第一章4「猜疑心」
帰宅した三藤義弘は、共同用のリビングにあるソファーでひと息つく。
「中間テストで、全教科を八割以上か……」
担任の木村先生に言われたことを思い出し、肩に錘が掛かった気分になる。
テスト対策はしている……とは言ったものの、ただ教科書を眺めているだけでは、良い点は取れないだろう。
「参考書がほしくなるな……。でも、最近の参考書、高いのが多いんだよなー」
物価が上がった影響か、参考書の値段も学生には痛い金額になりつつある。
特に、僕のような貧乏学生には、参考書を一つ買うだけでも経済が揺らぐ。
それに、買うなら全教科の分も買わないといけなくなるだろうしな……。
こうなったら、管理人のおばさんに家賃を待ってもらうか……。
僕がそう思ったところで、突然――。
「だーれだ!」
「……っ!?」
僕の視界が真っ暗になる。
だが、聞こえてきた声で誰が何をしたのかは、何となく察しがつく……。
「白石さん……。こんなつまらないイタズラをするなら、この手を噛むぞ?」
そう……。白石さんが、背後から僕の両目を手で覆ってきたのだ。
何のつもりかは知らないが、すごくウザい……。
そう思っていると、彼女は――。
「私の手、噛むのは良いけど、美味しくないよ?」
「いや、食べないよ! 病気になりそうだし……」
「ひっどーい! 私、そんなに汚くないよ? お風呂だって毎日、入浴剤までこだわって長く浸かってるし……」
「そんなこと知るか!」
脅しのつもりで言ったのだが、彼女は天然だった……。
すると、そんな白石さんはソファーを回り込んで、僕の隣に腰掛けてくる。
そして――。
「隙あり! チュ……!」
「……っ!?」
完全に不意を突くタイミングで、頬にキスされる……。
最近、やけにこういったアプローチが多いな……。
さすがに二回目となると大丈夫……と思ったが、いつになっても慣れないな……。
普通に嫌な気持ちになる……。
「な、何するんだよ?」
「ふふふ……。昨日、次に会うときはソファーに気をつけろって言ったでしょ?」
「確かに言ってたけど……」
「義弘君は学校から帰ると、いつもこのソファーでくつろぐって統計があるからね!」
「どんな統計だよ……。というか、普通に気持ち悪いわ!」
どうやら、昨日の警告は、白石さんなりの少し洒落たイタズラだったみたいだ……。
すると、彼女は――。
「どう? 私のこと、本物の"彼女"にする気になった?」
まだそのことを諦めていなかったようだ……。
「彼女どころか、同じ空気すら吸いたくないよ」
「えー、なんで、なんでぇー? 私、頑張って毎日アプローチしてるんだよ?」
「アプローチの仕方がおかしいんだよ……」
「例えば、どういうところが?」
「全部だよ! こうやって体を密着させてくるところとか、不意打ちにキスしてくるところとか!」
僕がまくし立てると、白石さんは残念そうに肩を落とすのだった。
「そんな……。私、こんなに義弘君のこと、好きなのに……」
「残念だったな。好きになる相手を間違えたな」
「女の子は、本気で男の子を好きになったら、暴走しちゃうんだよ……?」
「それは男でも同じだ……」
そう……。二年前の僕がそうだったから。
風花との思い出を辿ると、あの頃の僕は完全に我を忘れていたんだなと思ってしまう。
あの頃は、彼女に好かれるのに必死だったからな……。
だから、今の白石さんを見ていると、二年前の自分と重ね合わせてしまう。
すると、そんな僕に白石さんが――。
「あっ、これ、忘れないうちに渡しておくね!」
そう言いながら、彼女は鞄から何かを取り出す。
「これは……?」
「参考書だよ」
白石さんが渡してきたのは、参考書の束……。
しかも見たところ、今度の中間テストで出題される単元ばかりを集めたものだ。
「……え、こんなにいいのか? 高かっただろ?」
僕がそう訊くと、白石さんは――。
「いいのいいの! 義弘君、勉強するのに参考書いるかなって思ってさ! えへへ……」
彼女はニッコリと無邪気に笑ってくる。
何だろう、このモヤモヤした気持ち……。
嬉しいはずなのに、嬉しいと思ってはいけない感覚……。
この彼女の優しさが全部、嘘なのではないかと、猜疑心が心に渦巻くのだ。
だから――。
「いらないから、自分で使ってくれ……!」
僕は、彼女の善意を手で振り払った。
そのせいで、僕の手に弾かれた参考書が、次々と彼女の手から落ちていく。
ああ、やってしまった……。
僕は残酷な人間……。
そして、とんでもなく弱い人間だ……。
こうやって、人の善意を素直に受け取らずに、悉く捨て去っていく……。
だからもう、こんな面倒な人間には関わらないでくれ、白石さん……。
でないと、白石さんが壊れてしまう……。
今の僕は、猜疑心に支配された化け物だ……。
しかし、僕がそう思っていると、彼女が――。
「ごめんね。参考書、落としちゃった……」
「え……」
僕のせいで参考書を落としてしまったというのに……。彼女は自分のせいにして謝ってきたのだ。
そして、彼女は――。
「ふふ……。やっぱり私じゃ、風花ちゃんには勝てないんだね……」
地面に散らばった参考書を拾った後、白石さんはすごく切なそうに笑うのだった。
やめてくれ……。そんな悲しい微笑みを見ていると、何だかすごく心が痛むじゃないか……。
そして、彼女はソファーから立つと、そのまま自分の部屋へ行こうとする。
その途中――。
「この参考書、私じゃ理解できないから、捨てておくね。ごめん、気に障ることしちゃって……」
こちらに振り向く白石さんの笑顔……。
いつもの白石さんじゃない……。何で……? あのいつものウザったい笑顔はどうしたんだよ……?
見ていて痛々しいほど、今の白石さんの笑顔は脆く見えた……。
女は嘘つきだ……。
それは、二年前の風花が教えてくれた呪い……。
でも、それは、自分自身に対しても同じじゃないのか……?
だって、あの笑顔……。明らかに無理して笑ってるじゃないか……。
僕のせいで、白石さんがツラい気持ちに"嘘"をついて、あんな笑顔を作っている……。
そんなの――何か嫌だ。
だから、それに気づいた僕は――。
「待ってくれ、白石さん……!」
思わず、彼女の背中を追いかけていた。
すると、白石さんは驚いた顔をする。
「ど、どうしたの、急に?」
「その参考書……。やっぱり、もらっていいか? その……。今度の中間テストで役に立つかもしれないからさ……」
僕がぎこちなく言うと、白石さんは――。
「ふふ……、あっはははは!」
心の底から楽しそうに笑うのだった。
「な、何で笑うんだよ!?」
「いや、だって……。可愛いから」
「か、可愛い!?」
急にそんなことを言われたら、調子が狂うな……。
でも、いつもの白石さんが戻ってきて、何だか不思議と、安心している自分がいる。
すると、そんな僕に、白石さんが――。
「ふふ、隙あり! チュ……!」
また頬にキスしてくるのだった……。
「な、何するんだよ!?」
「はい、これ! 渡したからには、絶対に特待生になってよね!」
彼女は、そうまくし立てると、今度こそ自分の部屋へ戻っていった。
「な、何だったんだ?」
僕は、彼女に累計で三回もキスされた頬に手を当てる。
さすがに三回目となると大丈夫……と思ったが、いつになっても慣れそうにないな……。
でも、不思議と――嫌な気持ちではなかった。