
どれだけ進んだのかも分からない。ふと、目線を塞ぐ草の丈が低くなり、視界が開けていくのに気づいた。
同時に鼻を突く青臭さに湿った油と埃の匂いが混ざり出した。
飛び出した先には山沿いを進む幹線道路が下方に見えた。遂に舗装路が見えたのだ。延長線上には建物の影がポツンと聳え立っている。
その瞬間、踏み込んだはずの右足の摩擦が消え、前に視界が大きく傾いた。
崖だった。
悲鳴を上げる間もなく、身体が斜面を勢いよく転がり落ちる。濡れた土と石が容赦なく肌を削り、激しい衝撃とともに硬いアスファルトの上へ叩きつけられた。
多分…折れてない
…畜生
最早先に怒りが湧いてきた。やけくそ気味に手を付き、最後でもない力を振り絞って立ち上がる。
不快な虫の羽音が耳を突く。周りを蚊が飛んでいつ止まるか様子を伺っているようだった。
やっと腕に止まり、針を刺すその瞬間に叩き潰す。追い払うでもなく一番不幸に出来る方法にしたかった。
デコピンで蚊の残骸を飛ばすとちょっとスッキリした。
その建物はショッピングモールのようなスーパーのようなところだった。もちろんもぬけの殻で廃墟だ。
生鮮食品コーナーに足を踏み入れるとカビと腐敗の生暖かい臭いに思わず顔を顰めた。
インスタントコーヒーはもう食いたくない。
今日の分だけでも見つけないと。
「何?」
気づかれていた。
彼女はパスタの乾麺をバックに詰め込みながら黄色い目はこちらを凝視している。
声を出すまで長いような短いような突っかかりがあった。
「…あなたは?」
「そんなの分かりきってることじゃない。アンタと同じ」
「どうやって...」
彼女はそれに答えない。
「なんでパスタを?」
「食えるものはこれで終わり。持ってけるものは持っていくしかないだけ。気になるんなら見て行けば?もう何も無いから」
周囲のスチール棚は埃を被っていた。
空になった缶詰が大量に積み重なっている。さらに空の缶詰が投げられるとガシャガシャと金属の擦れる音が霧散して鳴る。
彼女に怪訝な視線も送るがなんの反応もない。
「いつ頃にここにきたの」
「二ヶ月とちょっと前」
「ここに来る前は…」
「本題は?」
少女はそれらを巨大なバックに押し込みファスナーを閉める。そして私の声を遮って睨みつけた。
「まさかアタシと雑談するために来たんじゃないんでしょうね?まぁこの後なんの話をするのかなんて目に見えてるけどね」
もう言うしかない。もしかしたら分かってくれるかもしれない。会話をさせてくれるだけまだ希望はある。
震える心を必死に抑えながら言う。
「あのっ…少しだけ食べ物を分けてもらったり出来ませんか?」
「無理、分かってたでしょ」
なぜ…そんなことが言えるのか。
喉元まで迫る胃液は意外と苦く、今でも胃袋を焼いている。
「少しだけ…今晩の分だけでいいので…なんとかなりませんか?」
俯いた顔を覗き込むようにこちらを見てくる。
「なんで貰えると思ったの?明日死ぬかもしれないのにアンタのことを気にかけなきゃなんないの?」
如何にも不思議そうに。無邪気に。楽しそうに。そんな声で。
ソレに手をかける。
ダメだ。
あれだけはいけない。それでは彼女以上に残酷になってしまう。
彼女のために死ぬのか?名も知らぬ彼女に?
