黒塗りのカレンダー
会社のカレンダーには、未来を牢獄のように仕切る枠に文字がびっしり詰まっていた。トップとしての予定表だ。外出先、会議室の名前、顧客の名。一日だけで47の予定。会議室Dは“空きがあれば入ってください”とだけ書かれた地獄だった。見るたびに喉の奥が冷たくなり「気持ち悪い」と小声で呟いた。
キュポン。
何かに取り憑かれたように私はキャップを外した。黒のペン先を紙に押し当てると、最初はきっちりとした正方形ができた。だが二つ目、三つ目と塗るにつれ、インクの光り方が少しずつ変わっていく。濃すぎて紙の繊維が潰れる箇所、ペン先が滑ってにじむ箇所、力を抜くとふわりと薄くなる箇所。黒はひとつの「色」ではなく、呼吸する影のようだった。いつの間にか私は、まるでオーケストラの指揮者のようにペンを振るっていた。
日付も、予定も、何も見えない。重要だったはずの商談も、資料の提出日も、出張先の名前も、頭のどこかで「もしも」が罵るように痛む。しかし手は止まらない。隙間なく塗り込む作業の単純さが、頭の痛みを溶かしていった。真っ白な空白の休暇ではなく、磨かれた黒の今がそこに残る。
黒い四角は徐々に大きくなり、やがて、ひと月の枠が黒い塊になった。そして、日という概念が音もなく削げ落ち、胸がふっと軽くなる。今日は何かをしなければならない、という呪いが消えた──あるいは別の形に変わっただけかもしれないが、違いはわからない。
私は高揚を噛みしめ、仕上がった黒い面をデスクの周りに貼り付けた。現代美術の展示めいた並びは、どこか誇らしかった。予定は分からないが、会社の売上を左右する交渉も、数百人の動きも、この薄い紙の上で私が指一本動かすだけで変わるのだ。
私は秘書を呼んだ。彼女は戸惑いと恐怖が混じった表情で入ってきた。手を小刻みに擦り、汗が滲んでいる。
「見たまえ」
私は言った。声は普段のそれより少しだけ穏やかだった。秘書は黙って視線をさまよわせる。部屋の黒い塊の間を、彼女の不安と理解不能が交互に走る。
インクの強い匂いが、私を奮い立たせる。
「私には今日という概念も、明日という概念もない。ただ黒い“今”があるだけだ。たぶん、何か予定はあるのだろう。だが……私はやる気に満ちている」
彼女はゆっくりと黙礼してから退出した。後ろ姿がドアの向こうでひどく小さく見えた。私は席に戻り、もう一度カレンダーを見た。黒はもう、予定を消したのではない。予定を塗り替え、別の秩序をつくっていた。私はその秩序の長であり、その中で唯一やる気のある人間だ。そう思うと、胸の奥が冷たく震えた。
──荘厳たる部屋の雰囲気を楽しんでいると、ノートパソコンが白く光った。それは秘書からの一通のメールだった。
私はそのメールを見て、愕然とした。
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このたびは、大変申し訳ございませんでした。こちらで予定を詰め込みすぎるあまり、黒く塗りつぶされ、予定が見えなくなっていることに気づきませんでした。ですが、ご安心下さい。すべての予定は電子できっちりと残されており、黒く塗りつぶされた部分につきましては、業務記録保持のため全日写真を撮影しております。今後はさらに大きなカレンダーに書き込むようにしっかりと改善いたします。
また、今般の心拍数上昇につきましては、健康管理部門にて“心拍数安定化”の予定を追加いたしました。
今後の予定ですが──
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たぶん今後の予定がメールにすべて書かれている。私は後半の予定の羅列が黒に押しつぶされ、読むことができなかった。私はノートパソコンをパタリと閉じた。
──キュポン。
黒はまだ終わっていない、と言っているようだった。私は静かに、それを受け入れた。