きっと彼女には余裕があるのだ。少し分けたとしても彼女は生活に支障はないはずだ。
それなのにも関わらず彼女は拒否した。きっとそれは意図的なものだろう。
憎しみをもって、優越感のために、愉悦を得ようとしている。
なぜ彼女の愉悦のために死んでやらなければならないのだ。
それ以上の憎悪を持ってお返しするのだ。
それならばコレも仕方ない…の…だろう…
自らの人間性を押し下げに行くのだ。
冷や汗が頬を撫でた。迫る胃液をもう一度押し下げようと唾を飲み込む。
「すみません」
奥歯を噛み締める痛みに耐えつつ震える腕を彼女へ向けた。
煤臭い銃口は、激しい動悸に合わせて揺れながらも、かろうじて彼女の胸元を指し示していた。残された弾丸が何発あるのかすら知る由もない。
彼女は驚く様子もなく初めて口角を上げた。
「最初からそれやればいいのに〜、知ってた。じゃあ次はこうかな?撃てるものなら撃ってみろよ」
両手を挙げつつにじり寄る。やめてくれ。なんでわざわざ煽ってくるのだ。
「少しだけでいいんです。今晩の分だけでいいんです。後は自分で捜しますから…、だからお願いします」
残酷になるつもりなど毛頭ない。銃なんかに頼りたくなんてないのに、仕方ない。
プライドなんかかなぐり捨てて縋り付く。
これなら。きっと、わかってくれるはずだ。
相手は呆れたように、大げさに息を吐いた。
「銃向けて言うことがそれ? はぁ......、しょうもな。」
「…お願いします」
「ほら言ってみなよ? 武器を捨ててゆっくり両手を挙げろ~とか、騒ぐな~とか」
悪党に仕立て上げようとする言葉が、一方的に捲し立てられる。
「さっさと金を出せ〜とか、身ぐるみ全部置いてけば命だけは助けてやる~ 強盗らしくさぁ? ほらほら」
やめろ。そんな言い方をするな。
黙ってくれーー
反射的に引き金が引かれる。
地面を穿つ甲高い破砕音と一瞬の閃光が弾けた。跳弾した弾が彼女の頬を掠める。一面に硝煙が立ち込め、焦げた匂いに取り囲まれる。
思わず衝動的になってしまった…。
頬の傷口から少しだけ、血が滲んでいた。彼女は笑みの失せた目をこちらから逸らさずに、そっと、血を拭った。
掠れた声で吐き捨て、心底心底、軽蔑するように鼻で笑う。
「結局不快になったから撃つの? 癇癪? …じゃあ死ねよ…気持ち悪い」
彼女は吐き捨てるなり、足元の大容量バッグのファスナーを荒々しく引き開けた。
怒りに任せて中身をガサゴソと漁ると、ビニール袋をこちらへ投げつけてくる。床を滑ってつま先に当たったそれには、備蓄用の水パックと乾パンが乱雑に詰め込まれていた。
今晩の分どころではない。数日は持ってしまう。
怒っているのではなかったのだろうか。感情の波が読めず呆然としてしまう。
「これ貴重じゃないの?」
「あぁ!? 生のパスタなんか渡してアンタが食えんの!? 水も火もないのにそのままガリガリ噛み砕いて食うわけ!?」
突然のまくしたてるような大声に、思わず肩が跳ねる。
「でもこんなに…」
「ちまちま渡してまた『明日食べるものが〜』とか言って目の前に現れられたら鬱陶しいの! 一回で全部済ませて二度とアタシの前に面見せないで!分かった!?」
やはりずっと軽蔑の目は消えていない。
「……はい」
「もう二度と関わらないで! じゃ!」
バッグのベルトを肩に引っ掛け、足早に生鮮コーナーの闇奥へと去っていく。
埃が舞い、寸分先も見えない。
声を掛ける隙間も無かった。
またこの暗闇にはいつも通りの静寂が空間を満たしていく。
乾パンは缶詰になってて開ける手段がない。身体も既に力を入れる程の余力はもうない。
横を向くと鏡が置いてあった。
咄嗟に座り込んでそれを見ないように顔を覆う。
自分の顔は見るに耐えない程、酷かった。
脅し、乞い、そして暴力。それらを駆使して生き残る手段を得たのだ。誇ればいいさ。
折角の袋を知らぬところへ投げる。結局は回収するだろう。
こんな時でさえ心は自己保身を続ける。そうやって今までも生きてきたのだ。全て相手のせいにして言い訳を並べ立てる速度だけは誰にも劣らない。きっとこの思考ですら自己保身と言わざる負えない。
脅したことに変わりはないと言うのに。
全てを忘れたい。
それならば。
自身のこめかみへと銃口を添える。出来れば即死がいい。
思考を真っ白に。
何も考えないように。
引き金を一気に、
一気に、
引けなかった。




